さらさら(2)


「この辺りが、二年前にできた新興住宅街」


 翔馬に、この町に帰ってきてからうろついたことのない方面を言ってもらい、絵美は町の北側を回ることに決めた。レンガ造りの家や、カフェも併設している可愛らしい家など、若い世代の世帯が集まっている。


「なんか、だいぶ変わったよな」


「うん。田舎だから、若い人を呼ばないとダメなんじゃないかな」


 絵美もそれはよく肌で感じている。昭和からのベッドタウンなんて、何もしなければ緩やかに人口が減っていくのを見送るだけだ。ショッピングセンターといい、てこ入れをしないといけないのは、仕方ないのかもしれない。


「確か、この辺に、ケアセンターだっけ? なんかプールとか介護施設とか入った所」


「ああ、あれだよ」


 絵美が指さした先にあるのは、数年前に改装したケアセンター。昔は白い壁にひびも見えた物寂しい感じの建物だった。今は周りの変化に合わせて、外壁は優しいクリーム色になっている。その前のバス停で、車椅子の老女が家族らしき人たちと談笑している。


「もしかして位置は変わってない?」


「うーん、変わってないと思う」


「そっか、周りの景色が全然違うだけか。これ、絵美がいなかったら迷うだろうな」


「持つべきは地元民の友だよ」


「はい、井原市の先輩さん」


 私の知らない翔ちゃんの時間があったように、と絵美は改めて思う。私は私で、この町と過ごした時間があったんだな。


「そこのセンターのプールで泳いだよな」


「え、私知らないよ」


「あ、あれは誠とか男連中だけで行ったのか。面白いのがさ、市民プールと違って、周りの平均年齢が恐ろしく高いんだよ」


「当たり前だよ。むしろ邪魔になってたんじゃないの?」


「いや、競争とかしたかったけど、雰囲気に負けた」


 翔馬も誠も、何かあればすぐ競争したがるタイプだった。そんな彼らがご老人ばかりのゆったりした雰囲気に飲まれているのを想像して、なんだかおかしい気持ちになる。


 東向きになだらかな坂を上り、左に折れると、大通りに出る。大音量のカーステレオの車がびゅんと通り過ぎていく。


「この辺の店も……でも、そもそも入れ替わりが激しい地帯だったか」


「それは相変わらずだよ。でもそこの楽器屋とか、コンビニとかは結構長いね」


 見覚えある? と絵美が顔を覗きこむと、翔馬は首を捻る。


「あったような、無かったような。最後の一年くらいにできてた気もする」


「そっか、部活で忙しかったもんね」 


 ハッと、絵美は口を噤んだ。野球関係の話を振るのはあまり良くないかもしれない。だけど、彼は何食わぬ顔で「そうそう」と言っただけで、すぐに別の話題に切り替わっていった。


 休憩したいなと思って、その大通りに面する喫茶店を提案した。翔馬はへえ、と呟いた。


「ここも知らないよね。美味しいんだよ、ここのコーヒー」


 ドアを開けようとした絵美が振り返ると、翔馬はおかしそうに笑っていた。


「何、どうしたの?」


「いや、ここ結構店舗数あるチェーン店。しかも俺の今の実家がある地域発祥」


「えっ、ホント?」


 絵美は、彼の顔と、ドアに書かれた店名との間で顔をキョロキョロとさせる。


「まあ、最近こっちに進出してきたばっかって聞いたから、無理もないけどな」


「うわ、精々二、三店舗くらいの店だと思ってた」


「さて、どんな美味しいコーヒーが来るのかな」


「ちょっと、やめてよ」


 恥ずかしさで赤くなる絵美を尻目に、店員に二名と伝えて、翔馬は前に立って慣れた感じで席へ向かった。


 二人とも、注文はブラックコーヒー。コーヒーが美味しいのは本当で、味はいつもと同じ、香り豊かでホッとする味。


「お前はブラック飲めるんだな」


 どういうことだろう、と絵美は頷いて、すぐにピンときた。


「誠? アイツ、意外とそういうのダメだよね」


「ああ、この前さ、ちょっとビックリした」


「ただの見栄っ張りで、まだまだ子供だもん、アイツ」


 いつもの不満を発散するように、言葉を並べ立てた。そんなお子様にいいようにあしらわれる自分は、もっとお子様かもしれない、と思いながら。


「いや、だけどかなり落ち着きは出てきたと思う」


「そりゃそうだよ」


 絵美は理由を言わない。彼も言わない。だって、お互いにわかり切っているから。


 まだ翔ちゃんと、すーちゃんの話をちゃんとしたことがないままだ。なんとなく私が避けて、話を逸らしたりしているから。


 彼が泣いたあの日。帰り道、彼はできるだけ気丈に振る舞っていたけれど、それがやせ我慢だってことはちゃんとわかった。もう、あんな姿を見たくなくて、きっと、いつまでだって避けてしまう。


「そうだ。ねえ、翔ちゃんはサークル決めた?」


 こんな風に。


「いや、まだ」


「どうするの、新歓とかほぼ終わっちゃったよ」


 いつかの十和子みたいなセリフになってしまった。


「いくつか新歓は行ったよ。どれもしっくりこなかった」


「そっか、そんなもんかなあ」


 少し前まで、自分もしっくりきてなかったけどね、と思いながら絵美は言った。それより、翔ちゃんに合うサークル、とは。自分の知っている翔ちゃんなら、運動系ならどこでもそれなりに上手くいけそうで、像がまとまらなかった。


 かつん、という音に絵美は驚く。翔馬が机に置いたカップの中で、コーヒーが波打っている。


「違う」


 それは、彼が自分自身に向けて怒っているような言い方だった。


「しっくりなんか、くるはずないんだよ」


「翔ちゃん?」


 何に怒りをぶつけているんだろう。何に葛藤しているんだろう。絵美は戸惑う。翔馬のコーヒーは、半分ほど残っていて、湯気がわずかにゆらゆらと立っている。


 彼の溜め息には、やるせなさが混じっている。


「絵美、すまん。そろそろ帰るか?」


「え、あ、うん」


 支払いは、今日のお礼と言って翔馬が済ませた。私はバイトしてるからいいよ、と絵美が言っても、彼は聞かなかった。店を出てからも、彼の歯切れはどこか悪いままだった。




 一人になってから、たぶん、野球だろうな、と絵美は気付いた。


 あんなに好きだったのに、酷い形で辞めることになってしまった野球。未練があっても、自分が情けなくて蓋をしてしまってもしょうがない。もしかしたら、また人に当ててしまうことを考えてしまって、怖いのかもしれない。


 それだけなんだろうか。きっと、すーちゃんへの懺悔の気持ちもあるんだと思う。


 約束を守れなかったことへの負い目は、きっととても深い。あのときボールを顔に投げなければ守れたかもしれないのに、と。投げたせいで全て壊れてしまった、と。それはお墓に向けて謝っても、根本的な解決にはならない。


 さっきの街路樹の横を下っていく。別れた地点からだと少し遠回りになる。でも、なんとなく、この道を下りたかった。髪が後ろへたなびく。太陽は傾いていて、木陰の形が細く長くなっている。両手を一瞬離しても、やっぱりがたがたはないからこけない。


 デリカシーが無かった。部活の話も、野球の話も今はタブーな状況だったんだ。絵美は自分を責める。翔ちゃんの悔しそうな顔も、悲しそうな顔も、見たくなんてない。


 だけど本当は、その顔に向かって、しょうがないよと言ってあげたい。そこまで気負うことじゃない、と。それの生む影響が予測できなくて、私は二の足を踏んでいる。踏み続けている。


 坂の途中で、絵美は、きいっ、ときつくブレーキをかけた。坂の下の方から吹き上げて来る風に、木々は光を揺らして一斉に歌い出す。


 さら、さら、さら。


 笑みがこぼれた。本当だ、ちゃんと聞こえるね。


 目を閉じて、しばらくそこに佇んでいた。このどうにもできない気持ちを、洗い流そうとして。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る