今は、投げることだけ
じっくり、確かめるように、翔馬は軟式ボールを握る。ゆっくりと右腕を回してみた。斜めから壁に当たったボールは、跳ね返りの法則に従い、真っ直ぐ狙った方へ飛んでいく。誠は腰を落としてそれをグローブで掴み取り、笑った。
「投げられるじゃん」
「ああ、人が相手じゃなければなんとかなるかなって」
翔馬は、誠を誘って「イルカ公園」に来ていた。公園の、遊具がある側の奥には高い壁があって、昔から野球やテニスの壁当てには最適だった。その壁を介して、二人でボールを受け渡し合う。
「だけど、後でちゃんとキャッチボールするんだよな」
誠はボールを投げてから、大丈夫? と不安げに言った。翔馬はボールを掴み、右手でぎゅっと握る。
「わからない。でも、やるしかないだろ」
まだ絵美からのエールを受け取って、一晩しか明けていない。でも、決心の固い今じゃないといけない。
少しボールに込める力を増してみようと、足の体重移動を意識する。シュン、と音を立てて、壁に勢いよく当たったボールは、スピードも殺しきらないまま誠の方へ飛んでいく。彼は驚いたように速いバウンドのボールを掴む。
「球筋は大丈夫そうだな」
「明日絶対筋肉痛だ」
はは、と笑いながら、誠もボールに勢いを乗せてきた。彼らしい綺麗なフォームから投げられたボールを、翔馬はショートバウンドでなんとかキャッチする。
「おお、さすがキャッチャー」
「お前もいいフォームじゃん」
ボールをやり取りしながら、昔のことを思い出す。昔は、自分が誠に正しい投げ方を教えたりしていた。なかなかしっくり来なくて、彼はしょっちゅうムキになっていた。
左後ろの方にある滑り台。その上から、澄香と絵美がよく自分たちのキャッチボールを見ていた。どっちかが暴投すると、絵美は下手くそー、と言い、澄香はクスクスと笑っていた。
壁から真っ直ぐ飛んできた球を、翔馬は前に出て軽やかに捕まえ、振り向いた。
「そろそろ、いいか」
「ああ、わかった」
誠は壁を背にして立つ。少し距離を取って、翔馬は彼と向き合うように立った。
「よし、こい」
誠が緊張した面持ちで叫んだ。
翔馬は滲んできた手汗を拭いて、右手でしっかりボールを握る。一つ深呼吸をして、彼のグローブを睨み付ける。左脚を上げて、右腕を回す。
その瞬間、意識が砕けた。
「クソ!」
ボールを握ったまま肩を落として、膝に手をつく。心臓が大きく脈を打つ。
「落ち着いて。さっきと同じことをすればいいだけだ」
そうだ、なんなら壁に向き合っていると思えばいい。あれは壁だ、あれは壁だ。
腕を回すと、ボールを握る感触が無くなる。顔から血の気が抜けていく。
次に放たれた球は大きく上に外れた。壁の一番上の角に当たり、ふわっと浮いて、落下点で誠は捕球した。
「大丈夫、投げられてるじゃん。次いこう、次」
それから何度か続けたが、投げられなかったり、大暴投を繰り返したりという繰り返しだった。ネジの緩んだ機械みたいだ。腕を回そうとする度に体の中から一つずつネジが取れていき、修正しようとすると、余計にバランスが崩れてぎくしゃくとなる。
「クソッ」
二十球目が自分の前でてんてんと転がり、その場で地面に膝を、手を、ついた。へしゃげてしまった雑草が目の前にある。地面を見つめながら、荒い息を抑えようとする。
「休憩しようか」
「いや、いい」
駆け寄ってくる誠を制しながら、なんとか立ち上がろうとして、軽い眩暈でよろけた。結局彼に体を支えられて立ち、砂を払う。
「どうしてなんだよ」
壁相手なら普通に投げることができたのに。人が一人立っていて、そこに向かって投げるだけなのに。怒りと苦痛と悔しさと疲労で、まともに考えることもできなくなってきている。
「見てたらさ、俺に投げ始めた途端フォームがぐちゃぐちゃになってる」
「ああ、そうだろうな。フォームなんて考える余裕もない」
「落ち着いて」と誠は冷静に言った。
「俺に当ててもいいんだよ」
「バカ言うな」
「これは軟式球だから当たってもそこまでじゃない。しかも俺はグローブをはめている。どんな剛速球でもちゃんと捕ってやる」
正論だ。そして、それだけが問題なんじゃない。
俺に、人に向かって投げる資格はあるだろうか。俺に、そもそも野球をする資格はあるだろうか。俺に……いや、待つんだ。恐らく理由はそれだけじゃない。
「全部忘れようよ。姉ちゃんのことだって、今は忘れよう」
誠が優しい声で言う。ああ、見透かされていたのか。
「たぶん、投げることで何かを壊してしまうって思い込んでて、それが原因だと思う。あのとき投げたことが、野球ができなくなった原因で、姉ちゃんとの約束を守れなかった理由だから。だけど今はどれも関係ない」
「関係なくはないだろ」
わかっているのに、聞き入れられなくて、思わず怒りの滲んだ声が出た。
「お前、俺がどんな思いでこんなことやってるかわかってんのかよ!」
「わかる訳ない、でもわかるよ!」
誠の声に、顔を上げる。彼の顔が歪んでいる。
「俺だってな、姉ちゃんを失ったんだよ、守れなかったんだよ! 家族だ! 俺にとっても、ずっと一番近くにいた大事な人だったんだよ! それでも余計に考えすぎないようにしてさ、ずっと頑張ってたんだ。大切なものを失ったのは一緒だろ!」
彼の息が荒くなる。顔は耳まで真っ赤だ。
「今は俺に投げることだけ考えろ、俺がちゃんと受けてやるから!」
ボールがグローブの中に叩きこまれた。誠は自分の持ち場へと戻っていく。翔馬はボールを見つめる。最初真っ白だったそれは、雑草でこすれて緑色の筋がついている。
そうだ、当たり前じゃないか。それぞれに、澄香の死は影を落としているはずだ。それなのに、自分だけが特別に感じて、悲観して、背負って。
誠の言う通りだ。ボールを投げることで、また何かを砕いてしまう。自分はずっとそのことを恐れていたんだ。
じゃあ、今の俺は、何を砕くことを恐れているのか。
――全部忘れようよ。
どこかから、白い綿毛が舞ってきた。たぶん、今の時期が綿毛たちのピーク。そのうちの一つを、翔馬はぎゅっと右手の中に握りしめる。
きっと、恐れているのは、澄香を忘れられない自分を壊すことだ。
自分勝手な感傷に浸って、ひそやかで陰鬱な時を過ごして、周りに心配をかけて、そんな状況に甘えて……。
――翔ちゃんなら、また野球だってできるよ。頑張って!
吹き始めた風に合わせ、翔馬は右手を開いた。綿毛は再び上昇していく。空へ、空へと。
ようやくわかった。
そんな自分を、捨てればいいんだ。暗い過去を忘れて、今を見つめればいいんだ。
誠の赤い顔を、茶色いグローブを見つめる。対峙するように、睨み付ける。ボールを握った瞬間、忘れろ、と心の中で叫んだ。心臓が高鳴る。忘れろ。忘れろ。
忘れるんだ。
忘れていけばいいんだ!
パンッ。
ボールを掴む乾いた音が、壁で反響して公園中に響いた。捕球体勢のまま呆然としていた誠が、スローモーションのように、徐々に頬を緩ませていく。
「ナイスボール!」
誠の表情は、とても清々しい。ああ、コイツ、こんな笑い方ができるヤツだったな、と翔馬は思い出す。そして、今の自分もきっと、全く同じ顔をしている。
クールダウンのゆっくりとした球が二人の間を行き交う。気持ちが落ち着いた今、翔馬には周囲の音を聞く余裕も生まれた。さっきサッカーをしていた少年たちは今、野球で遊んでいる。こっちに焚きつけられたのかな、と翔馬は心の中で笑う。
「上野君、あのさ」
「どうした」
「俺、今大学の軟式野球サークルに入ってて。上手い人は上手いんだけど、人数がそもそも少なくて困ってるんだ。もしさ、サークルとか入ってないなら、一緒にやらない?」
へえ、と翔馬は声を出した。
面白い。あの頃誠をキャッチボールに連れ出していた自分が、今は逆に引っ張られている。そう言えばこいつも今は、同級生と後輩のハイブリッドだ。そして、共に大事な人を失ってしまった者どうしだ。
「草野球か」
あの後、本気のキャッチボールを繰り返した。左手には今もその痺れが残っている。じん、じんと心臓の鼓動に合わせた、穏やかな疼きだ。グローブをはめたまま、その手の平を右の拳で叩いた。
「今度、見学、連れていってくれるか」
「もちろん」
願わくは、失った時間が、少しでも埋められますように。
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