落城と呪い

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 マリア?

 あの娘は誰だ――。



 日が暮れた後だった。


 執務室に籠ったエポドスは、机の上に置いた器の前にいた。器には、水が張ってある。そこに、砂漠の黄砂を真上からさらさらと降りかける。砂のほとんどは器の底に沈み、わずかに水を曇らせた。その曇りをつくっているのは、砂の精だ。


 器の水に指を差し入れて、かるくかき混ぜる。エポドスの指に触れた砂の精は「僕らはなにも知らないよ」と、無邪気なキスをした。


(あの娘は違うのか。そうだよな。妙な娘だったが、人を殺める稽古をした刺客の気配はなかった)



 なぜ、見つからないのだ。

 その男を探すために、もう半年以上もこの王城に忍び込んでいるのに。



 エポドスは、仮の名だ。地方に住む貴族の女の名で、魔術の心得があり、成り済ますのにちょうどよかったから、名と地位を借りているにすぎない。


 滴がしたたるままの指を引き抜いて、額を抱えた。


 「あの男――」と思えば、いつでもエポドスは思い出すことができた。鎖骨か、首に大きな痣のある男――そのはずだ。自分がつけた痣が、まだ残っているならば。


 フォル・トナ王国の王城が陥落したのは、夕時だった。火がつけられて黒煙をあげる王城の窓から、真っ赤な夕焼けが見えたのを、よく覚えていた。


 奇襲を受けて、外壁の守りに人が減った隙だった。王の居館にも奇襲隊が押し寄せて、親衛隊は全滅、父は殺され、最後まで生き残ったエポドスも、皇太子の証の石飾りを狙われて追われた。


 剣の腕なら、幼少から磨いている。刺客の男もなかなかの手練れだったが、勝てない相手ではないと、王の間から戦いやすいテラスへと誘い込んで、撃ち合った。まずは逃げて、民衆の脱出を助ける。この命があれば、交渉の材料にもなる。まずは生き延びなければ――。


 思った通り、勝てない戦いではなかった。少なくとも、刺客の男の剣技の腕前は、指南役の騎士団長より下だ。


 あと一手、次の一振りで――と男を追い込んでいると、急に身体が動かなくなった。まるで、身体が石にされたようだった。


 刺客の男の笑顔が、まだ瞼の裏に焼き付いている。そいつは薄気味悪く笑った。


「呪剣士が相手なのは、初めてですか」


 わずかに気が遠くなった。これはまずいと、はっと目をひらくと、首に振動が走る。首から下げていた鎖が力任せに引きちぎられて、奪われていた。


「いただきますよ。皇太子の証を。仕事なのでね」


 それはだめだ。王の証よりも大切に守られてきたこの国の誇りだ――。叫んで、掴みかかろうとしたが、力が入らない。腕が半分になったように手ごたえがなく、動かそうとしても速さも遅く、頼りなかった。


 刺客の男が、にやにや笑っていた。


「お美しいですね、王子。はだけた胸元が、なんとも艶めかしい」


 男の目線の先は、自分の胸元だ。証の飾りを奪われる時に服が裂かれていたが、隙間から覗いていた肌は、見慣れないほど白く、柔らかかった。


「女になる呪いをかけました。その非力な腕では剣も握れまい。もう戦えないでしょう」


 「諦めなさい」と、刺客の男は笑った。


「どうせ、周りは敵兵だらけだ。お逃げになればいい。逃げたところで、このお姿では、あなたは皇太子と見なされないでしょう。勝利に酔った兵にとっては、美しい略奪品だ。辱めを受けて人知れず亡くなるといいのです。死体でも犯す連中ですから」


 状況が、すべて受け入れられたわけではなかった。でも、その男の下劣な目に憤って「無様ですね、情けない」と嗤われた瞬間に、その男の首に手を伸ばしていた。


 片手で首を絞めるには、女の手のひらは小さすぎた。でも、手は首から離れず、男はうめき声をあげ続けた。


「放せ、は……聖霊?」


 男の首を絞めた指の周りには、白い光がぽっぽっと浮いていた。それが聖霊というものだと知ったのは、後のことだ。


「放せ。くそ……」


 男同士の力勝負だけでない、べつの力で勝負がついた。


 その男が手を跳ねのけ、これはまずいと背中を向けたのをいいことに、エポドスも一度逃げることにした。その男を追いかけたところで、いまは不利だ。


 どうやって逃げたのかは、覚えてない。でも、空を飛んだことだけは覚えている。


 脚のはるか下に、真っ赤に焼けた王城が見えていた。


 塔に火がつき、穀物蔵は荒らされ、城下町の民家も燃え、逃げ惑う女と、追いかける敵兵の群れが見えた。


 下方の景色が見えなくなったのは、涙で濁っていったせいか、目を逸らしたからか。空を駆ける足先をじっと目で追った。虚空と風を踏んで走る足には光が帯びていて、その光の正体が、手のひらくらいの大きさの小さな生き物の集まりだとわかった。そいつらは、泣きながら走るエポドスを見上げて無邪気に笑っていた。


 遠ざかりゆく王城を最後に振り返った時、目は、王の居館の屋根に縫い付けられた。そこには、王居の証として掲げられる「堅守の盾」がある。それが割れて、半分は傾いていた。


 「まさか」と目が驚いて、息が止まって、振り返り続けた。


 堅守の盾が、壊れた。あの盾が――忌まわしき力で王を守るはずの盾が。


 フォル・トナ王の祖先は、森の奥にある雄大な滝に棲む竜神とされている。その神に贄を捧げて、子孫の繁栄と守護を願ったはずだった。その盾が、壊れていた。





(また、思い出してしまった)


 滅びゆく王都も、死んでいく人も、父の死に顔も、忘れられるはずはなかった。しかし、思い返すと、ほかのことがなにもできなくなる。「おまえは一人で逃げた」と自分を苛む声に縛られて、水の入ったカップに手を伸ばす気力さえ潰えていく。生きていることが苦しくなる。


 だから、エポドスは、文字にしたためるようにしていた。


 目の裏に鮮やかによみがえる惨状。

 いかに自分が弱く、愚かで、頼りなかったか。

 死ぬべきなのに、なぜまだ生きているのか。一人で逃げたくせに。


 息を止めるようにして紙に書き出すと、字の上に手のひらをかざして、聖霊を呼んだ。


「カシム・カージ。出ておいで。私の頭に、この文字を食べさせてくれ」


 手のひらでなぞったところから、紙に書かれた文字のインクに、光が群がった。それらは字にしがみついて紙から引き離し、つむじ風に乗るようにしてエポドスのこめかみのあたりまで昇りくる。そして、頭の奥へ押し込んだ。文字を、心から見えない場所に――記憶の奥に食べさせた。


 カシム・カージは、聖霊と呼ばれるもので、魔術をおこなう時の仲立ちだ。


 剣術と魔術を併せてもちいる呪剣士だという刺客の奇妙な技で、女の姿に変えられてしまってからというもの、エポドスは、それまで使えなかった魔術を容易に使いこなすことができるようになった。


 魔術の手習いは幼少の頃からしていたが、向いていなかった。それなのに、まさか、女の身になった途端にこうまで発揮できるようになるとは。


 男の時とくらべると腕力は落ちているが、剣技そのものは頭も身体も覚えている。力任せの剣技はできなくとも、身を護る分には十分だった。


 女の身であればいろいろと便利なことも多い。だから、男に戻るつもりはなかった。もともと、皇太子だった男の自分は、国が滅びたあの日に死んだのだ。


「しかし――」と、エポドスはため息をついた。すこしずつだが、わかったことがあった。


 もう一度、紙にペンを走らせる。頭の内の悩みを形に変えるように、書きなぐった。



『三人殺してわかったことがある。

 私は完全な女ではなく、男と女が混在している状態で、人を殺そうとする一瞬には男に戻るらしい。

 四人目を殺そうとした時にも女になった。

 四人目の名は、マリア』



 そこで、手が止まる。マリアという名の娘の顔が、ふっと浮かんだ。


(マリア――あの娘、どこかで? ――いい。とにかく)


 ふっきるようにして、紙面に手のひらをかざす。そして、字を頭に食べさせた。敵国に忍び込んでいる身で、身の上を疑われるようなものを残すわけにはいかなかった。


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