淳博はお見通し



 ☆


 部室の西側の隅に置かれたキーボードは、今までにどれほどの人の音を奏でてきたんだろうか。それぞれは、いったいどんな音をしていたんだろうか。絵美はよく、そんなことを思う。


 今は、自分がそのキーボードで、なんとも情けない音を出してしまっている。


「だから、ここはこうだよ」


 同じ電子音なのに、と絵美は思う。文代先輩が弾くと、私とは全く違う流暢な音が出る。


「はい、どうぞ」


「はい」


 できるだけ緊張を解いてから、絵美は譜面と鍵盤に集中する。それでも、へなちょこなたどたどしい感じの音がスピーカーから出てくる。


「うーん、休憩する?」


「お願いします……」


 腕時計の指す時刻は九時二十分。約二時間ぶっ通しで練習していたことになる。文代が部屋から出ていくと、絵美は、くたあ、と肩を落とした。


 平日の、練習がないタイミングを見計らって、絵美は文代に個人レッスンをお願いすることにした。まず初めに一通り弾いてみたら、ライブでやる曲の半分以上の部分に指導が入ってしまった。ライブは六月末で、まだ一ヶ月はあることが救いだ。


 突然頬に冷たさを感じて、わあっ、と絵美は声を出す。文代だ。両手にペットボトルを持っている。


「はい、お茶。オーバーヒートしてるだろうし、頭を冷やさないとね」


「ありがとうございます」


 絵美は緑茶のペットボトルを受け取り、渇いた喉に流し込む。すうっと流れた清涼感は、そのまま体のあちこちに染み渡っていく。ほっと出た息は、とても冷たい。


「でもこんな時間か、どうしようかな」


「大丈夫です、親にも遅くなるって言ってますし」


 晩御飯も食べましたし、と絵美は言った。練習前に文代がチョイスしたのはベトナム料理のこじゃれた感じの店で、絵美には口慣れないジャンルだったが、味は抜群だった。やっぱり、文代先輩はセンスがいいな、と思う。


「そっか、でも無理そうならすぐ言うこと、いい?」


「はい」


「よし、頑張ろ」


 絵美は再び楽譜と向き合って、鍵盤の上で指を動かしていく。


 いくらやっても、いくら工夫しようと頭を巡らせても、先輩のようにしなやかには動かない。軽やかにも跳べない。


 鍵盤を叩けば音は出る。電子音だから音程だって一定だ。つまり鍵盤のタッチとリリースの問題。それだけで、どうしてこんなにも差が出るんだろう。


「惜しいんだよねえ」


 途中で文代の呟きを聞いて、絵美は指を止めた。


「あ、ごめん、続けて」


「いえ。止まったついでに、今の言葉の意味、教えていただけませんか?」


「いや、そうじゃなくて。今のは、いい意味での惜しいなの」


 どういうことだろう、と首を傾げたとき、ちょうど文代の携帯が鳴った。彼女は画面を見て、しまった、と目を見開く。 


「ごめん、友達にノートのコピーあげる約束してたんだった。ちょっと行ってきていい?二十分くらい」


「あ、それなら、時間もあれですし」


 十時を迎えようとしていた。さっきまで部屋にいた部員たちも、既に帰ってしまっている。


「そうだね。また今度でいいかな。ごめんね」


「はい、ありがとうございました」


 鞄を持って慌てながら部屋を出る彼女を見送り、絵美はキーボードの電源を落とす。楽譜を鞄にしまっていると、部室のドアが開いて「藤崎さん」と呼びかけられた。


「竹田さん」


「お疲れ。ずっと練習してたの?」


「お疲れ様です。はい、疲れてます」


 彼は笑いながら、肩に担いでいたベースを南側の壁際に置いた。別のバンドの練習帰りだろうか。


「もう帰る感じ? 何なら送るけど」


「あ、でも私は駅から電車なので」


「じゃあ駅まで送るよ。聞きたいことあるから」


 彼はさらっと言った。聞きたいことってなんだろう、と思いながら、彼と一緒に部屋を出る。最後になるのは初めてだったので、施錠の仕方も教えてもらう。


 この時間帯でも部室棟は意外と明るいんだな、と絵美は驚く。あちこちの部屋にぽつぽつと明かりが灯っている。鉄道研究会、東洋哲学研究会、マジック研究会、その他色んなサークルが集められているこの場所。それぞれ、趣味や世の中のことについて熱く語り合ったり、あるいはマージャンをしたり宴会を開いたりしているのかもしれない。


 建物の間に吹く夜風が優しい。溜まっていた熱気を、疲労感を洗い流してくれる。


「さっき言った、聞きたいことなんだけどね」


 少し身構えた絵美に、淳博は苦笑する。


「あ、そんな臨戦態勢にならなくてもいいよ。二つあるんだけど、俺が楽しめる話と、どっちも楽しめない話、どっちから聞きたい?」


「私が楽しむ余地はないんですか」


 苦笑しながら、絵美は前者を選んだ。


「そっちの話ね、じゃあ」


 目の前の横断歩道を車が横切り、淳博の押す自転車のスピードが、きゅっ、と緩まる。


「藤崎さんは、翔馬のことをどう思ってる?」


「はい?」


 ぽかんとしていると、彼は先に信号を渡り始める。ちかちかと点滅を始めて、絵美も慌ててついていく。渡り切ると、ここからは銀杏並木の道が続く。


「あの、どうって、どう?」


「単刀直入に。好き?」


 絵美の心臓が、大きく、どくっ、と音を立てた。


「いや、あの、何言ってるんですか。この前も言いましたけど、ただの幼馴染です。そういう意味での好きだったらまあ」


「ふうん、そっか」


 明かしても悪いことはないけど、と絵美は少し迷う。でも、そんな簡単に言えることでもない。まあこの様子なら、深く追及する気はなさそう。このまま誤魔化しちゃおう。


「アイツ、意外とモテると思うんだよな」


「え?」


「見た目そこまで悪くないし、人当たり良くて誰にでも優しいし、頭も回るし。高三のときも割と女子の評判良かったりしたな、そういや。それにしてもいつ大学デビューするんだろうな。今さ、知り合いの可愛い子でも紹介してあげようかなとか思っててさ。アイツの好みのタイプ知ってる?」


「ちょっと、ちょっと!」


 淳博がニヤニヤともったいぶったように言うので、絵美は抑えられなかった。


「何か問題ある?」


「もう、わかりましたよ。好きです。翔ちゃんのこと」


 拗ねたような口調になり、絵美の顔は成熟したギンナンのように赤っぽく染まる。ああ、完全に、負けた。


「ふふ、どうも。ヤバい、この子最高に楽しい」


「文代先輩にセクハラで訴えますよ」


 きっ、と絵美が睨み付けても、淳博はニヤニヤしたまま、悪かった悪かった、と両手でなだめるような仕草をする。どう、どう、と。私は馬ですか。


「……なんでわかったんですか」


「目だよ、目。俺とアイツが会話してるときも、アイツばっかりちらちら見てたでしょ。しかもそういう目線で」


 ショックだ。バレているとは思わなかった。確かに、あの日、自分は翔ちゃんばかりを盗み見ていた。寂しい気持ちになっていて、早く私にも話しかけてくれないかな、とか思いながら。


 俯いてしまった絵美に、淳博はまたおかしそうに笑う。


「さて。それで藤崎さんはどうしたいの」


「どうって言われましても……たぶん翔ちゃんは私をそういう目で見ていないですよ、あはは」


「澄香さんのこと?」


 せめて、核心は誤魔化そうと思っていたのに。


 いきなり冷静になった淳博の言葉に、絵美はすぐに反応できなかった。


「翔馬から大まかな経緯は聞いたよ。あ、これがさっき言ったもう一つの話ね」


 そこで会話が途切れ、赤信号の前で立ち止まる。淳博は、どうしようかな、と言って、頬骨を指の腹で揉んでいる。ここを真っ直ぐ行けばもうすぐ駅で、徐々に賑やかになっていく。対岸の居酒屋の前では大学生と大人が混じって楽しげに話している。どこかのゼミの飲み会とかだろうか、と絵美はぼんやり思う。


「俺さ、昔、犬飼ってたんだよ」


 淳博は指を止め、おもむろに話し始めた。大通りを行く車の音にちょうど消されないくらいの音量。


「飼い始めたのが幼稚園の年長の時くらいかな。そこから五年間、姉貴も俺も毎日友達みたいに一緒に遊びまくって、家族みたいに大事にして。死んじゃったときには、悲しいのと同時に不思議な感じがしたんだ。当たり前のようにあったものが無くなるってことの意味を、小学五年生にして学んだ」


 信号が青く灯った。歩き出す二人に、少しずつ夜の街の楽しげな音が近づいてくる。


「翔馬さ、この前、野球やりたいだのどうだの、うだうだ言ってたからさ、一応やんわりとは言ってみたんだよ、もういいんじゃねえのって。だけど俺が言葉で後押ししたって、どうにかなる感じでもないだろうな。それこそ野球だって澄香さんだって、当たり前のようにあったはずのものを手放してしまった」


「すーちゃんは、当たり前とはちょっと違うと思います」


 すーちゃんは、病気がちで、だからあんな約束とかもしてしまって、それを希望にしたくて。


 淳博は、ああ、そうか、と呟く。


「そこは少し違ったな、ごめん。当たり前にしないといけなかったものを守れなかった、とかかな。うわ、我ながらクサいセリフ」


 気まずく笑う淳博に、絵美は上手く笑いかけることができない。守れなかった、という気持ちが、自分の顔にくさびを打っているかのように。それに気付いたのか、彼は、少しずつ笑みを引っ込めていく。


「例えば、時間が解決してくれるかもしれない」


 でもなあ、と彼は小さく首を傾げた。


「だけど、このケースだとどうなんだろうな。アイツ変に責任感強いし」


「それが、私もどうなるのか見えないんです」


「藤崎さんも当事者だもんね。藤崎さんからしても、澄香さんは大事な人だったんでしょ」


 絵美は大きく頷く。大事で、尊敬できて、姉みたいで、一緒の相手を好きになってしまった、最高のライバル。


「たぶんね、打ち込めるものがあるといいんだと思う」


 彼は一言ずつ、考えながら話していく。


「ああいうときって、一人で過ごしてたらスパイラルにはまるんだよ。俺も友達と軽音の真似ごとに熱中し出したのが転機だったな、そういや。だからやっぱりまず、野球をやらせるのが一番だろうな。何か方法あるかな」


「あります」


 絵美の声に、彼は立ち止まった。前から歩いてきたカップルが一瞬驚いたように二人を見て、さっと目をそらす。


「あるんです。でも、自信がないんです」


 絵美は、自分の瞳の揺れを感じている。怖い、と思う。数日間、ずっと考えてきて、やっと出てきた選択肢だった。でも怖い。これでもし何も成果が無かったら、私はきっと、とことんへこんでしまう。


「大丈夫だと思う」


 迷いのない声だった。迷う必要すらない、という意思を感じた。


「……どうしてですか」


「だってそんなにアイツのことが好きなんでしょ」


 理由になっていない。だけど、これ以上の理由なんていらない。


 そうか、大丈夫なんだ。怖がる必要なんてない、伝えたい思いは伝えなくちゃ。


「……はい。あの、こういう方法なんですけど、どうでしょう」


 絵美が耳打ちすると、淳博はVサインを送った。絵美は小さな声で、ありがとうございます、と礼を伝える。


 俯き気味だった顔を上げる。ようやく駅が見えてきた。ロータリーはバスと車で混み合っている。改札に続く階段には駅から出る人、駅に入る人が入り混じり、そんな光景に、色んな人生がこの空間で交差しているんだな、と絵美は実感する。


 あの中には私と同じように、何か転機を迎えつつある人もいるのかもしれない。それを思うと、なんだか勇気が湧いてくる。


「それと、藤崎さんがいるなら、俺が女の子紹介する必要もないな」


「え、それは本気だったんですか」


「ああ、新しく好きな子でもできたら気も晴れるかな、みたいな。でもその必要もないかな」


 淳博のニヤニヤが戻っていた。だけど、と絵美は気付く。さっきとは少し質の違うニヤニヤ。からかいじゃなくて、応援してくれている。


「いいな、青春じゃん。頑張ってね」


「……はい」


 たぶん、これから先、何度も彼にからかわれることだろう。でもいいや。その代わりに、心強い味方ができた。


 翔ちゃんと友達になってくれて、ありがとうございます。



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