サンキュ。
★
下宿のベッドで寝転びながら、翔馬は延々と考えていた。
絵美も、もうサークルに入っている。しかもいつの間にか、淳博と知り合いだなんて。アイツは新しい一歩を踏み出している。
ぼんやりと天井を眺めていると、昔、寝転びながら天井に向かって真上にボールを投げる、という練習をしていたことを思い出す。その頃もマンションに住んでいて、上には部屋があったから、うっかり天井に当ててしまってヒヤッとしたことも何度かある。よく怒られなかったよな、と今さらながらに思う。
白い天井に向かって、翔馬は幻の白球を投げる。どんな力の入れ方をしても、どの方向に投げようとしても、実際はただ腕が空を切るだけだ。
力無く腕を落とした瞬間、いきなり、耳元で携帯のバイブが鳴った。うおっ、と声を出して、手に取ると、淳博からだった。
「歯医者通院確定、トホホ。やっぱり顎関節症気味らしい、歯ぎしりって意外と怖いな」
今朝目が覚めたときに、淳博は顎に違和感を覚えたらしい。しばらく立っても引かず、寝ているときの歯ぎしりが原因かなと彼は言っていたが、案の定だった。
俺も実は歯ぎしりとかあったりしないよな、と顎を触っていると、続いて連絡が来た。
「ところで今日、なんか食いにいかねえか? 藤崎さんとの話、聞きたい」
文末にニヤニヤと笑う絵文字が付いていて、おいおい、と翔馬は苦笑した。
翔馬は、淳博と共に学校近くのラーメン屋に来た。今日はラッキーだ、と淳博は言う。二、三人は並んでいるが、いつもはもっと並んでいる人気店だそうだ。
「で、藤崎さんは本当にただの幼馴染?」
順番を待っている間に、淳博が言った。顎を指でさすっているのは、痛みなのか違和感なのか。
「そうだって。なんでそんなこと聞くんだよ」
「だって結構かわいいじゃん。昔からのキープちゃんって訳でもなく?」
「最低だなお前」
淳博を小突きながら、最近、こんなゲスい話もしていないな、と翔馬は思っていた。
「そっかそっか。じゃあ俺の推理は間違っていたのか」
「なんだよそれ」
「お前さ、高三のとき女子にそこそこ人気あったの気付いてたか?」
「え? ウソだろ」
初耳だ。気付いてもいなかった。
「俺、他のクラスの女子にラブレター渡してって頼まれたこともある。面倒だしシャクだから上手いこと断ったけど」
「酷いなおい。あ、一回だけ告白されたことはあったか」
「あ、告白って岡島さん? あの子かなり気が強かったよな。付き合いなさいよ、みたいな感じだったんじゃない?」
「いや、それはさすがにないけど。まあ雰囲気は似た感じだった」
この話、誰にもしていないんだけどな、と翔馬はこっそり疑問に思う。岡島側から広がったのか、それとも誰か見ていたのか。とにかく、恋愛関係の噂なんてどこからでもすぐ広まるものらしい。
「だからさ、藤崎さんとのやり取りを見てて、ああ、そういうことかな、って」
「違えよ、残念だったな」
淳博が肩をすくめたとき、中から店員が出てきてようやく名前を呼ばれた。カウンター席に座り、ラーメンと白飯と、名物だという唐揚げを二人は注文する。
「はあ、それじゃあ、お前女子には全然興味ないの? その方面であんまり話も聞いたことないよな。まさか」
「あるよ。大あり」
今朝の面倒な絡みを思い出して、翔馬は投げ捨てるように言った。
「じゃあさ」
「あーもう、いいんだよ、今は」
振り払うような翔馬のセリフに、淳博は怪訝そうな顔をする。
「翔馬、何かあったのか」
「別に」
「最近さ、なんか変だと思ってたんだ。話ならいくらでも聞く。話さないと奢らせる」
「なんでそうなるんだよ」
淳博とふと目が合う。彼の目は、眼鏡の奥で、思っていたのよりも真剣だった。翔馬は溜め息をつきながら、いい友達持ったよ、と心の奥で感謝を伝える。
「わかった、話すよ」
探り探り、澄香のことや、野球のこと、そしてここ最近あったことを翔馬は話してみた。話してみると、こっちに戻ってきてからだけでも随分色々あったんだな、と思う。話が一区切りする度に、溜め息が出る。
全て話し終えてから、淳博が水を口に含むのを見て、自分もコップに手を伸ばす。すっかり口の中はカラカラだ。
「大変だったな」
淳博は目を閉じて、しばらく何か考えた後、クスッと笑った。
「俺の推理もあながち間違ってなかったみたいだな。でも、十数年間の恋だとか、そんなピュアな悩みだったなんて、お兄さんは思わなかったよ、うんうん」
舐められた怒りよりも恥ずかしさが勝って、翔馬は顔をかあっと赤らめる。そんな様子を見て、淳博はクスクス笑い続ける。
「ん、とにかくあれだな。お疲れ様」
水の入ったグラスどうしがぶつかる。二回目だな、と翔馬は思った。淳博の誕生日は六月の頭で、自分は七月七日。酒で堂々と乾杯できる日までは、まだ微妙に遠い。
「話したら、ちょっとはマシになったか?」
「ああ。ちょっとだけ」
全て空っぽになっていたと思っていたのに、まだ心の中にはこんなにも重荷が積もっているのか、と辟易する。もしかしたら、それは姿を変えていただけで、これから先もずっと離れないものなのかもしれない。
「で、今は抜け殻のようになっていると。それを野球が埋め合わせられるんじゃないか、って感じか?」
「かな、そうだろうな」
ごちゃごちゃになっていた思考をこうもあっさりまとめられると、そんな気もするし、それは自分の考えではない気もする。
「いいんじゃないの、野球やったら?」
「お前、話聞いてたか?」
「ボール持ったら体動くかもしれねえだろ」
「実はやったんだよ、この前。俺はボールをあっけなく地面に落としてしまいましたとさ」
誠に投げ返せなかったボール。なんで投げられないのか。野球に対して一番失礼なことをした自分は、ボールを人に投げ返す資格もないのか。また人に当ててしまうかもしれないと思うからか。あの映像が、血の赤さが頭から離れないからか。
一瞬、なぜだか澄香の悲しそうな顔が浮かんで、翔馬は机を拳で軽く叩いた。
「情けねえよ、チクショー」
淳博は、その手をぽんぽんと叩いて笑う。
「悪い、余計なこと言ったな。だけどさ、よく頑張ってんじゃねえの? そんなに気負ってたなんて、高校時代には気付かなかった」
俺だけの力じゃない、と翔馬は思う。絶望感と喪失感と共に過ごした高二の頃。高三に上がって、そろそろ立ち直らないと、と思っていたときに、淳博に会えたのは本当に運が良かった。初めて会った時から不思議と波長が合って、そのおかげでクラスでの日々が楽しいものになった。学校にいる間は、沈んでいる心をなんとか上手く覆い隠してもらえた。
失礼します、と後ろから料理が運ばれてきた。ラーメンとご飯が置かれ、唐揚げが置かれると、すげえ、と翔馬は思わず声に出していた。今までに見たことがないくらいのサイズだ。普通の唐揚げ五個分はあるんじゃないか。
「ま、澄香さんのこと知らないし、今はこれ以上余計なこと言うのはやめておくから」
淳博は、口を慎重に開いて唐揚げをかじり、満足そうな笑みを浮かべる。
「その代わりに、ほら、話してくれたし今日は奢り。しっかり食わないと、上がる気分も上がらねえぞ」
ああ、と言って翔馬も唐揚げを一口かじる。カレーの味がした。肉厚でジューシーで、スパイシーで、とても美味しい。こんな気分なのに、このまま一気に食べてしまいそうだ。
「淳博。その、あれ」
「うん?」
「サンキュ」
淳博は、歯を見せニカッと笑った。
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