雨に唄えば
☆
絵美の目の前では、少女が、数式を前にして手を止めている。中学一年生の子で、部活のバスケの試合後だからか、時々あくびを噛み殺しつつ頑張っていた。
「先生、これどうしたらいいの」
「分数、苦手だね」
絵美は苦笑した。
「でも、ほら、さっきまでの整数のときは解けてたでしょ」
「え、じゃあこういうこと?」
さらさら、と彼女はノートにイコールの式を繋げていく。上下の式は、きちんと論理的に繋がっている。
「合ってるじゃない」
「え、マジですか?」
彼女は一気に顔を明るくする。素直でいい反応だ。
「身構えすぎなんだって。じゃあ、次も解けると思うから」
オッケー、と弾んだ声で言って、彼女は次の問題をノートに写し始めた。
気付かれないように絵美はホッと一息つき、隣のスペースにいる誠を見る。今教えているのは中学三年生の歴史のようで、バルチック艦隊、とか聞こえたから日露戦争の辺りだろう。近現代史は彼の得意な範囲で、楽しそうに語っている。
気のせいかな。彼の顔に、子供の頃の面影が見える。翔ちゃんやすーちゃんのおかげで、毎日色んな面白い事を教えてもらっていたあの頃。ちょうど、あんな感じの顔をしていたような気がする。あんな表情、なんだか久々だな。
「先生、終わりました」
「よし、丸つけしよっか」
頭をお仕事モードに戻して、絵美は講師用のテキストから答えの冊子を引っ張り出す。
今日の絵美と誠は帰りが一緒になった。外では雨がぱらぱらと降っていて、絵美の水玉模様の傘と、誠の群青色の傘が並んで揺れる。
「上野君、サークル入るってさ」
「ホント?」
「ああ、部長さんも大喜びだったよ。高校までの経験者が入るのは大きい、って」
絵美は安堵した。歌の録音を送った時はとても不安だったけれど、まさか、あの思い付きからこんなところまで行き着くとは思いもしなかった。勇気を出して正解だった。
「上手くいくときって、色んなことがどんどん繋がっていくよね」
「ああ、いい感じの連鎖だ」
「そうだね。ファイヤー」
「は? ああ、アイスストーム」
「ばよえーん」
「え、まだ間になんかあっただろ」
「あれ、そうだっけ」
昔遊んだゲームのように、今はくだらない会話を連鎖させながら、絵美は嬉しくなっていた。
ぱらぱら、と雨が降り続ける。住宅街の家にある木々の音は聞こえないけれど、きっと、さらさら、と鳴っている。ぱらぱら、さらさら。五月の音は、ららら、と聞こえて、なんだか楽しい。
「仲井君、ありがとね」
「ああ、どういたしまして」
誠は得意げに言い、すぐに首を傾げた。
「お前に礼を言われるのは違う気がするけどな。むしろ俺もありがとうかもな」
「じゃあ、おあいこだ」
二人の笑い声と混じるように、雨が、たったっ、と傘の水玉模様を叩き続ける。通り過ぎる家にあるトタン屋根の倉庫も、かっかっ、と叩かれる。
ぱらぱら、たったっ、かっかっ、さらさら。
二人が歩く度に、ぴちゃぴちゃと地面の水が弾かれる。古い、ほがらかな歌を思い浮かべながら、絵美は足を軽やかに動かしてみる。
「アイム シンギン イン ザ レイン」
「何、その歌」
「雨に唄えば」
傘の揺らぎが歌になり、足下のぴちゃぴちゃがリズムとなる。雨の日の町は、よく聞けば、浮き立つような歌を奏でている。ミュージカルのようにステップを踏めば、心は、それと共鳴し続ける。
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