光速の第一歩 その12

012


 命からがら逃げ延びた。


 この数日の間で信じられないくらい数多く命の危機に直面してしまったけれど、それでもあの久間倉君という男を目の前にしたときを越える恐怖は感じたことはなかった。


 こうして逃げ延びたことすらも奇跡的で、間違いなくもう二度と関わってはいけない相手だということは肌で感じていた。


「さてと、しかしこれからどうするかね?」


 気づけば俺は先ほどの海岸まで戻ってきていた。特にあてもなく走って逃げているうちにたどり着いてしまったらしい。


「――ん?」


 しかし、先ほどと唯一状況が異なるのは、今度は先客がいたことだった。


 何がそんなに楽しいのか、夜の海を嬉しそうに眺めながら一人の少女がぽつんと浜辺に佇んでいた。


「あら? こんな時間に、しかもこんな人気のない海岸に人が来るなんて珍しいですね?」


「いやいや、それはこっちの台詞だよ、お嬢ちゃん」


『そうですね』と、本当に何がそんなに楽しいのか、嬉しそうに少女は笑いながら俺に対してそう答える。


「あ、申し遅れました。私はこのあたりに住んでおります文月かれん《フミヅキカレン》と申します。えっと……そちらは……?」


「俺は浅川万里。よろしく」


「浅川さんですか。はじめまして。こちらこそよろしくお願いします」


 そう言うと、目の前の少女は座ったままで俺に向かって一礼する。


 それは浜辺に腰かけたままの、形としては礼節も何もないようなフランクな挨拶だったけれど、そのしぐさが自然と堂に入っていて、それはなるほどどうしてこの少女の育ちの良さを感じさせるものであった。


「……ああ、よろしく」


 こういう時、いつも『え? もしかしてあの陸上で有名だった浅川万里選手ですか?』という流れを期待してしまう。

(まあ実際にそんな流れになったことはここ数年で一度もないのだけれど……)


「それにしても、こんな夜更けにお嬢ちゃんみたいな女の子が人気のないところにいると危ないぞ?」


 俺は一応大人として真っ当なことを目の前の女の子へ伝える。まあ厳密には見知らぬ美少女と今こうやって話しているこの状況こそが俺にとっては社会的に見つかったらまずいシーンではあるのだが、それはそれだ。


 ……ロリコンでもあるまいし、こんないたいけな少女相手に欲情する大人などいるものか。


「『かれん』で結構ですわ」


 彼女は優しく、しかし、それでもどこか有無を言わせないような力強い声で俺に対してそう言った。


「……じゃあ、かれんちゃん。こんなところにいたら危ないからさっさと帰った方がいい。さっきもこのあたりにある研究所で火災なんかも起こっているみたいだから、色々このあたりは物騒だぞ?」


「あら? そうでしたのね。だから浅川さんはそんなにボロボロになっているのですか?」


「――!?」


 俺は一瞬、かれんちゃんにすべてを見抜かれたような錯覚に陥ったけれど、そんなわけないと思い直し、適当にはぐらかすことにした。


「い、いやいや、これはその火災とは関係ない。これは単純に……そう、喧嘩。喧嘩してこんな風にボロボロになってしまったんだ」


「……そうですか」


 明らかに疑ったような目でかれんちゃんはこちらを見る。その目はまるで、こちらのすべてを見透かしているかのようで、俺は少し虫の居所が悪かった。


「それにしても浅川さん、喧嘩はいけませんよ? 他人と争っていいことなどありませんから」


「……肝に銘じるよ」


 なぜ俺はこんな小さな女の子に諭されているのか、という話だったが、やはりこの少女からは有無を言わせない何かが溢れ出ていた。


 きっと、ただただ目の前のことだけしか見ずに必死で生きてきた俺のようなどうしようもない人生とは違って、人生経験は短いなりに、色々多くのことを経験してきたのだろう。出会ってまだ数分しかたっていない俺でも、この少女の年齢にそぐわない大人びた雰囲気から、かれんちゃんがこれまで経験してきた困難や苦しみが並大抵のものではなかったということが垣間見えた。


 まあ、俺のような社会の底辺が未来ある若者に対して何を偉そうに言っているのか、という話ではあるのだが。


「いえいえ、そんな風にご自分のことを卑下することはありませんよ」


 かれんちゃんはそんなことを言いながら俺に笑いかけると、


「……やっぱり、どこか『あの人』に似ていますわね」


 と、かれんちゃんは小さな声でつぶやいた。


「――?」


 俺は今一要領を得なかったが、特にそこに対して話題を広げることはしなかった。きっとその人は、かれんちゃんにとってとても大切な存在なのだろうということが何となくわかってしまったから。


 そう思うと、俺は少しだけその人を羨ましいと思った。


 ――そんな風に思い出すだけで、自分以外の誰かを励ますことができる存在であるその人が羨ましかったのだ。


「浅川さん、もしよろしければ浅川さんもここに座ってもう少しお話しませんか?」


 そう言うと、かれんちゃんは自分の座っている横をぽんぽんと手で叩いて、俺に座るように促した。


「ああ、構わないよ」


 そう言って俺は誘われるまま、かれんちゃんの横に腰を下ろす。


 かれんちゃんと同じ視点から見た夜の海や星空はとても綺麗だった。

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