さらさら(1)
☆★
授業、サークル、バイトと忙しかった一週間を絵美はなんとかこなして、土曜日になった。今週末は久し振りに用事がない。お昼を食べてから、シャンプーを買いに自転車を飛ばして、坂の上、小学校の正面にあるスーパーへ向かう。
数年前に道が舗装されてから、この辺りはとても走りやすくなった。昔は所々がたがたしていて、そのせいで自転車の前かごに入れているお菓子が吹っ飛び、絵美は泣きを見たことがある。下りで手を離しても今ならたぶん問題はない。
坂の途中の信号が、目の前で赤に変わる。仕方なく日陰へと避難する。五月も半ば、今日は三十度を超える日だと絵美はニュースで見ていた。湿気がない以外は夏と変わりなくて、背中には汗が滲んでいる。
葉っぱの作り出す影が揺らいでいる。もう少し辺りが静かなら、葉の擦れ合う音が聞こえそうだ。
五月だから、きっとその音は、さらさら。
木の枝にすわりながら、チューくんは耳をすませます。
五月の葉っぱは、さらさら。八月の葉っぱは、さわさわ。
「ね、そう思わない?」
麦わら帽子を被ったすーちゃんの言葉に、当時の自分は首を傾げた。あの麦わら帽子をいつも被っていたのは、確かすーちゃんが三、四年生くらいの夏。はみ出た髪の毛は綺麗にすとんと流れていて、帽子の陰になっても、瞳はいつものようにクリアだった。
「そんなの、わからないよ」
「じゃあ、よく聞いてみて」
それは八月の公園だった。蝉の声がせわしなく鳴り響く中、葉っぱの擦れ合う音に二人は耳をすます。
さわ、さわ。
「あっ」
聞こえた気がした。深い緑の中から、囁きかけてくるような声だった。
そう言えば、と絵美は思った。結局、翌年の五月にすっかり忘れていて、それからもずっと忘れていたから、五月の音は確かめたことがなかった。
風が立って、耳をすました。だけど車の音が邪魔をする。そうしている間に信号が変わって車が止まり、チャンス、と思ったけれど、そういうときに限って風は吹かなかった。
スーパーでの買い物を済ませて、本屋に寄ろうと二階に上がった絵美は、思わぬ二人組に遭遇した。
「なんで? なんで翔ちゃんと竹田さんが一緒なの」
ベンチに座って携帯をいじっていた二人が、同時にパッと顔を上げる。
「竹田さんって、お前こそなんで淳博のこと知ってるんだよ」
「え、翔馬と藤崎さん知り合いなの?」
それぞれがそれぞれに疑問をぶつけて、これでは意味がない。
「ええと、まず私から。竹田さんはサークルの先輩。翔ちゃんは幼馴染なんです」
「サークルってことは、お前、軽音?」
絵美は頷いた。まだ彼には伝えていなかった。
「なるほどね。そして俺と翔馬はコレ」
「やめろ、小指やめろ」
翔馬は淳博の指を折らんばかりに握る。
「痛い痛い、冗談、じょうだん。高校の同級生なんだ」
絵美はサークルのメンバー紹介冊子を思い出す。確かに、竹田さんの出身地、翔ちゃんの引っ越し先と近いな、と思った記憶がある。
「へえ。でもこの大学、そちらの地元から結構離れてるのに、友達どうしで、ってすごいですね」
「だろ? でも俺は現役合格。つまりコイツがストーカー」
「今度は人差し指を折られたいのかな?」
翔馬が自分の指をぽきぽき鳴らすのを見て、淳博は、ひえっ、と言いながら指を引っ込めた。すごい、とっても仲がいい。これは間違いなく仲がいい。
翔ちゃん、ちゃんと向こうで友達作っていたんだ。当たり前のことなのに、それに気付くとふと寂しくなる。やっぱり、私たちと違う道を歩んできたんだな、って。
「なあ、絵美。知らない?」
「知らない。え、何?」
「聞いてないなら適当言うな」
翔馬は指を弾く仕草を見せる。エア・でこぴん。絵美は、わっ、とのけぞる動作をして、淳博がクスッと笑った。
「ここのスーパーの二階にあった歯医者。土曜の昼もやってるの、昔はこの辺りでここだけだったから」
「それを聞いて翔馬に連れてきてもらったんだけどさ、無かったんだよね。今携帯で調べようとしたところ」
じゃあなんで先に調べておかなかったんだろうか、というツッコミはやめておく。
「あそこの歯医者、移転したんです。案内しましょうか?」
「え、ホント? 助かるよ、ありがとう」
いつものお礼です、と絵美は微笑みながら言って、スーパーを出た。暑っ、と三人で口々に言って、自転車をこぐ。二分ほどで、住宅街の中に目的の歯医者が見えた。まだまだ綺麗な看板に、診察時間の表が書かれている。
「あ、マジでやってる。ありがとう、藤崎さん、翔馬」
「俺は何もできなかったけどな」
「最初に教えたのは翔ちゃんだし、いいんじゃない?」
淳博とそこで別れると、ぽつん、と二人は取り残されたようになる。その横を、中学生男子が早足に通り過ぎる。部活だろうか。懐かしい、群青色の体操服だ。
「これからどうすんの? 帰る?」
「うん、そのつもりだった」
でも。
「ねえ、浦島太郎さん」
「なんだよ……ああ、久し振りに戻ってきたら町が変わっていました、ってか」
「うん。そんな太郎さんに、この町のニュースポットを教えてあげようか?」
こんな風な繋ぎ止め方しか、思い付かなかった。それでも彼は顔を明るくしてくれる。
「じゃあ、どうせだしお願いしようか」
「うん」
二つの自転車の走行音が、静かな住宅街で爽やかに合わさる。こうやって二人きりで自転車を並走させるのは、この前の公園の帰り道以来。その一つ前は、思い出せないくらい、遠い遠い過去のこと。
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