寂しい魔法
よほど緊張しているのか、カチャカチャと陶器が触れ合う音を多めに鳴らしながら、マリアはお茶の支度をはじめた。
出窓の傍らに据えられた石製の長椅子に腰掛けて待っていると、そろそろと近づいてきて、捧げるように菓子皿を差し出してくる。
「あの、本日のお菓子は、薔薇の精油を混ぜた砂糖菓子です。薔薇の香りが漂います」
「――ありがとう」
「あの、お手元に――」
長椅子の上に柄布を敷き、菓子皿を置くと、マリアはあっという間にうしろに下がって「失礼いたしました」と
その娘が身にまとうのは、この王城で働く女中のもの――その娘が着る必要など一切なかったはずのものだ。
もしも、この娘の故郷が滅びず、父親が捕虜として攫われず、母親が国のために死んでいなかったら。そうしたら、この娘は今ごろ血の繋がった誰かと手を取り合って、敵国の支配下に置かれようとも、故郷で細々と暮らしていたはずだ。敵国の王城に女中として忍び込むこともなく、その国の『魔女』に茶の奉仕をすることもなく。
(脅えられて当然か――)
いまのエポドスは、この王城を守る魔術師の長。マリアという娘にとっては、出自を見破られてはいけない敵だった。
(守りたかったのに――)
幼い頃に、泣きじゃくる少女の幸せを願ったことが、目裏によみがえった。
『魔法をかけてあげる。――カシム・カージ。この子が、母上を失った悲しみを忘れられますように。悲しい記憶を閉ざしてあげて』
魔術に疎かったエポドスが魔法らしい魔法をかけられたのは、その時だけだった。滅びの日に、性別が混ざる呪いをかけられた時までは。
菓子皿を届けたマリアは、ワゴンのそばへ戻っていて、
「お待たせしました」
金の
思わず、エポドスは笑った。マリアの顔が真剣だったからだ。お茶をこぼさないようにと、盆の上をじっと見つめる目も愛らしい。
(この娘があの子なら――そうか、こんなに大きくなったのか)
エポドスがはじめに見たマリアは、たしか十くらいで、真っ赤に溶けた金属の熱と、さまざまな燃料が焼ける匂いがこもった炉場にいた。
あの時、エポドスは九歳だった。年はそこまで変わらないはずだから、マリアもそれなりの年に育っているだろう。
「どうぞ」
丸盆を石の上に置くと、マリアはスカートをつまんで挨拶をする。お茶は届けたのだから、彼女の仕事は終わった。――エポドスは、引き留めた。
「ねえ、マリア。なにか歌ってくれないかしら」
(この子があの「マリア」かはわからないが――そういえば、ノルア・マジュリーの娘の美声を誰かが噂していたな)
前に、夜天のもとでこの娘の前に姿を現した時、エポドスはこの娘の歌声に呼ばれたのだった。この娘の歌声が、夜風を騒がしていたから。
マリアは、目を白黒とさせた。
「歌、ですか?」
「あの曲でいいわ。夜に似合う、月の女神の歌」
できれば懐かしい母国の歌を――そう思ったが、できないことはわかっている。『女神の御胸に……』と歌詞を口ずさむと、ますますマリアはぽかんとした。
「あの、あなたが、わたしをここに呼んでくださったのですか? ――いいえ、いいんです。すみません」
マリアはなにかを尋ねようとしたが、途中でやめた。それから、すうっと息を吸う。赤い唇のあいだから、歌声を紡いだ。
女神の御胸に抱かれし風の子は
男神の息吹にて星の子と成る
風に舞う子は光の子
火の神、水の神、砂の神も
出で来ていざ、はじまる祝福の宴
揃い来ていざ、盛況なる祝福の宴
囁くような歌い方で、声を張り上げるようではなかった。月の光や、風のささやきや、草花の内緒話や――目に見えないなにかが旋律の形を得たらきっとこうなるのだろうと、歌声は、聞く者の想像をかきたてる。
歌い出しのほんのわずかなあいだに人の心を掴んで、精霊や神の加護を思い知らせて、祈りへと向かわせる――神官や巫女から成る唱歌隊の歌声にも似ていて、もしも神の御使いがいたならこのように歌うのだろうと、楽園の幻をみせるようでもあった。
でも、エポドスには、歌声の正体が見えていた。
(
その娘が歌うたびに、唇の隙間から、ポッポッと白い光の珠が生まれる。それは、子守歌にまどろむように娘の美声に寄り添って、周りで輪をつくり、無邪気に笑った。
聖霊というのは、人にもっとも近い神の使いであり、礼拝所で祈りを捧げる相手だ。月の男神ヤーと風の女神カシムの子と信じられていたけれど、いま、娘の口元から、神の使いであり神の子、カシム・カージが次々と生まれている。
(まるで巫女だ。――しかし、目立つ)
前にこの娘を見つけたのは、聖霊が突然群れはじめた場所を見つけたからだ。聖霊は魔術を使う時の仲立ちになる、だから――。
(カシム・カージが集まっているなど、凄腕の魔術師がいると思ったんだ。私が気づいたということは、べつの誰かもいまに気づくだろうな――)
マリアから目を逸らして、ため息をついた。
「すこし厄介なことになりそうだ」
マリアははっと表情を歪めて、歌うのをやめた。
「もうしわけありません。お気に召しませんでしたか」
「いいや、違う――」
「えっ?」
「つまり……違うわ。とても美しい歌声だったわ」
悲しげな顔につられて慰めようと即答したが、自分がいま女の姿をしていることをうっかり忘れていた。皇太子として母国に暮らしていた時とは似ても似つかぬ身体になり、脚も腕も細くなっている。この姿に似合うふうにふるまおうと、女らしい所作にもすっかり慣れていた。それなのに。
(――皇太子だった男の私は、国が滅んだ時に死んだのだ)
この娘がもしもマリア・マジュリーなら、この子は守れなかった国民の一人で、いまはない王国の同郷者でもある。
つい、尋ねていた。
「ねえ、おまえの名は、マリア・マジュリー?」
「えっ、はい……」と、マリアはうなずきかけた。けれど、すぐさま顔色が変わる。脅えが表情に浮かんで、黙ってから、首を横に振った。
「いいえ。違います。わたしの名は、マリア・セグンドといいまして――」
嘘を喋っているか、真実を喋っているかくらいは、魔術を使わなくてもわかるものだ。
「そう。マリア・セグンド」
マリアに合わせてうなずいたが、それが偽名で、マリア・マジュリーかと尋ねた時の困惑顔が真実だと、エポドスはわかった。
「こちらにきなさい。あなたの歌声には秘密があるの」
そばに呼びよせて、隣に座らせた。
肩と肩が触れ合うくらいの場所に座らせるとわかるが、マリアの背は低かった。いや、エポドスの背が高かった。女の身にはなったが、背丈は男の時とさほど変わらなかったのだった。
手のひらを掲げて、マリアの口元に平手を当てた。指でその娘の肌に触れると、そこにまだ力が残っているとわかる。生まれたばかりの元気なカシム・カージがここにいた証だった。
エポドスの手のひらの向こうで、マリアの唇が動いた。
「秘密って――」
「うん……」とうなずいて、目を閉じる。手のひらと、そこに触れているマリアの唇に、意識から繋がる細い線を集める。魔術を使う支度をはじめた。
「おまえが歌うと、歌声からカシム・カージが生まれるのよ。カシム・カージが人を呼んでしまうわ。厄介な人をね」
(おまえを殺そうとして幻術で囲んだ、私のような――)
殺してしまわなくてよかったと、心の奥底から安堵する。この娘は守れなかった国民で、国のために心臓を捧げた女の忘れ形見なのに――。
(この子を、守らなければ)
「あなたの首に、鈴をつけるわ」
「鈴?」
「カシム・カージ。この娘のそばで、この娘を守りなさい。この娘に危害を加えようとする者が現れたら、みえない鈴を鳴らし、きこえない音を私の耳に届けなさい」
マリアの唇をふさぐように添えた手の甲に唇を寄せて、囁いた。
幸い、聖霊はたくさんいた。マリアが歌声で生んだからだ。エポドスが囁いた「カシム・カージ」の呼び声につられて、いくつもの聖霊がエポドスの言葉に集まった。聖霊はポッポッと白い光を放ち、マリアの細首を囲んでいく。一度チカッと銀色に輝くと、音もなく消えた。
(仕上がった。これで――)
頼んだとおりに、聖霊は魔術の仲立ちを務めてくれた。安堵して、エポドスは、マリアの唇を隠すように置いた手のひらのそばでほっと笑った
「これまで、苦労をしてきたの?」
「は、はい――?」
唇が覆われているので、マリアの声はくぐもって聞こえる。それに、驚いていた。なぜそんなことを訊かれるのか、と。
「父親はどうしているの。――母親と」
「ちっ、父は行方知れずで」
声が震えていた。脅えているのだ。敵国の守護を司る『魔女』から訊かれるような問いではないのだから。
「母は――その……死にました」
「どうやって――」
「覚えていません。思い出せないのです」
「――思い出せなくていいこともある」
ほうっと、エポドスは息を吐いた。知りたかったのはそれだ。幼い頃にこの娘にかけた魔法が、まだ効いている。
(よかった)
唇を覆っていた手のひらを浮かせて、今度はマリアの額に当てる。額を覆った手の甲に唇を寄せて、新たな魔法をかけた。
「カシム・カージ、この者の記憶を封じ込める門をさらに堅固にせよ」
「魔術よ、はたらけ」と、最後の命令代わりに、ふっと息を吹きかける。手の甲に、唇も触れさせた。念を込めたかった。
マリアが、もじもじと慌てはじめた。
「あの、えっと、あの」
見下ろすと、顔が真っ赤になっている。居心地が悪そうに、目は遠くを見ていた。
「すみません、恥ずかしくなってしまい――。あの――」
なにをそんなに照れくさがっているんだろう。
ぼんやりと考えて、ようやく「あぁ」とわかった。
手のひら越しだったけれど、まるで額にキスをするような仕草だった。
「あぁ――おまじないよ。それに、女同士だし」
気にすることはないわ。そういうと、マリアはごにょごにょという。
「そうですよね、そうです。すみません――」
でも、やはり目を合わせようとしなかった。
「あの、女同士でも、こんなに近くに寄るのは、おかしいですよね……」
ちらっと一瞬だけ目がこちらを向く。「もしかして、あなたは男性ではなくて女の子が好きなのですか」とでも訊きたそうな、奇妙なものを見る目で、エポドスはぷっと吹き出した。
(そうだった、いまは女同士だった)
女として暮らす日常には慣れていたが、急に可笑しくなった。ほんのわずかないたずら心も、ちくりと顔を出す。
「あら、女と女でもいいじゃない。特に、閉ざされた場所ではよくあることよ。たとえば、王城の中とか」
倒錯の世界と揶揄されることもあるが、女を好む女や、男を好む男も、いないわけではない。この王城の中でも、誰それは男色だとか、その逆だとかという噂は聞かない話ではなかった。
(この子はどんな顔をするんだろう)
マリアの目をじっと見つめてやると、マリアはさっと目を逸らした。けれど、二人のほかには誰もいない広々とした執務室を見回すと、かえって背筋を凍りつかせるようにしてびくついた。
「女と女――王城――いえっ、考えたこともございません」
「どうして。恋の相手に女はいや? 女のほうが男よりも生きる力が強いし、賢いし、余計な粗がないわ」
くすくすと笑う。
怖がらせるのはかわいそうだけど、焦っている姿が愛らしくて、つい芝居を続けてしまう。でも。どうせ――と、ふと、すこし心が寂しくなった。
この娘のそばに寄ったのは、魔術をはたらかせるためだ。女同士だからいいだろうとか、そういう逃げ道を考えたわけでもなかった。けれど。
(女の姿に変えられていようが、もとは男なのに――)
女同士だろうが、女と男だろうが、よくない悪戯だったろう。
「戯言遊びはもうやめるわ。私が男だったらまだましだったのに、からかって悪かったわ」
謝ると、マリアは頬をますます赤らめた。
「あなたが男だったら? ――いいえ、もっと逃げていたかも」
「なんだ」
すこし、落胆した。
理由はわからなかったけれど、高揚した気分が潰えて、息を吐いた。
「ううん、私が悪い。怖がらせてごめんなさいね。――ごめんね」
額に置いていた手のひらで、今度はマリアの目を覆う。手の甲のそばに唇を添わせて、次の魔法をかけた。
「カシム・カージ。風の子たち。この娘から、私の記憶を抜き去り風に連れ去りなさい。なにもかも、この娘は知らない」
「――えっ」
マリアは一度、悲鳴をあげた。でも、一度きりだ。
しばらく経って、そろそろと手のひらを目元からよけると、マリアの目はとろんと瞼が半分閉じている。呼び声につられてやってきた聖霊が、この娘に寄り集まっては頭の奥にあった自分の気配をついばみ、食べてしまった。この娘から自分のことを忘れさせたのだ。
頭の中を目には見えない手と口でついばまれて、マリアはぼんやりしている。その真正面で、小さく笑った。
「次もまた、『はじめまして』になるね――またね」
この娘は、守れなかった国民で、懐かしい故郷の風景を語り合うことができる同郷者で、幼い頃に生まれてはじめて魔法をかけた少女だ。
また、忘れられるのか。この子の頭の内側に、私の記憶はもうないのか。
そう思うと、みずからかけたはずの魔法が恨めしくなった。
(でも、この子のためだ)
この子が脅える敵国の『魔女』が、その子の名前を探ったり、近づいてきたり、怖い思いをさせたり――そんないやな記憶は、忘れてしまったほうがいいだろう。
でも、寂しい。
思わず、マリアの額に唇を寄せた。白い肌に、そっとくちづけた。
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