うきうき

 ☆


 絵美は、浮き立つ気持ちのままに家のドアを開ける。


「ただいまー」


 ドタバタと洗面所に向かい、手を洗っていると、台所の方から黄色いエプロンをつけた母親が顔を覗かせる。


「絵美、牛乳買うだけでどこまで行ってたの」

「乳牛飼いに行ってた」

「へえ、今度写真送ってね」


 いつも通り適当な会話を交わし、はい、と牛乳パックの入った袋を母親に手渡してから、絵美は台所に入る。コンロの横にシチューのルーが置いてある。


「あのね、本当は、さっき翔ちゃんに会ったんだ」

 母親は首を傾げた。

「ああ、翔ちゃん。上野さんの所の」

「うん。この春から私と同じ大学、同じ学部なんだって。一人で下宿してるみたい、ビックリじゃない?」

「へえ、理学部なの。確かにあの子、理科とか好きだったもんね」

 そう言えば、上野さんの所とも最近疎遠だったよねえ、などなどブツブツと言いながら、彼女は洗い物を始めた。もっと喜ぶと思ったのに、もう! と思いながら、絵美は台所を後にする。


 自分の部屋に入るとすぐに、絵美は携帯を取り出した。アイツなら、絶対驚いてくれる。

「もしもし、仲井なかい君? 私、絵美!」

 電話を通して、はあ、と大げさな溜め息が聞こえる。

「耳元で叫ぶなよ、しかも今は授業中だ」


 仲井まことは絵美や翔馬の幼馴染で、絵美とは小学校から大学まで同じ、高校までは塾も一緒だったという、筋金入りの腐れ縁だ。今は文学部に所属している。


「あ、ごめん。つい」

「大した用じゃないなら切るぞ」

「待って。大事な用事。ベリー・インポータント」

 はあ、と二回目の溜め息。

「まあ大教室の奥で立ち見だから、ちょっとくらいなら迷惑にはならなそうだけど。そっちは授業ないのかよ」

「このコマ、本当は化学実験なんだけど、まだ始まってないんだ」

 今日は二時間目の一般教養がガイダンスで終わった関係もあって、絵美は早く帰ることができていた。さっきの出来事は、ラッキー中のラッキーだ。

「ふうん。で、急ぎの用なんだろ。何?」

「ふふ、聞きたい?」

「早く言えよ。あ、板書消されたじゃねえか。まだメモしてなかったのに」

 彼の声には露骨に苛立ちが滲み出してきている。あっ、このモードに入ると、ちょっとまずいかも。

「ごめん。実は……翔ちゃんがこの町に戻ってきてるんだ! さっき会って、しかも私たちと同じ大学!」

 一瞬間を置いて、へえ、という返事があった。

「反応薄い……」

「もう話すことはないよな? じゃあな、切るよ」


 最後の「よ」を言い切る前に、電話はもう切れていた。あー、これは完全に怒っちゃったな、と絵美は頬を掻いた。次に塾のバイトで会ったときに、いつもの三倍嫌味を言われたりするかもしれない。


 窓を開けて、ベッドの縁に腰掛けながら、絵美は外を眺める。部屋に差し込んでくる、包み込むような陽光が眠気を誘う。どこかで鳥がぴいぴい鳴いている。絵美は音階を思い浮かべて、シの音だ、とぼんやり思う。


 シは翔馬のシ。翔ちゃんが、帰ってきた。


 みんなの反応が薄いのか、自分の反応が異常なのか。まあ、直接会うのと話で聞くのとは違うよね。直接会えば、みんなもっと喜ぶはずだ。


 翔ちゃんは、変わっていなかった。背が高くなって、最近運動していないのか、あの頃より日焼けが薄くなっても、優しい顔で、思いやりがあって、頭のいい昔馴染みの上野翔馬だった。もしそう伝えたら、お前も変わってないよな、と呆れ半分に言われそうだけど。


 部屋の鏡を見つめる。そこに映るのは、嬉しい気持ちを前面に押し出した私の姿。目の前の私に向かって、溢れる想いを言葉にしてみる。


「私ね、やっぱり翔ちゃんが好き」


 そう、私も変わっていなかった。それはむしろ嬉しいことだ。





 小さい頃、私はずっと翔ちゃんのことが好きだった。


 元気でスポーツが得意で、引っ張るタイプと言うよりはみんなに優しいお兄ちゃんで、探求心が強くて面白い科学の実験が好きで、そんな彼はいつだってカッコ良かった。ゲームやサッカーで同じチームになると嬉しかったのは、ほとんどはそれが原因だ。同級生の友達ももちろんいたけれど、それよりは翔ちゃんたちと遊んでいる方がずっと楽しかった。


 だから彼が引っ越すと聞いたときは、わんわん泣いた。毎晩のように泣いて、このまま煮干しのようにからっからに干からびちゃうかもしれない、とまで思った。


 この六年間、さすがに彼のことはもう諦めていた。高校生のときには、クラスの男の子に告白されて付き合ったこともある。だけどデートもしないうちに別れた。やっぱり違和感があったから。そして今日、翔ちゃんに会ったら、ちゃんと気持ちは再燃し始めた。燻った炎も、新鮮な風を与えてあげれば、ちゃんと火が灯り始めるんだ。



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