ふわふわ、ざらざら
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翔馬は望遠鏡に目を当てている。吊り下げられたおもりが振り子のように周期的な運動をしている。支える針金が、その後ろの壁に書かれた×印と、重なっては離れる。重なっては、離れる。その往復運動が十回に達する度に、とん、と翔馬は机を叩き、実験のペアがその時刻を記入する。翔馬はまばたきをこらえながら、じっとおもりを見つめる。
二百回の往復運動を終えると、思わずホッと息をつく。ペアとデータの共有を行い、レポートに備えて計算を始める。
こんな実験で、重力加速度、つまり物体が落ちるとき、地球の重力がそれをどのくらい加速させるかを求めることができる。もちろんそのためには入念な実験のセットアップが必要だ。少しでもミスがあると、そもそも振り子が変な挙動を示したりする。成功したと思っても、計算してみたら素っ頓狂な値が出てしまう可能性だってある。
計算結果は9.806 m/s2という値だった。実験のTAに確認すると、そこに誤差も含めても、この実験の精度としては十分だということだった。ナイス机叩き、とペアの男が笑った。なんでも、机の叩き方が見ている側からすれば面白かったらしい。
重力加速度、約9.8m/s2。高度などによってほんの少し値は変わるが、この場所にいる限り、おもりも、野球ボールも、空から降る女の子も、どんな物にも地球の重力は同じ加速度を与えようとする(特殊な石で体が浮くのは、また別の力だ)。
導かれる結果の意外さや、あらゆるものに対する平等さが、面白い。科学の実験が好きだ。
小さい頃から色々なことを楽しそうに教えてくれる澄香を見ていたから、いつしか俺は、自分も何か、彼女に教えてあげられるものを持ちたいと思うようになっていた。ある夏の日、親に連れられて行った科学教室の実験が楽しくて、これだ、と思った。
数日後、親がアイスを買ってきたタイミングを狙い、こっそりドライアイスをくすね、リビングの引き出しから空のフィルムケースを持ち出して公園に向かった。好奇心に満ち溢れた三人の少年少女の目の前で、俺は袋の中の小さなドライアイスをフィルムケースに入れ、蓋を下にして「離れろ」と叫んだ。澄香と絵美は耳を軽く塞ぎながらきゃあきゃあ言って、誠は何でもない風を装いながら、目だけは興味半分怖さ半分、と言った様子だった。
やがて、ポン、と音を立てて、フィルムケースは大きく跳ね上がった。おおー、とバッチリ重なった四人の声を充分に受け取ると、高く舞い上がった小さなロケットはふっと速度を落とし、地面へとまっさかさまに落ちていった。それが小石を蹴飛ばすと、誠が、すげえ、と声を漏らした。俺はもちろん澄香の顔を見つめた。彼女の目は、ストーリーを語るときのようにらんと輝いていた。
そのロケットは、もちろん月までは届かない。だけど小学生には十分すぎるほどの飛距離で、小学生の自分に、月の石よりも大事なものを与えてくれた。それから、俺は時々みんなの前で実験を見せるようになった。
そう言えば、あのフィルムケースにだって、地球の重力は同じ加速を与える。地球の重力は、やっぱり全ての物を平等に下へと引っ張る。
何気なく、消しゴムを手に取って落としてみる。一直線にすっと落ちて、床に当たり、気まぐれにころころと転がっていく。ほい、と実験のTAに拾い上げられ、慌てて礼を伝える。やっぱり、これもちゃんと地球に引っ張られる。真っ直ぐ地面へと。地球の中心へと。
当てもなくふわふわと浮いているのは、自分の心だけのように思える。
部屋に帰ってきて、テレビを点けると、野球中継の音声が流れ出す。アナウンサーと解説のやり取りを聞いたとき、そう言えば、この地域だと視点はこっちのチーム側だよな、と翔馬は思い出した。プロ野球も、めっきり見なくなっていた。
実験レポートを進める裏で流したままにしていたが、あまり見どころもなく試合は進んでいた。やがて腹が減ると、カップ麺を開けて、ポットのお湯を注ぐ。ぼーっとテレビを見ながら蓋を開ける頃には、六回表、同点でツーアウト二、三塁の場面になっていた。マウンドに選手が集まるが、すぐに輪は散らばった。ピッチャーは続投させるらしい。
翔馬の見立てでは、そのピッチャーは速球とカーブが冴えていて、すとんと落ちる球、たぶんフォークボールが少し甘く決まっていた。一点もやれない場面、キャッチャーが後ろにそらしても点が入る。そのフォークは使いにくいと、もしくは狙い打とうと、バッターは考えるだろう。
だけど、敢えて試してみるのもいいかもしれない。
一球目は速球でストライク。二球目、フォークが甘く入り、痛烈な当たりがレフトスタンドめがけて飛んでいく。しかしわずかにファール。次はどうするか、翔馬は頭の中で組み立てる。
ここで、もう一度フォークだ。
決めたのと、キャッチャーが下に、下に、と合図を出したのとは同じタイミングだった。低めにワンバウンド寸前のフォークボールを投げ込み、空振り三振。思わず、よしっ、と声が出た。嬉しそうなピッチャーの横顔を移した後、CMに入って、翔馬はハッとする。カップ麺を食べるのも忘れて見入っていた。湯気の勢いは収まりつつあって、麺は伸び始めている。
麺をすすりながら、羨ましい、と心の中で呟く。もう一度あの快感を味わいたい。
あれから三年も経っている。なのに思い出す度に口の中に苦いものを広がらせる。スープを飲んでも、どこかざらざらとした感じだけは離れない。
大歓声と、アナウンサーの叫び声が聞こえた。次の攻撃が始まっていて、ツーランホームランが出たらしい。堂々と走る選手を見ながら、これで決まったかな、と翔馬はチャンネルを変えた。
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