光速の第一歩 その14

014


「それはなかなか大変な現役生活でしたね」


 夜も更けた浜辺でボロボロの青年と育ちのよさそうな少女が談笑しているという絵面はまるで違和感しかなかったと思うけれど、そんな中、かれんちゃんの隣に座り込んだ俺は何を血迷ったのか、これまでの現役時代のことを一通りすべて話してしまった。


 もちろん、普段こんなことは他人に話すわけがないし、何より、出会って間もない、しかもこんな幼い少女に話すようなものでは決してなかったが、しかし、この少女が持つ独特な雰囲気にあてられたのか、俺はすべてを洗いざらい話してしまった。

(とはいえ、もちろん特殊な力を手に入れたことについては話していない)


 そのくせ、かれんちゃんは一切自分のことは話さず、ひたすら俺の方が話し続けてそれを頷き、相槌を打ちながらただただ話を聞くだけだった。


 これではどちらが大人か分からない。


「いえいえ、めっそうもない。私なんてただの子どもですよ。JSです。その筋の特殊な嗜好をお持ちの方には大変評判がいいのですよ?」


「……」


「冗談です。そんな顔しないでください」


 かれんちゃんは時々こんな風に笑えない冗談を言うから始末に負えない。


「まあ冗談は置いておいて、でも、本当に私なんてそんなたいしたものではないのです。少し前までは自分が特別だと思っていた時期もありましたけれど、でも私はやめましたから。特別であることを」


「特別であることを……やめた?」


「ええ、やめました。自ら普通になったのです。だから、今ではそれなりに苦労することもありますけど、でもその分とても幸せで充実していますよ?」


 俺には信じられなかった。自ら特別であることをやめて普通に戻ることなんて、俺は考えたこともなかったから。


「ですから、浅川さんのような方は本当に羨ましいと思うのです。そこまでして、自分の人生をかけてまで執着できる何かを持っている方を私は尊敬しますわ。私は、そんな風にすべてを投げ出してもいいとも思えるものに出会ったのはつい最近でしたので、早くから見つけられた浅川さんが羨ましいです」


「俺が、羨ましい?」


 俺からすべて話を聞き終えたかれんちゃんとは対照的に、俺はかれんちゃんのことをほぼ何も聞いていない。だから、かれんちゃんが何のことを言っているのかは分からなかった。何より、少なくとも俺にはそんなかれんちゃんが一体俺なんかの何を羨ましがっているのかまったく理解できなかった。


「ええ。浅川さんはご自身の現役生活を後悔しているとおっしゃいましたけれど、一体何をそんなに悔いていますの?」


 ――まただ。


 またこの少女はこうやって純粋『そうな』目で俺の心を暴こうとする。まるで、俺の本心や、考えなどすべて見透かしているかのように。


「……特別でいるうちはいいんだ。特別な存在でいられるうちは何も問題ない。すべて自分の持っている才能や、努力や、実績や、自信で乗り越えられるからな。

 でも、いつまでも人は特別なままではいられない。どんな人間でもいつかはその特別さに陰りが見えるようになって、最後には普通の一般人に戻るんだよ」


「……」


「だから、俺は後悔しているのさ。あの陸上にかけてきた時間を、才能を、金を、情熱を、もっと他の人と同じようにくだらない何かに費やせばよかった。

 そうすれば、きっと俺は他のやつらと同じように、社会の中で何不自由なく生きていられたはずなのに。

 他のやつらと同じように、自分の不幸を他人のせいにして、自分の努力不足を環境のせいにして、自分の失敗を運のせいにして、そうやって上手く生きていくことができたはずなのに」


「……」


 まだかれんちゃんは何も言わない。何も言わず、俺の言葉を促している。


「でもダメなんだ。俺には分かってしまう。自分が社会で必要とされていないことが、空気が読めないことが、要領が悪いことが、無駄にプライドが高いことが、何よりも、あれだけ必死でやってきた陸上すらもまともに成功できない自分の不甲斐なさが分かってしまう」


 きっと俺はこうやってダメな自分を直視し続けたまま、そこから目をそらすこともできず、かといって上手く立ち回ることもできずに社会の底辺としてこれからは生きていくしかないのだろう。


 ――それが分かってしまうからこそ、陸上を続けてきたことを俺は後悔している。


「そうですか」


 かれんちゃんは俺の方を向いて呟く。


 その瞳には同情の色はなく、ただそこには誰かを慈しむような、そんな目をしていた。


「やっぱり、浅川さんは『あの方』に似ていますね」


「――?」


「いえ、すいません。お気になさらないでください。こっちの話ですので」


 そう言ってかれんちゃんは優しく微笑む。


「浅川さんも、ご自身の弱さばかりを見ているのですね」


「弱さばかりを、見ている?」


「ええ、そうです。先ほど浅川さんがおっしゃったことは、私からすればそれは強さに見えます」


「……」


 一瞬、俺はかれんちゃんが何を言っているのかまったく理解できなかった。だが、そんな俺を待つことなく、かれんちゃんは話を続ける。


「浅川さんは強い人です。他の人たちと同じように、自分の不幸を他人のせいにせず、自分の努力不足を環境のせいにせず、自分の失敗を運のせいにせず、そうやって上手く生きていくことをせず、自分を偽らない浅川さんは、間違いなく強い人です」


『そんな生き方は、私には絶対真似できません』と、かれんちゃんはそんな風に言うのだった。


 ――謙遜だ。


 かれんちゃんは間違いなく、俺なんかよりもよっぽど強い人間だ。だからきっと、俺にできるようなことなら、この美しい少女は間違いなくこなしてしまうだろう。かれんちゃんとは今日初めて会って話しただけだけれど、そのくらいは分かる。――否が応でも分かってしまう。


 しかし、俺にはかれんちゃんの言葉を否定するような気は起きなかった。


 それには色々な理由はあるのだろうが、結局のところ、――きっと単純に俺は嬉しかったのだろう。


 俺なんかよりもはるかに強く美しいこの目の前の少女が俺を強い人間だと言ってくれた。そのことがたまらなく嬉しかったのだ。


「かれんちゃんは……強いな」


 俺は、俺に勇気をくれた目の前の少女に心から称賛の言葉を贈った。


「いいえ、私は強くなんかありませんわ。でも――」


 そこまで言って、かれんちゃんは少し言葉の間をとった。――まるで、ここにはいない誰かのことを思い出すかのように、目をつぶって、何かを考えているようだった。そして、


「でも、――私には信じている人がいますから。だから私は常に強くあろうとしていられるのです。あの方を信じていられるように、強い私でいたいと、心からそう思えるのです」


 そして、かれんちゃんは出会って中で最も美しく、とても可愛らしい笑顔を浮かべながら、嬉しそうにそう話した。


「その『信じている人』っていうのがさっきから何度か出ている『あの方』って人のことなのか?」


 俺は問いかける。


「ええ、そうですわ。いつか素敵なレディになってあの方を振り向かせて見せますわ」


「……そうか。かれんちゃんなら大丈夫だよ」


「ふふ、ありがとうございます」


 いったいどこの世界に、こんな子に好意を向けられてそれを無下にできる男がいるのか、と思った。


「あ、でもひょっとしたらあまり大人の女性にはならない方があの人の好みからすればいいのかもしれませんね……」


 と、思った矢先、かれんちゃんはそんな不穏なことを言いだした。

(なんだ? かれんちゃんの想い人はロリコンなのか!?)


「まあ、それは置いておいて、浅川さん今日はありがとうございました。そろそろ私は家に帰ります。あまり遅くなると、家のものが心配してしまいますので」


「ああ、こちらこそありがとう。君とこうやって話ができてよかった」


 俺はかれんちゃんに目いっぱいの感謝の気持ちを伝える。こんな時、不器用で上手く言葉が出てこない自分自身がとても歯がゆく感じた。


「ありがとうございます。それでは、また」


 そう言ってかれんちゃんは少し服に着いた砂を叩いて落とすと、どことなく優雅さを漂わせながら、浜辺をあとにした。


 俺は、きっともう二度と会うこともないであろうこの美しい少女に出会えたことを感謝しながら、ただ見送った。


 砂浜には、先ほどよりも決意に満ちた顔つきで砂浜に立つ姿が一つあっただけで、周りにはただ月の光と波の音だけが響き渡っていたが、――しかし、その姿すらも、次の瞬間には浜辺から消え去っていた。

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