練習



 ☆


「藤崎さん、キーボードのセッティング大丈夫?」


 淳博がやってくる。


「すいません、アンプにつなぐのってどれでしたっけ」


 絵美はキーボードの背にある大量の穴を見ながら途方に暮れていた。淳博はその中の一つに躊躇なく差し込む。マスターの音量を上げると、ちゃんとスピーカーから音が出た。「ありがとうございます」と絵美は何度も伝えて、大げさだな、と笑われた。


 絵美の入会した軽音では、学校内の練習場所だけでは足りないから、よく周辺にあるスタジオで練習している。そんなに広い部屋じゃなくても「スタジオで練習」というのはどこか特別な感じがして、絵美はスタジオ練の日になるとドキドキとする。使用料という名の出費は痛いけれど、しょうがない。


「絵美ちゃん、大丈夫? じゃあ始めよっか。『Rally』から」


 ボーカル担当の赤見(あかみ)文代(ふみよ)が言った。このバンドはギターと絵美が一年生、他はみな上級生で、雰囲気もいい意味での余裕がある。初めてのバンドでこれは心強くて、その分プレッシャーだと絵美は思う。自分が言いだしっぺだということも踏まえて。


 キーボードを持っていない自分は、スタジオに備え付けの物を使っている。家のピアノで練習はしてきたけれど、慣れないタッチとか色々なことに戸惑い、なんとか楽譜を追うので精いっぱいだ。


「絵美ちゃん、この部分のキーボードだけどね」


 休憩に入ると、文代が指導に来てくれる。彼女は歌もさることながら、ピアノの腕も抜群で、他のバンドではキーボードを専門にしている。


「どう、わかった?」


「うう、わかりましたけど、そんな発想出てこないですよ……」


 文代はクスッと笑う。ショートカットの黒髪が、さっと鮮やかに揺れる。


「絵美ちゃん、バンドは初めてなんだよね?」


「はい、だから圧倒されっぱなしです」


「まあ無理ないよ、クラシックじゃない曲の弾き方とか、周りと合わせるのとか確かに難しいよね。でも、楽譜はちゃんと追えてるんだからさ、ファイト!」


 そう言って、彼女は外に飲み物を買いに行った。澄んだ歌声も、責任感の強さも、絵美の密かな憧れだ。


 キーボードのつるつるとした鍵盤を撫でる。バンドが初めてだからというより、経験年数の少なさが原因なのはわかっている。この曲はまだそんなに難しくないからついてはいけるけれど、もっと忙しく動き回る曲だと、どうなるんだろうと不安が募る。


 本当に、自分がキーボードで良かったのかな。


 結局七年間くらいやっていたピアノは、周りの七年間やっていた子より少し下手なくらいで終わった。それに、「桃栗三年、柿八年、ピアノはまずは十年間」と言っていたのは、誰だったかな。高校時代同じクラスだった、ピアノの上手な男の子かもしれない。


 練習終わりに、絵美は淳博から声をかけられた。


「お疲れ。どう、慣れてきた?」


「お疲れ様です。慣れとかじゃなくて、実力ですね」


 絵美は意気消沈していた。結局、その後の曲も全くちゃんと弾けなかった。


「まあ、そう気負わないで」


「でも、そういう竹田さん、めちゃくちゃ上手じゃないですか」


 本家Cymbalsのベーシストは相当な技術を誇っていて、そのためにCymbalsの曲はうねうねとせわしなく動き回るベースラインが印象的だ。それをカンペキ、とまではいかないまでも、難易度を考えるとたぶん十分健闘できている。


「ええと、なんか褒められちゃったな、ありがとう」


「どうやったら上手くなれると思います?」


「え、それは文代に聞いてよ、ってもう聞いてるだろうけど」


 彼は少し考え、言う。


「そうだな、参考までに俺は授業をサボ」


「るのはダメ」


 彼の背後から文代の声が重なる。絵美は思わず笑ってしまう。


「私で良ければ、いくらでも個人レッスンしてあげるからさ。授業料はもちろんタダだよ」


「個人レッスンって、アレな響きだよな。何する気?」


「そこ、バカ言わないの」


 そこから二人の言い合いが始まる。この二人はやけに仲がいいみたいで、しょっちゅう小さな喧嘩をしている。……仲がいいのかな、それって。




 その日のスタジオの出費は、千円。


 今月、出費多いなあ。携帯のメモやレシートに書かれた数字をアプリに打ち込みながら、絵美は溜め息をつく。


 大学生って、なんだかんだお金を使う。制服じゃないから服のラインナップも増やさないといけないし、そう思って買いに行くと可愛い服を見つけてつい買い過ぎてしまうし。それとサークル関係の出費も痛い。


 財布の中からコンビニのレシートを取り出したとき、手が滑って、小銭入れの中身が机の上に散らばった。あーあ、と思いながら拾っていると、ひどく汚れた十円玉があった。何年製の物かすらも読み取りにくい。


 銅の色は、汚れると特に汚く見える。その代わり新品の赤っぽい光沢は、どの硬貨よりも魅力的な輝きに見える。十円玉はそう言えば、硬貨の中で唯一の銅製。


 そうだ、と絵美は一階に下りて、台所で調味料の入った棚を開けた。


「何探してるの?」


 料理中の母親が訝しんでいる。コンロの方から焼き魚の香ばしい匂いがしている。


「お酢」


「お酢なら、はい、これ。でも何に使うの?」


「ちょっと科学実験」


「ええ、変なガスとか出さないでよ」


 ちゃんと換気してね、と心配そうな彼女に、大丈夫だよ、と笑って、絵美は手渡されたお酢と適当な器を手に部屋へと戻る。


 小さなガラスの器にお酢を注ぐ。その中に汚れた十円玉を入れる。晩御飯を食べてから戻ってくると、お酢の中の十円玉は輝きを取り戻していた。前にやったときと同じだ。絵美は赤銅色の光沢に見惚れる。


 前に、というのは、小学生の頃のこと。


 翔ちゃんの家で遊んでいたとき、何かの話の流れで彼が披露してくれた。親がいないタイミングなのをいいことに、家にある色んな液体や砂糖水などを用意して、汚れが落ちるのはどれでしょう、というクイズをした。


 それぞれが自分の汚れた十円玉を浸して、結果が出ると、汚れの落ちる方を選んだ者は喜び、変わらなかった者は、交換してよ、と不満を言っていた。翔ちゃんはそんな様子を見ながら嬉しそうにしていて、私も嬉しかった。時々見せてくれる翔ちゃんの実験はいつも面白くて、だから私は理科が好きになった。


 あのときの感動や、驚きや、楽しさを忘れたりはしない。だけど今なら、なんでこの汚れが落ちるかもわかる。銅の汚れは酸化だ。酸化している銅を、酢の中の酸が還元するからで、中性の食塩水や砂糖水では汚れは落ちない。


 そして、今ならやっぱり気付くことができる。


 彼が喜ばせようとしていたのは、私じゃなくて、すーちゃん。


 他の十円玉も少し浸しておこうか、と絵美は再び財布を開く。いや、もうそこまでテンションは上がったりしないだろうな、とも思う。


 一人でやっても、あのときほどの楽しさは見出せない。



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