故郷と幼なじみ(1)

 授業が始まっても、最初の一週間は特に何もなく過ぎていった。授業なんかあまり期待しない方がいいぞ、と淳博は言っていたが、少なくとも専門の授業は面白そうなので翔馬は安心していた。学部にも、少し話し相手ができた。もう一つ、聞いていた通り、現役・浪人の壁は無くて、そこもホッとした。


 今日の授業は午前中だけで終わった。本来は午後から物理学実験があるが、履修登録の関係などで始まるのは来週かららしい。翔馬は学食で学部の友人と昼飯を食べて、別れてから自転車でとある場所へと向かう。


 買ったばかりの自転車は、シャーッと軽やかな走行音を鳴らして、快調に車輪を回し続ける。翔馬は実家の自転車を思い出し、キイキイと音を鳴らしながらずっと乗っていた自分の恥ずかしさに気付く。あれはたぶん油をさしてなかったからなのかな。


 なんとなく、見覚えのあるような、ないような住宅街の風景が続いていた。この辺りは典型的な郊外の住宅街だ。どの家も二階建てで程々の大きさの庭を持ち、犬を飼っていたり、春の花が咲き誇っていたり。しかしやがて桜並木が見えると記憶のどこかが刺激され、フェンス越しに小学校が見えると、あっ、と声が出た。


 大学から自転車で二十分。新生活に忙しくて、なかなか来ることができなかった。紛れもなく、中学一年生の頃まで過ごした故郷、井原市だった。


 帰ってきたんだ。かつて六年間お世話になったグラウンドに向かって、翔馬はぽつりと呟く。


「ただいま」


 揺れる桜の木の枝が、手を振って答えてくれているように思えた。




 生まれてからの十三年間を、翔馬はこの井原市で過ごした。町の中心部の大半は住宅街や団地、マンション、そして少し離れると、それを囲むように川や田んぼがあるようなのどかな町だ。中学一年生の終わりに親の転勤に絡んで引っ越して以来、この町を訪れるのは初めてだった。


 翔馬は自転車を押しながら歩いていく。小学校の向かいにはコンビニがあって、そうそう、ここで生徒が万引きしたとかで集会とかあったよな、と苦笑する。その向こうのマンションも、当時は新築で、少し色褪せただけで変わらず建っている。


 なんだあんまり変わらないじゃないか、と安堵した、のも束の間だった。


 あれ、ここもマンションだったっけ……?


 翔馬の知らない、ピンク色の新しいマンションがいくつも建っていた。記憶を辿り、ああ、ちょっとした商店街があったんだ、と思い出す。そう言えば、今は大学から少し行ったところに大型ショッピングセンターができていて、その影響もあるのかもしれない。このご時世、商店街は流行らないみたいだ。


 過ぎ行く町並みは、少しずつ翔馬の記憶と食い違う。がたがただった大通り沿いの歩道が舗装されて綺麗になっていたり、横断歩道のBGMが変わっていたり、見知らぬ美容院や歯医者ができていたり。住んでいたマンションはそのまま変わっていなかったが、何気ない風を装ってポストを見ると、かつて住んでいた部屋には「中岡」というカードが刺さっていた。中岡さんは、何人家族で、どんな日常をあの部屋に積み重ねているんだろう、と思いを馳せたりしてみる。オートロックのドアの向こう、エレベータフロアが、やけに遠く見えた。


 観光客のような気持ちでキョロキョロしながらさらに歩いていると、「テナント募集」と張り紙のされた物件の前で、呆然と立ち尽くしてしまう。


「マジかよ」


 そこは、週末になるとよく家族で行っていた居酒屋だった。小さな店内はいつも満席で、コロッケに揚げだし豆腐、どの料理も本当に絶品だった。そうそう、そんな食事をつまみに、美味しそうにお酒を飲む親や近所の人を見ては、いつかここでお酒を飲めたらとずっと思っていた。もう、あの店の味はここにはない。


 引っ越したのが中学一年、ということは、逆算したら六年前だ。たった六年、されど六年。その六年で、自分にだって色々なことが起こった。きっとこの町も、色々な転換点を迎えてきたはずだ。


 変わっちゃうんだよな、と思った。変わらないでくれよ、とも思った。


 翔馬はふと、背後から視線を感じた。そりゃあ、こんな所で立ち尽くしていたら不審にも思われるか。いや、もしかしたら自分と同じように、この店に思い入れがある人かもしれない――。


「翔ちゃん?」

「は?」


 変わらない声だ。

 なぜだかそんなことを思った。振り返った瞬間、その意味を理解した。


「やっぱり、翔ちゃんだ!」


 翔馬と同年代くらいの、ふわっとした黒い髪、淡い緑色のカーディガンに春らしい花柄のスカート、親しみやすそうな印象の女性が、嬉しそうに目を見開いていた。ああ、この笑い方。あの頃とほとんど同じだ。


絵美えみ?」

 彼女は何度も頷く。

「久し振り、戻ってきたの?」

「うん、まあな」


 翔馬は気恥ずかしく笑う。彼女もつられて同じ笑い方をする。


「翔ちゃん、お帰りなさい」

「ああ、ただいま」


 町が少しずつ変わっても、変わらない幼馴染がここにいた。



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