(1)
乾杯
「上野翔馬の入学を祝ってえ、乾杯!」
チン、とグラスのぶつかる音が定食屋のテーブルに響く。とはいっても中で揺れるのは酒ではなく、ただの水だ。
「水で乾杯なんてさ、マジで高校の頃に戻ったみたい」
「おっ? すっかり先輩ヅラしやがって」
翔馬は友人の
「飲み会とかさ、結構してるわけ?」
「んー、まあそれなりにな。金が飛んでヤバい」
「いいなあ。クソ、どうせ俺が勉強で苦しんでる間に、合コンとかで女たぶらかしてたんだろ」
「まて、俺がそんなヤツに見えるか」
「そのムッツリ顔が全て物語ってる」
「誰がムッツリだ」
淳博は眼鏡の下で笑う。入試の後に彼と会ったときにも翔馬は思ったが、高校時代の垢抜けない髪型と銀縁眼鏡から、茶髪とオシャレな黒縁眼鏡に変わっていて、おまけにネックレスを身に着けたり革ジャンだったりして、なんだか慣れない。
「あ、これ美味いな」
翔馬は何気なく口に運んだ豚キムチに舌鼓を打った。
「だろ? この店、そんなに高くなくて味もいいからさ。雰囲気もそこそこいいし、オススメ」
淳博はオムレツ定食のサラダを口に運び、このドレッシングもいいんだよな、と満足そうに言う。
店内はほどほどに混んでいて、客層もカップルや友人どうし、一人で新聞を読んでいる大学教員まで様々だ。内装は木の温かみを活かしていて、電球のオレンジ色が団らんの雰囲気を作り出している。翔馬が入学したのはこの辺りでは名の通った大学で、大会場での厳粛な入学式、その後の最先端の研究を紹介するガイダンスと続き、期待を高めていた。その一方で、こういうお店でご飯も楽しめるのも良い。ああ、ようやく大学生になったんだな、と実感が湧いてきている。
「そういや語学とかもう決めた?」
淳博はそっと味噌汁を口に含み、大丈夫だと確かめて飲んでいく。猫舌なのは、相変わらずらしい。
「ああ、なんとなくだけどドイツ語にした」
「おお、理学部生っぽい」
「何だよ、そのイメージ。別に今時ドイツ語なんか使わないだろ、知らないけど」
「まあな。でも文法が大事な言語らしいし、ほらそういうの好きだろ、合ってるんじゃないの」
翔馬が入ったのは、理学部の物理学科だった。進路を決めるときは色々と迷ったが、昔から科学実験が好きで、だけど工学部って感じじゃないんだよな、という考えだった。ちなみに淳博は、その「じゃない」方の工学部で化学をやっている。
「翔馬ってさ、ずっと思ってたけど、バリバリ野球やってたスポーツ系な割に理屈っぽいところあるよな」
「また偏見かよ。野球にだって理屈は必要ですー」
嫌味たらしく口をすぼめてみると、「その口にコルク栓してやりてえ」と淳博は笑った。シュポッ、とコルクを抜く音をマネして言ってみると、思った以上に似ていなくて、おまけに、ひでえ顔、と腹を抱えて笑われる。
「たとえばさ、ピッチャーの配球の定石ってあるじゃん」
「うん」
淳博は息を切らしながら返事した。翔馬は顔をヒクヒクさせながら、我ながら、そんなにひどい顔だったんだろうかと思う。
「外、外ときたら内、高め、高めときたら低め。追い込んだら低めの変化球。そんな定石を知るのは大事だけど、バッターだってそんなことは百も承知だ。だから相手打者のデータ、その試合でのピッチャーのコンディション、色んな事を考えて打ち取らないといけない。あえて普通と逆をついて三振とか決まると痺れる」
「へえー。翔馬ってキャッチャーだったんだっけ」
「ああ、まあな」
「かっけえな、司令塔じゃん」
ずきっ、と心が痛む。
二人が仲良くなったのは高校三年生の時だ。その頃には翔馬はもう野球部を辞めていて、淳博はその詳しい経緯を知らない。むしろ、それがありがたい。
それにしても、司令塔か。あの場所に座れば、投手の配球を、時には野手への守備位置の指示を、責任を持って引き受けなければならない。あのプレッシャーと、快感。
「大学でも続けるのか? 草野球サークルとかあったと思う」
ほんの少し、心動いた。
「いや、野球はもうさんざんやったしなあ。色々サークル見てみるよ。新入生は新歓行けばタダで奢ってもらえたりするんだろ?」
「ああ、そうだな。チクショー、お前みたいなのがいるから、こっちはさらに金が飛ぶんだよ」
今日は絶対奢らねえからな、なんだよケチ、と二人で言い合う。とても穏やかな時間だ、と翔馬は感慨にふけっていた。
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