絵美と友人たちと、過去

 二時間目の授業が終わって、ぼんやりテキストを片付けている絵美は、十和子とわこに声をかけられた。

「絵美、お昼行かない?」

「あ、うん。行く行く」

 十和子は、絵美の中学時代の同級生で、今は同じ理学部化学科の一年生だ。中学時代はクラスも違ってあまり話したことがなかった。大学で再会して、学科では女子が少数派だったこともありすぐに仲良くなった。


 まだ四月の半ばだというのに、昼間の太陽は日ごとに容赦が無くなってきていて、風が無ければ暑くてたまらないし、あってもこの時間帯になるとコートは余計だ。暑いね、と二人は言い合いながら、学食に入った。二人ともハンバーグ定食を頼んで、込み合う店内で何とか席を確保する。


「ねえ、理論化学難しくない? 私もうドロップアウトしちゃうかも」

「十和子、早いって。でも今日のは私もヤバいかも」


 さっきのコマ、理論化学の授業では、熱力学という分野をやっている。今日はエントロピーというものが初登場した。絵美には解説もイマイチわからず、言葉は聞いたことあるけれど、結局それは何? という状態のまま、授業が終わってしまった。


「そうだ、勉強会しよっか。佐(さ)伯(えき)君とか頭良さそうな人も呼んで」

「賛成!」


 じゃあ予定調査だ、と、十和子はぱっちりとした目を輝かせて手帳を開く。みんなが認める美人で、性格も明るい十和子はあちこちに顔が利く。今日もメイクだってそつなくカンペキで、いつか教えてもらおうかな、と絵美は密かに思っている。


「あーごめん絵美。私、今週は微妙かも」

「ううん。私も今週は結構バイトだったかも。土曜日は?」

「土曜日もね、サークルの新歓があるんだよ」

 ああどうなるんだ私の単位、と言いながら、十和子はハンバーグに手を付ける。肉汁が、じゅわっとお皿に溢れ出た。彼女はボランティア系のサークルに入っていて、早くも大学生らしい生活を始めている。


「絵美はサークル決めた?」

「いや、まだ」

「えー、そろそろ新歓の時期終わっちゃうよ。早く早く」

 絵美は曖昧な笑みを浮かべた。学校とバイトで忙しいのに、空いた時間にはずっと翔馬のことを考えていて、サークルのことなんかすっかり忘れていた。


「確か中学時代テニス部だったよね。私、走ってるときに見たことある」

「そっか、十和子陸上部だったんだっけ」

 十和子が頷くと、ウェーブのかかった髪の毛と、イヤリングがふわっと揺れる。野暮ったい群青色の体操服を着て、黒い紙を揺らしてグラウンドを周っていた少女も、今はこんなにオシャレさんになっている。


「テニスはもういいや、高校まで頑張ったしね」

 中学はソフトテニス、高校は硬式テニス。どちらもそれぞれ別の楽しさがあったけれど、絵美はもう本気でやろうとは思っていない。

「大丈夫、ほら、テニサーとかいっぱいあるじゃん。そこまで本気じゃないお遊びサークルもあるって聞くし」


「あはは、でも私、そういうチャラいの好きじゃないからなあ」

 十和子は、わかるわかる、と気持ち良く笑う。私ですらちょっとドキッとするんだから、と絵美は思う。きっと、男の子がこんな笑顔を向けられたら誰でも虜になっちゃうだろう。


 談笑しながら食べていると、十和子の友人がやってきて、何やら二人で喋り始めた。さっぱりした髪の毛のボーイッシュな感じの子で、十和子に負けず劣らず、整った顔をしている。サラダの葉っぱをむしゃむしゃと食べながら、絵美は二人の会話する様子をちらちらと窺う。


「ねえ、今の子、高校時代の友達?」

 彼女が立ち去ってから、絵美は尋ねてみた。

「うん。文化委員長やってた時に、あの子が副委員長でね。今も一緒のサークルなんだ」

「へえ、委員長とかすごいね。どんな仕事だったの?」

「もう大変だったよ。あの年の文化祭でさ」

 文化祭での苦労話を聞きながら、みんな高校生だったんだな、と絵美は当たり前のことを思う。そう、たった半月前までは高校生だったのに、十和子とその友人は、すでに次のステップへと進んでいる。


 私、取り残されてるのかな。






「藤崎、ちょっと聞け。あんな教え方で伝わると思うか?」


 ああ、きちゃったな、と絵美は縮こまる。クリスチャンでもないのに、ジーザス! なんて心の中で叫ぶ。


「そりゃあな、藤崎みたいに理系教科が得意なヤツならまだ伝わると思う。けどあの子は数学苦手でしょ。いや、中学のときの俺でも、あの説明じゃたぶんハテナだわ」


 金曜日、塾での授業後。絵美は誠からお叱りを受けていた。この塾は個別指導で、さっきの時間、二人のいたブースは隣どうしだった。


「はい、反省してます。でもなんで私の授業聞いてるの。聞く余裕あるの」

「お前、この塾に何年いるんだよ。授業のシステムなんかわかってるんだから、それくらいの余裕はあるだろ」

「それ、そっちが特殊なだけ! ほんとそうやって周り見るの得意なんだから」


 ずっと通っていた塾とは言え、講師としてはお互いに始めたばかりだ(塾長のご厚意で、暇をしていた三月から始めているけれど)。それなのに、仕事のできる誠は早くも信頼を置かれつつあり、一方の自分はまだまだミスばかりしている。

 悔し紛れに言ってみる。

「もう、この前の授業妨害のことで怒ってる? 男のクセに細かいこと引きずっちゃって」

「それは塾講師の言うべきセリフかな?」

 かなり嫌味たっぷりで、しかも正論で、絵美は言い返せなかった。今気付いた。冷静に考えれば、彼がこの前受けていたという授業、立ち見ができるほど人気だということは、もしかしたら彼も楽しみにしていたのかもしれない。


「ごめんなさい」

「そう、それが正解」

 へへ、と笑うその顔が、とてもとても憎たらしい。そんなやり取りを見ていた子供たちが、ケンカケンカ、とはやし立てるので、早く帰りなさい、と言っていると、誠はますますニヤニヤしている。場所が場所じゃなかったら、この、と叫びながら背中を思い切りはたいてやりたい。


 誠はいつだってこうだった。イタズラ好きで、自分より一枚上(うわ)手(て)で、上手く言いくるめてきては憎たらしく笑って。大学進学も推薦で早々と決めてしまい、自分たちが勉強している時期に遊び倒していた。だけど根は真面目で優しいから相談にはちゃんと乗ってくれたり、色々アドバイスをくれたり。さらにクールぶってる割に結構裏では感情も豊かで、そういうところは憎めないから、結局ずっと親友でいるけれど。


 絵美は靴を履き替えながら外を眺める。朝から降っていた雨は止んでいる。タクシーが塾の前をゆっくりと通り、暗い中で、濡れた路面に描かれている白い矢印がくっきりとライトに照らされていた。それを見送り、傘を取って帰ろうとすると、

「一緒に帰るか」

 先に出ていたはずの誠が待っていた。


「へえ、なんか久し振りだね」

「今日雨だったし、自転車ないからな」


 誠は大学に自転車で通っていて、大抵そのまま塾に来る。絵美は、坂が多いからと大学へは電車を使っていて、駅近のこの塾には徒歩通勤だ。いつもは塾の前で別れている。


 街灯がぽつりぽつりと灯っている。この辺りは、ちょうど絵美が小学校に入った頃に開発された住宅街だ。当時はきれいな街並みと可愛い家が目を楽しませてくれたのに、今ではすっかり落ち着いてしまっている感がある。ここは小学生時代の通学路でもあり、昔は幼馴染のメンバーで毎日のように一緒に通ったけれど、さすがにこんな遅い時間に歩くことは滅多になかった。絵美がそう言うと、誠は、

「そうだな、こんな時間、夏祭りのときくらいかな。二つあったじゃん、駅前の祭りと、中学校の横の市民グランドで盆踊り」

 と言った。


「ああ、そうだね。懐かしいな。高校のときは部活の友達と行ってたし」

「俺も。でもそういや、駅前の祭りは無くなったよな。もう二年前?」

「三年前だよ。小さいお祭りだったけど、好きだったのにな」


 盆踊りの方は出店も多かったけれど、その分人も多くて範囲も広くて、小学生の頃は目当ての店を回るだけで疲れた。駅前の小さなお祭りは、小学生でも余裕を持って全て回れる規模だった。絵美はふっと思い出す。そう言えば、翔ちゃんと誠は、スーパーボールすくいに熱中して何度も競い合っていたっけ。懐かしい思い出だ。


 夜の空には、雲の隙間から星が見えていた。絵美は春の大三角を結ぼうとして、すぐに二つまで見つけた。だけど、もう一つの星は雲に隠れているのかもしれない。



 ――三角形って、すごいんだよ。




 突然、絵美の頭の中に、幻の声が響き渡る。あっ、と声が出そうになった。




 ――点は一つじゃ転がっちゃいます。点は二つじゃふらついちゃいます。だけど三つ集まると、お互いがどしっと支え合って、ぴたって止まっちゃいます。え? 四つでもいいじゃんって? ダメ。点が四つあったら、四角にも、三角錐にもなっちゃうでしょ。ぴたって一つの形に決まるのは、三角形まで。だから、三角形はすごいんだよ。




「藤崎。ちょっと聞いてもいいか?」


 ビクッとしたのを悟られないように、絵美は明るい声で尋ねる。


「何? 女心の掴み方?」

 バカ、とすぐに一蹴される。


「その、翔……上野君のことだけどさ」


 どことなく、誠は気まずそうな顔をしている。ああ、そうだよね、と絵美は思った。男子はそういうのちょっと恥ずかしくなるものなんだ。誠が私のことを、えみちゃん、と呼ばなくなったときを思い出す。結局「仲井君」「藤崎」に収まったけれど、あのとき、私は悲しくて、そして誠も本当は自分自身に困惑していたのかもしれない。


「うん。どうしたの?」

 だから自分は、翔ちゃん、と言わない返事をした。明るく、明るく――。

「姉ちゃんのこと、何か言ってた?」


 通り過ぎてゆく車の眩いライトを浴びながら、生唾を飲み込んでいた。


「いや、言ってなかった」

「そっか」

「私も言わなかった」

「だろうな」

「あのこと、ちゃんと知ってるんだよね?」

「ああ、うちの親が伝えてるはず」


 それっきり会話は途切れた。彼は少し前から、時々、こういう沈黙を作り出すようになっていた。いつもならこうなったとき、絵美から適当な話を振ってなんとか場を繋ぐ。だけど、今日はちょっと、無理。


 代わりに絵美は誠の顔をチラッと盗み見る。暗い住宅街で、表情はイマイチ読み取れなかった。いや、昼間だったとしても、読み取れなかったかもしれない。


 今までずっと、と絵美は思う。誠との間で、彼の姉の話は極力避け続けていた。この前は、翔ちゃんとの会話でも、避けてしまった。自分も、誠も、そしてもしかしたら翔ちゃんも、あの子の話にどういう表情をすればいいか、まだ決められないのかもしれない。


 きっと誠も、翔ちゃんが戻ってきたことに本当はすごく驚いたんだ。そして彼なりに過去を振り返っているのかもしれない。


 私と翔ちゃんと、彼の姉のすーちゃんこと、仲井澄香なかいすみかがいた頃のことを。




 上野翔馬、仲井澄香、仲井誠、そして自分、藤崎絵美。


家の近い四人で、いつも一緒に遊んでいた。翔ちゃんとすーちゃんは同い年、私と誠がその一つ年下で同い年。時にはそれぞれの友達も交えてだったけれど、男二人、女二人。年上二人、年下二人。それはいいバランスだったのかもしれない。


 翔ちゃんは活発でリーダー格、誠はちょっとクールでイタズラ好きな少年(ただし翔ちゃんと何か競うときはムキになったりする)。私は、無邪気にみんなについていく役。


 すーちゃんは、病気がちな子だった。公園で遊ぶときはよく外から見学していたし、小雨がぱらつくと、風邪をひいたら大変だからすぐに帰らないとダメだった。


 その代わりに、彼女はとても透明感があって綺麗な女の子だった。優しくて、落ち着いていて、声が綺麗で、物知りで、そして、ちょっとしたお話を作るのが得意だった。時々お話を書いたノートを持ってきては、読み聞かせてくれたり、プレゼントしてくれたりした。彼女の作品はファンタジーに溢れていて、いつでも心温まるハッピーエンドだった。そんな彼女のことを、私は本当の姉のように慕っていた。


 中学や高校の頃になると、彼女は入院しがちになった。私は、部活の合間を縫って足繁く病院に通い、彼女とお話をした。元々細くて白い手足がさらに華奢になっても、彼女はたくさんの本を読んで、たくさんのことを楽しそうに教えてくれた。


 だけど私が高校一年生の夏の日、すーちゃんは病気で逝ってしまった。


 お通夜のお焼香の匂いや、優しい笑顔の遺影や、鳴り続ける木魚の音や、頬を伝う涙の温度、その一つ一つが今でも鮮明に思い出せる。すーちゃんの両親が泣いていたのも、誠がずっと下を向いて口をギュッと結んでいたことも。



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