こんな腰抜けじゃなかった
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前の黒板で繰り広げられる数学の証明をひたすら書き写しながら、翔馬のあくびは止まらない。
物理学科の一年生のこの曜日は、午前中に二時間続けて微分積分学の授業が入っていて、間に休憩があるとはいえ中々ハードだ。おまけに教室が四階だから、一階の自販機にジュースを買いに行って、トイレに寄るだけで休憩は終わってしまう。集中も切れるというものだ。
証明はどうやら佳境に入っているらしい、ということだけは先生の語調から伝わってくる。
大体、だ。εだのδだのいきなり言われても、さっぱりわからない。しかも「君たちは物理の学生だけど、これくらいは常識として持っておかないとね」なんて釘までさされている。翔馬は周りを見回してみたが、困惑している様子の学生がチラホラ見受けられる。ほら言わんこっちゃない、と他人(ひと)事のように思いながら、機械的に手を動かしていた。
ようやく授業から解放されたのは、延長したせいで十二時五分。学食はとっくに学生で込み合っているはずだ。春爛漫のよく晴れた日で、朝との寒暖差で背中には汗が滲み出す。上着を脱ごうか迷いながら、飯どうしようかなと教養棟の構内を歩いていると、手を振りながら誰かが駆けてくる。目を凝らした翔馬は、その正体に気付き、驚いた。
「誠?」
翔馬の前で立ち止まって一息つくと、誠は整った顔を和らげた。
「ああ、久し振り」
誠は背が伸びて、肩幅も合わせて大きくなっている。だけど顔立ちは少年のままだし、声もあの頃のように高めで、少しカッコつけて左手をポケットに入れているところとか、そんなところも変わっていない。
「藤崎に聞いたんだ。上野君が戻ってきてるって」
「藤崎」「上野」ねえ、と思いながら、なるほどな、と翔馬は答える。
「誠もこの大学だったのか。ビックリした」
「俺だけ文学部だけどね。今から飯にしようと思ってたんだけど、食べた? コンビニで買ってその辺で食べない?」
「ああ、いいよ」
外のコンビニで弁当を買い、構内に戻って二人でベンチに座った。日陰の席は取られていたが、上着を脱げばなんとか我慢できる。
「この地域って、こんなに暑かったっけ」
「こんなもんじゃない? あー、ここ数年は確かに気温上がってるかも」
「そっか。こっち、北の方だったから割と涼しかったんだよな。その代わり冬は大変だったけど」
翔馬の引っ越し先は、海に近い、曇天の日が多い街で、冬にはよく雪が積もった。道には除雪車が走り、歩道は凍結するから、こけないように気を配りながら歩く。そんな話を、誠は興味津々に聞いていた。この大学の辺りはそんなに雪が降らず、誠はこの地域以外に住んだことがない。
「クラスでもさ、何人か遠い所から来てるんだよね。やっぱり、大学くらい別の地方に行けば良かったかな」
誠が羨ましそうに言った。
「いいじゃん、実家の方が安く済むし。しかも推薦なんだから文句言うなよ」
「ふふっ」
弁当は大した味ではないけれど、こうやって会話しながら食べていると気にならない。昔のように慕ってくれる相手がいるのはありがたいな、と翔馬は思う。
「意外と、元気そうなんだね」
まあな。そう言いかけて、誠の様子が少し変わっていることに気付いた。
「じゃあどうして、姉ちゃんの葬式に来てくれなかったの」
口調こそ冷静だ。いや、だからこそ、その裏の感情が翔馬にはありありとわかってしまう。ついつい気圧されてしまい、
「それは、色々必死だったから」
と、しどろもどろ答えてしまった。
「言い訳にならないよ」
翔馬は思わず目を伏せる。弁当箱の中の、しなしなのレタスが目に付く。水分を失って、新鮮だった頃なんて忘れてしまったレタス。
「それならせめて、姉ちゃんに会いに行ってやらないの」
「……いつか行こうと思ってるから」
「いつかって、いつ」
「それは」
「姉ちゃん、ずっと上野君のこと待ってるはずだ。とにかく一度会いに行くだけでも」
「……無理なんだ」
今はまだ、勇気が湧かない。今行ってしまったら、どうなるんだろう。過去のことが蘇る。暗い部屋で、絶望の中うずくまる自分の姿――。
「じゃあ、何のために帰ってきたんだよ」
誠の声には、露骨に苛立ちが浮かんできている。声が大きくなり、周りの目が集まっても、彼は怯まない。
「この町に戻ってきたって聞いて、姉ちゃんに会いに来たんだって思ってた。すぐに来てくれると思ってた。ただ昔を懐かしむために戻ってきたのか? ちょうどいいレベルの大学だから偶然戻ってきたのか? 違うだろ?」
「だから、ちょっと待て」
「すぐに会ってやってくれよ、頼むから」
顔を上げると、目の高さが同じであることに翔馬は今さら気付いた。昔は、自分の方がずっと高かったのに。
背丈が一緒で、誠の目は芯が通っていて、自分の目は、ぶれている。
「もういい」
弁当の蓋を閉めて、誠は立ち上がった。
「藤崎は、変わってないとか言ってたけどさ。あんたは、こんな腰抜けじゃなかった」
スタスタと歩いていく後ろ姿を、翔馬は苦々しく見つめる。周囲の視線が痛いな、と頭のどこかで冷静に考えていて、ますます自分に嫌気がさした。
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