「はじめまして」?
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『次もまた、「はじめまして」になるね――またね』
『魔女』の執務室を出て、マリアはぼんやりと銀のワゴンを押した。けれど、『魔女』の部屋を出て、廊下を進んで、どれだけ遠ざかっても、品のいい柔らかな女の声が耳の奥に残っている気がして、たまらない。
『次もまた、「はじめまして」になるね――またね』
夢をみたのか、幻か。記憶はあやふやだが、とても近い場所から顔を覗きこんでくる美しい女の顔も、目の奥におぼろげに残っている。――『魔女』の顔だった。
(ちょっと待って)
『戯言遊びはもうやめるわ。私が男だったらまだましだったのに、からかって悪かったわ』
(ちょっと。待ってってば)
『カシム・カージ。風の子たち。この娘から、私の記憶を抜き去り風に連れ去りなさい。なにもかも、この娘は知らない』
(待って――どういうこと? 記憶? 覚えてる……知ってる、忘れてない、忘れてな――)
たしか、『魔女』の部屋に呼ばれた。お茶を運んで、そばに呼ばれて、なにやら親し気に微笑まれて、手のひらを唇や額や目に当てられた。
あれはきっと魔法をかけていたんだ――と、魔術のことをよく知らないマリアにもなんとなくわかった。なにしろ、相手は『魔女』。その女の手が触れているあいだは、手のひらの周りでなにかが蠢いている気がして、妙に気味が悪かった。
魔術師は、魔術の仲立ちとして聖霊を使役するのだという。たしか、魔女は、その「カシム・カージ」を三度呼んだ。
「カシム・カージ。この娘のそばで、この娘を守りなさい。この娘に危害を加えようとする者が現れたら、みえない鈴を鳴らし、きこえない音を私の耳に届けなさい」
「カシム・カージ、この者の記憶を封じ込める門をさらに堅固にせよ」
「カシム・カージ。風の子たち。この娘から、私の記憶を抜き去り風に連れ去りなさい。なにもかも、この娘は知らない」
銀のワゴンを押しながら、思わず声が出る。
「ちょっと待って。これ、夢?」
うっかり手の力が弱まると、ワゴンはすぐに動きを止めた。
ワゴンの小さな車輪は上等な絨毯の上を転がるのに向かなかったので、思いどおりに押すには、絶えず注意を行き届かせなければいけなかった。
これが夢なら、とても世知辛い夢だ。夢の中でくらい、すいすいとワゴンを押したいものである。
(夢じゃなかったとしたら、もしも夢じゃなかっ――)
『魔女』は、なにやらとても親し気だった。風の女神の歌を歌わせて、「この娘を守りなさい」と魔法をかけて、父や母のことを訊いて、母が死んだ時のことを思い出せないと話すと、哀しそうに笑った。
『――思い出せなくていいこともある』
『魔女』は、名前も訊いた。
『ねえ、おまえの名は、マリア・マジュリー?』
たらりと、背中に汗が落ちる。
誰にも――吟遊旅団の団員にも打ち明けていない、マリアの本当の名前だった。
(どうして『魔女』が――)
もう一つ、忘れられないことがある。
『次もまた、「はじめまして」になるね――またね』
鼻先がくっつき合いそうなほど間近で『魔女』は寂しそうに笑って、顔を近づけてきた。額に触れた柔らかな感触も、ありありと蘇る。記憶の片鱗をたどるだけで悲鳴が出た。
あれはなに、あれはなに、あれはなに!
叫び出したいけれど、声にならない。ここが敵国の王城だからという理由ですらなく、どうしようもなく言葉が出てこなかった。
(あの方――エポドスって、何者? わたしがマリア・マジュリーってことを知ってる? 『また』ってどういうことよ。『私の記憶を抜き去りなさい』って、いってたわよね――)
知らないうちに記憶が操作されているなど、恐怖でしかない。叫ぶように自問したけれど、思い出せなかった。
(わたし、前にあの人に会ったことがある? ううん、今日がはじめてのつもりだった――けど、そうじゃないかもしれない。だって)
『次もまた、「はじめまして」になるね――またね』
そう言って目を細めて笑った『魔女』の顔が、目の裏から離れなくなった。
(『また』っていうことは前にも会ったっていうことでしょう? 前っていつ、前って――)
じわじわとワゴンを押しながら、反芻した。
すると、なにかが見えた気がする。真っ赤に焼けた夕焼け空に似た、赤色の景色だった。
(あれは――フォル・トナの王城が焼けた日だったかな……)
奇襲隊が押し寄せて、王城の石壁が壊されたのを見たのはよく晴れた日の夕方で、空が、血に染まったかのように真っ赤になっていた。
父はその日、勤め先の研究所に出かけていて、帰ってこなかった。伝え聞いた話では、王城にいた貴族は一人残らず殺されて、研究者は敵国へ連れ去られたとか。
(ううん、あの日の景色じゃない)
思い出した景色の中にいたマリアは、フォル・トナが陥落した時よりもずっと幼かった。
真っ赤に見えたものも空ではなくて、もっと小さなものだ。どこかの研究所のような建物の中にいて、そばに、立派な身なりをした少年がいた。その子は泣いていて、マリアの背中を何度もさすりながら、言った。
『おまえが平和に暮らせるように、私は勉学を怠けず、この国を守る努力をおこたらないから。おまえに誓う』
真っ赤に見えたものを、少年は自分の身体で隠していた。少年の背はマリアより低かったけれど、小さな肩を懸命に広げて、「この奥を覗いてはいけない」とマリアを庇うようだった。
『あまりに哀れだ。どうかこの子に、忘れる魔法を。――この子のもとで、母上を生き続けさせて』
その先は、思い出せなかった。
どうにかして記憶を探ろうと足を止めるけれど、思い出すのは少年の泣き顔と、少年の白い頬に落ちていた涙の温かさばかりだ。その場に満ちていたいやな臭いのする蒸気よりも、それはとても熱かった。
(あの子は誰? 『魔女』じゃ、ないか。男の子だもの。エポドス様は女で――そうだ、歌おう)
はっと思いついて、背筋を伸ばす。あの少年が誰なのか。歌えば、思い出せそうな気がした。『魔女』の微笑みも、ふいに思い出した。
『あなたの歌声には秘密があるの』
廊下の端までいって銀のワゴンを隅に寄せると、窓に向かった。唇をひらき、窓の向こうの夜の庭に向かって、息を吸った。
女神の御胸に抱かれし風の子は
男神の息吹にて星の子と成る
風に舞う子は光の子
火の神、水の神、砂の神も
出で来ていざ、はじまる祝福の宴
揃い来ていざ、盛況なる祝福の宴
歌うと、胸がすっとする。
歌声で撫でるたびに、空気も澄んでいく――そんな気もする。蝋燭の灯かりが照らす夜の廊下すら、日の光が差したように色が塗り替わって見えた。
そのうち、気づいた。明るくなったと思ったところには、うっすらとした光の塊があった。宙に浮いていて、時おりポッポッと瞬いているが、チカッと輝いた瞬間に小さな笑顔が見えた。
目をまるくした。見間違いかもしれないと目もしばたかせる。けれど、幻かと思ったものが消えるどころか、『魔女』の声が蘇る。
『おまえが歌うと、歌声からカシム・カージが生まれるのよ。カシム・カージが人を呼んでしまうわ。厄介な人をね』
もしかして、いま瞬いて見えるものが、カシム・カージなのだろうか。
月の男神ヤーと風の女神カシムの子、カシム・カージ(風の子)。幻や人を越えた力を駆使する魔術師が、ふしぎな力を使うための仲立ちにするという聖霊――なのかも。
これが、そうなのかもしれない。
ここに、答えがあるのかもしれない。
答えまでいかなくても、なにか、難しくこんがらがったものを解く鍵が。
マリアは、夢中で歌い続けた。歌声が見えない手を伸ばして、すこしずつ記憶を手繰り寄せている気がした。
でも、途中でやめることになる。真後ろに男がいて、口を手でふさがれていた。
「お嬢さん、何者だい?」
驚いて、手のひらから離れようと身をよじるけれど、今度は肩を掴まれる。ついさっき似たような真似を『魔女』からされたばかりだが、男の手つきは、エポドスがしたのとはかけ離れて乱暴だった。
男は、目が合うとはっと息を飲んだ。
「おまえは、あの錬金術師の――」
内心、ぎくりとなる。錬金術師は父の肩書きだ。
まずい、ばれた? 逃げなきゃ――とは思ったが、足は動かない。逃げるあてもない。
肩を掴む男の手が、いっそう強くなる。男は、マリアの顔に影を落とすほど顔を近づけて、小声で脅した。
「カシム・カージを集めるなど、ただの娘ではないな。なぜここにいる、誰から頼まれた、いえ!」
(頼まれた?)
男に答えられる言葉は、浮かばなかった。
マリアは誰かから頼まれてここにいるわけではなかったし、そんなふうに脅されたら、答えられるものも答えられない。怖くて震えあがっていると、男は舌打ちをする。それから、内緒話をするように耳元に口を寄せた。
「父親に会いたいか」
今度こそ、息が止まった。
「父さんに会わせてくれるの?」と、手掛かりが見つかったことを喜んだし、同時に、「どうしてそれを知ってるの?」と青ざめた。はっと気づいた後は、さらに怯えた。「そうか、やはり」と、男が笑ったからだ。
「やはり、おまえの名は、マリア・マジュリー。あの男の娘なんだな」
男は、革を多く使った服を着ていた。腰には立派な剣が下がっているが、いわゆる騎士とは身なりが違う。でも、マリアはそういう格好をする人がどういう生業をもっているのかをもう知っていた。「呪剣士」といって、魔術と剣術を併せて用いる特別な技を持つ人だ。そして、ここひと月の間に、書庫の前で殺された二人ともが、呪剣士という肩書を持っていた。
はっと気づくと、マリアは激しく上下する生き物の上にいた。
砂漠を走る駱駝の背に縛り付けられていて、駱駝が砂の上を疾走するので、脚の動きに合わせて駱駝の毛も、骨も、がんがんとぶつかって顎が痛い。揺れのせいで腹も気持ち悪いし、息はしにくいし、叩かれたり鞭打たれたりはしていないものの、拷問を受けている気分だった。
どうにか楽な姿勢をとろうと身を起こしていると、隣を並走する駱駝を見つける。それにまたがる乗り手を見るやいなや、また息が止まりかけた。乗り手の男は、年が三十半ばで、革を多く使った服を着ている。さっき、廊下で会った呪剣士だ。
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