ノート



 ★




 翌朝、翔馬は仲井家の前に来ていた。


 昨晩、絵美が部屋を出ていってから、翔馬はもちろん何度も電話をかけてみたが、一向に出てもらえなかった。熱と混乱と頭のヒートアップでぐちゃぐちゃになっていて、こんな状況じゃ俺も冷静になれない、と倒れるように眠りについた。今朝目を覚ますと熱は下がっていて、虚脱感を覚えながら、先に誠に一つ確認しようと思い立ち連絡を入れた。


 仲井家は昔と変わっていない。黒い門の向こうに見える花壇や芝生も、家の外壁の白さも当時の印象のままだ。ということは、外壁は塗り直したのかもしれない。


 そして、澄香がいた部屋も窓だけが見える。カーテンは閉まっていて、中は、どうなっているんだろう。いつお見舞いに行ってもきちんと整理されていたあの部屋は、埃など溜まってはいないだろうか。


 待つこと五分ほど、ドアの向こうから誠が現れた。


「待たせてごめん。朝からどうしたの、キャッチボール?」


「澄香が入院中に書いていたノート、残ってないか?」


 誠の眉が、わずかにピクッと動く。


「何の話、知らないよ」


「俺の携帯に途中まで送られてきてた」


 翔馬は携帯の画面を開いて掲げる。門の前までやってきた誠はそれを一瞥して、溜め息と共に力無く微笑んだ。


「そっか、姉ちゃん、上野君に送ってたんだ」


「なあ、なんで教えてくれなかった。前の別れろっていうのも、これに関係してるんだろ?」


 誠は歯切れ悪く、ああ、と返した。


「あの日の少し前に、偶然見つけたんだ。もう少し、自分で状況を整理しようと思ったんだけど」


「なあ、見せてくれないか」


 確証が欲しい。自分の目で確かめたい。


 その目の真剣さに押されたのか、誠は渋々「待ってて」と言って家に戻った。少ししてから彼は一冊の黄色い表紙のノートを手に帰ってきて、尚も迷いを見せながら、翔馬に手渡す。翔馬はじっくり眺める。よほど使い込んだのか、表紙のあちこちは白く剥げている。


 中を開く。いくつかはメールと同じ内容だったが、ちゃんと一ページずつに絵が付いていて絵本の形式になっていた。字はいつものようにすっと流れていて、絵も、翔馬の記憶よりずっと上手い。ずっと絵は下手だったのにな、と驚く。色鉛筆の淡いタッチは、ほのぼのとした世界観によく合っていた。自分の知らないうちに、彼女はたくさん練習を積み重ねていたのかもしれない。


 最初の方にはメールにない話もあった。たとえばチューくんとチューネちゃんがスーパーでばったり出会う話。たとえばチューくんが福引きで水族館のチケットを当てた話。この次の話が、メールにも会った水族館の話。


 そこからメールにもあった話が続いて、次はチューくんの部屋で誤解からすれ違う話だった。彼女には珍しい、ケンカの話。読みながら、翔馬は唇を噛み締める。


「もう、藤崎と別れてやれよ」


 誠の声が震えている。門の上に置いた彼の手が、握り拳に変わる。


「上野君は、姉ちゃんの幻影にとらわれてるんだ。どうせ姉ちゃんのこと忘れられないんなら、別れてやれよ」


「忘れようとしてるって!」


「じゃあこの状況は何なんだよ!」


 再び野球をできるようになった頃から、澄香のことは忘れようとしてきた。振り払おうとしてきた。なのに、なんでこんなことに。


「なあ、頼むよ。こんなの、絵美が可愛そうだ」


 誠は確かに、絵美、と言った。


「絵美はさ、上野君が本当に好きなんだよ。だから、こんなやり方で苦しめないでやってくれよ、なあ」


 誠の目から涙がこぼれる。


 コイツは、ずっと絵美と一緒に過ごしてきた。彼女の思いをずっと傍で見守ってきた。我が事のように、思っていたのかもしれない。


 自分は、そんな彼を見つめたまま、呆然とその場に立ち尽くす。誠の悔しそうに漏らす声を聞きながら、ノートを落とさないようにするのが、精一杯の力だった。



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