【1-2】
富井は二年程前に航空機事故で両親と兄夫婦を一度に亡くしており、縁は兄夫婦の遺した彼にとって唯一の身内と言える存在である。
母親が応募して当てたテレビ番組の懸賞の旅行券で、父親の定年退職祝いとまだ新婚旅行に行っていなかった兄夫婦。そして縁の五人でハワイへと旅行することになったのだが、出発前に縁が体調を崩したため兄夫婦は旅行をキャンセルし両親だけでもハワイに行くかという話になった時に、それを富井が止めたのだった。
「やっぱり親父と母さんだけだと海外は不安だよ。俺が休みを取って縁の面倒を見るから兄貴達も行って来いよ」
「お前が? 仕事忙しいだろ」
「俺の顔を見ると忙しい忙しい言うのは本当に止めて欲しい」
同情するならまだしも『本当に休めるのかよ? 嘘吐くんじゃねえぞ』と言う疑惑の目が辛かった。
富井の務める会社は海外のアンティーク家具や雑貨を買い付けて、一般向けよりは高級路線で企業や好事家への販売を目的とする。 社員数が三桁よりも一桁に近い二桁の小さな商社だった。
社員数が少ない割には業務は複雑で一人一人が抱え込む仕事量は多い。
更に富井の場合は若くて体格も良く空手の経験者でもあるので、治安が宜しくない地域での商談にも重宝されていた。
「鉄砲玉かよ」と抗議する富井に社長は優しく「保険はかけておいたから」と答えた。
「悪いな。だけど大丈夫なのか?」
まだ疑いはとけていなかった。
「今やってた買い付けの仕事が中止になって、ちょっと余裕があるんで、今の内に溜まっている有休を消化するから問題ない。というか今しか有休を消化するチャンスはない」
「中止って、何か問題あったのか?」
「クライアント側の方で問題があったらしいが詳しい事はまだ分からないんだよ」
「だけど折角の休みを、本当に良いのか? 正月を除いてまとまった休みなんて就職して以来じゃないのか?」
盆休み等という風習は海外にはない。横文字の癖にゴールデンウイークだって日本独自のものだった。
「そうか、せっかくの休みを申し訳ないが頼んでいいか?」
申し訳なさそうに申し出る兄。
「構わないよ。長い休みが取れても計画を立てて旅行に行くとか、そういう方向に気力が湧かないようになっちまったから、家で独りダラダラするよりも、縁とどこか遊びに出かけたりしてまったり過ごした方が楽しいさ」
「弘ぃ……」
「可哀想な奴を見る目は止めろ。兄貴だって何だかんだで今まで新婚旅行も行けなかったくせに」
「俺のところは、出来婚の上にかなりギリギリのタイミングだったろ。式から一月半で出産だから、それから子育てと仕事の方も少し忙しくなったとかなんやかんやで今までっていう流れだから、お前ほど忙しかった訳じゃない」
そんな事があり、旅行中は富井が縁を預かる事になり、当日は母親の軽自動車を富井が運転し、兄夫婦のアパートに行き、そこから兄の車に乗り換えて空港まで縁と一緒に見送りに行った。
「裕君、縁の事を頼むわね」
「修学旅行の旅のしおりの何倍も分厚い【縁ちゃんQ&A】を貰ったから大丈夫だよ」
百ページはあろう大作冊子を顔の横で振って応じた。
「縁も裕叔父ちゃんのいうことをしっかり聞くのよ」
「は~い!」
「ちゃんと病院に連れて行ってね」
「大丈夫です。任せて下さい義姉さん」
「縁も懐いているし一週間くらいなら裕君に任せても大丈夫だと分かってるの……でもね、でもね」
義姉の香澄が言い募ろうとするのを兄の亮が「ほら、搭乗手続きが始まったから」とその腕を引いた。
「まあ、二人とも三年半遅れの新婚旅行なんだからこっちの事は心配しないで新婚気分で楽しんできてくれ。何かあったらこちらから連絡するから、そっちから連絡はいらないよ」
「ママ~! 早く帰ってきてね!」
離れがたい想いに娘へ手を伸ばす母に対して縁はあっさりと手を振る。
「ゆ~か~り~っ!」
その叫びは娘との別れの悲しみの叫びか、それとも別れにさほど悲しみを表さない娘への哀しみの叫びだろうか?
富井は四人が乗った大型旅客機が飛び立つのを見送った時の事を思い出す度に、後悔という名の刃が今も自分の胸に深く突き刺さっている事を思い知らされる。
途中病院に行き、縁の診療を終えて車を返しに兄夫婦のアパートへと向かう車中でラジオから流れる緊急速報で四人が乗っていた飛行機の事故を知る事になった。
太平洋上にて原因不明の事故で墜落し、機体は海中深く沈み回収されたのは一部の破片のみで、四人の遺体は発見される事は無かった。
空の棺桶が四つ並ぶ葬式を執り行う。
自分の両親と爺婆の死の意味さえ理解出来無いまま、会えぬ寂しさにしがみついて泣き止まぬ縁を抱きかかえたまま喪主を務めたが、彼自身も憔悴し振り返ってみてもその時の事はあまり記憶に残っていなかった。
ただ自分にしがみ付く縁の温もりだけが彼の気力を支えたのだった。
葬式を終えた二人を迎える実家は、冨井にはまるで他人の家の様に余所余所しく感じられた。
ぐずる縁を寝かしつけた富井は、父親が定年退職という人生の節目でも飲まずに大事に取っておいたマッカランの21年物を開けると、グラスに注いで一気に煽った。
「美味いな……親父が秘蔵するわけだ」
そう呟くと再びグラスに注いで生のまま飲み干した。
深く沈みこむようにソファーに座りテーブルの上からスマホを掴みあげて操作する。
『ただいまおかけになった電話は現在──』
「出ろよ兄貴……義姉さん……何かあったら電話すると言っただろ。今がその何かだよ……出ろよ。早く出ろよ。俺じゃあ、俺だけじゃ縁の涙を止めてやれないんだよ……」
葬儀が終わっても富井は様々な手続きで役所や銀行巡りに忙殺される。
縁の今後についても考えなければならなかった。富井の父方と母方の祖父母はすでに鬼籍に入っており、更に両親はともに一人っ子だったので縁を任せられるような親戚はおらず、また義姉もシングルマザーの家庭で育ち、更に母を既に亡くしており近しい親戚がいなかった。
自分で引き取るか施設に預けるかで悩んだ。最大の問題はどの選択が縁が幸せになれる選択なのかだった。
富井の仕事はやりがいも給与面も水準以上だったが、忙しさに関しては間違いなくブラックだった。
そんな自分が三歳の子供を引き取ってきちんと育てることが出来るのか悩んだ。
だが自分の傍を一時も離れようとしない縁の姿に、縁にとって頼れるのは今や自分しかいないのだと父性的な思いが湧きあがり、これが一時的な感情に過ぎないかもしれないが、この子のためにやれるだけの事はやろうと覚悟を決めたのだった。
しかし、そんな富井の覚悟も吹っ飛ぶ様な出来事が起きた。
元々の休暇と忌引きによる特別休暇を使い切る直前に、社長直々の電話で「わが社は今月末を持って倒産する」と伝えられた。
富井の会社は取引先の大手企業の会長が富井の会社の社長と私的な交友があり、そこを起点とした様々なコネクションをたどって仕事を得ていたのだが、その大手企業が不渡りを出し民事再生法による手続きに入ったため、繋がりのある他の取引先の経営状態も悪化し、多くの取引がキャンセルとなり、既に仕入れた商品の現金化が出来なくなったため規模の小さな富井の会社は短期間で資金がショートし倒産へと陥ったのだった。
「呪われているのか、俺は?」
流石に眩暈がして富井の意識も遠のきかけた。
航空機事故が起こる前なら、まあアラサーとはいえ一人身なので何とかなるか……な? くらいの不安で済んだのだが、流石に扶養家族を抱えた途端に無職という状況は流石に想定外だった。
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