揃わない物

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 金曜日、五限目、翔馬の溜め息。前のスクリーンに映し出されたスライドには、マヨネーズや、ゼリーや、細胞や、色んなものが円形に並べられている。淡々と話し続けている白髪の教授の声は、教室の暗さと合わせて、寝ろと言っているようなものだ。


 翔馬は、手をグーパーと動かしたり、靴の中で足の指をもぞもぞとしながら、ぼんやりとシラバスの授業名を読んでいる。


「ソフトな物理学」


――ガラスも、このソフトマターの分類に入ったりしますね。


 教授のセリフに、翔馬は思わず顔を上げた。レーザーポインタの赤い光が、スクリーンの一箇所を指している。


――ガラスというものは、実は難しくて、固体とも液体とも言われています。確かに固体に見えるんですが、一般には結晶状態になっていません。つまり分子が規則的に並んだ構造ではないんですね。


 澄んだ瞳、整った容姿、流れる髪の毛、優しい性格。だけど、病弱で危うい体。完全ではなかった。その一点が、ずれてしまっていた。


――えー、こういったソフトマターは、物理や化学や、様々な分野で研究の対象となっていまして……。


 スライドが変わったタイミングで、翔馬はハッとした。そろそろ集中してメモでもとっていかないと。ルーズリーフを取り出して、シャーペンの芯を出す。


 ガラスは、揃わないもの。綺麗なのに、揃わないもの。


 無意識のうちに、そんな走り書きを紙の隅に残そうとしていて、翔馬は理解する。


 そろそろ、頃合いなのかもしれない。


 


 日曜日。目を覚ました翔馬は、まずカレンダーを確認した。いよいよか、と週末のうちに固めた決心を思い返して、ベッドの上で伸びをする。


 カーテンを開けると、薄明の中、窓の外に舞う桜の花びらを見た。


 このマンションに桜の木なんかないから、どこかから飛んできたのだ。そう、風の動きに支配された動きは、誰にも予想できない。




 チューくんは耳をすませます。桜の花は、三つの声を聞かせてくれると聞いたから。




 懐かしい声が聞こえてくる。




 最初の声は、蕾が開く頃。赤ちゃんみたいに無邪気な泣き声は、寒さの終わりをお伝えします。次の声は、満開の頃。高らかな笑い声で、うららかな春をお送りします。




 澄香は、色んなことを知っていて、色んなことに気付いて、色んなことを自分の言葉で伝えていた。アイツに語らせれば、日常にある全ての物が、生命を持ってストーリーを紡いでいるように思えた。




 そして最後は散る頃。優しく語り掛ける声は、短い春の愛しさを私たちに教えてくれます。




 最後に生命の輝きを見せていた花びらは、さよなら、と優しく笑いながら、やがてゆっくりと春の旅を終える。それを見届けてから、支度を始める。


 澄香に会いに行く。




 自分と澄香が出会ったのは、十六年前、幼稚園児の頃だった。


 同じクラスで、家も近かったから、自然と一番仲のいい友達になっていった。幼稚園の後、公園で遊ぶ自分の横には、ほとんどいつも澄香がいた。やがてそこに誠や絵美が混じり、それぞれの友達を交えたりしながら、毎日のように遊んだ。


 よく彼女のふわっとした手を引いて走った。ストーリーを書いた本をもらったときは何度も読み返した。学校の帰り道では毎日違う話で盛り上がった。毎日笑い合った。


好奇心旺盛なところ。感受性が豊かなところ。病気のときに弱々しく揺れる目。小さな手。全てが魅力的で、愛しくて、守りたくて、自分は、間違いなく彼女に惹かれていた。


 小学校に入っても、そんな仲良しな関係は続いていた。高学年になる頃には周りにはやされたりもしたが、結局なんだかんだでずっと一緒に居続けた。結局、彼女といるのが自分の一番だったから。


 付き合っていた訳ではない。幼い頃の、無邪気な意味での「好き」は言い合ったこともあるけれど、成長してからはお互いそんなことを口にしなくなっていた。


 クラスで誰それが付き合ってる、というのを聞くとき、誰かに自分たちの関係をはやし立てられるとき、お互いを横目で見合って、同時にそっとそらした。きっと、同じことを考えていたから。俺たちはただ、傍で笑い合っているだけで充分だった。小学生や中学生の刹那的な「オツキアイ」よりも、その方がずっと幸せだと思っていた。




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