光速の第一歩 その3

003


 十数年前、俺こと浅川万里は当時史上最年少で百メートル走の日本記録を塗り替えた。


 そこからは随分ちやほやされたものだ。


『次は世界だ』なんて、そんなことを世間や陸上関係者は声高に言ったし、元々承認欲求の強かった俺は、人から認められるのが嬉しくて、日本記録を更新してメディアに取り上げられるようになった後も文字通り毎日血の滲む練習を繰り返した。


 正直、世界なんてどうでもよかったけれど、それでも俺は走り続けた。人に認められるために。今思い返せば自分でも異常だと思うくらい走り込んでいたと思う。


 陸上は小学生の頃から続けていたけれど、一度だって走ることを楽しいと思ったことなどなかった。


 ――それでも俺は勝つことは好きだった。


 より厳密に言えば、勝って優越感に浸ることが好きだった。


 人よりも速く走れるようになれば、周りの人間は皆俺に羨望の眼差しを送ってきたし、俺のために何でもしてくれた。


 一般的なイメージではスポーツマンは礼儀正しく、コミュニケーションがとれる人というイメージがあるかもしれないが、俺から言わせればそんなのは『弱い選手』だけだ。


 スター選手と言われる選手になれば、身の回りのことなんて誰かがやってくれるし、例え年上相手であっても気を使う必要などない。相手が勝手に気を使ってくれるから問題ない。


 だからスター選手たちには社会不適合者が多い。でも俺から言わせればそれは当たり前の話だ。環境がそうさせるのだから仕方がない。


 ――そして、当時の俺も例に漏れず、順調に社会不適合者として人格を形成していった。


『速く走る』という分かりやすい才能を持って生まれてきたことを神様に感謝していた――というのは後付けで、実際にはそんな幸運すらも当時は当たり前のこととしか思っていなかった。


 ――しかし数年後、俺は走ることができなくなった。


 いや、厳密には『以前のように』走れなくなったと言うべきか。


 『右膝前十字靭帯断裂』それがニ十三歳のとき俺に出た診断結果で、医者からはもう以前のようには走れないと言われてた。


 それでも俺はリハビリを繰り返し、必死に現役復帰を目指した。


 必死だった。俺が俺でいるために必死でリハビリを繰り返した。


 しかし数年後、俺は現役復帰を果たしたものの、やはりもう以前のようなタイムでは走れなくなっていた。


 そのうち、俺の持っていた日本記録も新たに台頭してきた若い選手たちに抜かれ、誰も俺のことなど気にしなくなり、そして昨年俺は世間の誰にも注目されることなくひっそりと引退した。


 漫画や小説のように怪我から復活した主人公が一回り強くなって戻ってくるなんて希望に満ちた展開なんてない。


 ――あるのはやはり、クソみたいな現実だけだった。

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