『魔女』の秘密
『魔女』は、笑った。
「入ってきていいのよ」
はっと気づいた。目が合ってから、動くのを忘れていた。扉の内側に運ぼうとしたお茶用のワゴンも、まだ端っこが廊下に出たままだ。
「失礼します。すぐにご用意します」
慌てて支度を急ぐが、緊張して、なかなか進まない。茶器の取っ手をつまもうとした手は何度も空振りをするし、そうかと思えば手が滑って、陶製の蓋をカチャンと落としてしまうし。
目立ってはだめだ。怖がっているとばれたら、余計にまずい。そう思えば思うほど心音がうるさいほど響いて、手元がおぼつかなくなる。
時々、様子をうかがうように『魔女』の姿を盗み見すると、その人は出窓のそばに造られた石の長椅子に腰掛けて、脚を組んでいた。品よく座っているが、その人の目が見ているのはマリア――自分だ。それに気づくと、恐ろしいほど気が焦る。お湯を注いだ手が震えて、熱湯の滴が手にかかった。
「熱っ」
どうにか茶葉を蒸らす手順に入ると、先に茶菓子を運んだ。
「エ、エポドス様……お、おお菓――」
この地方では、お茶と一緒に砂糖菓子をつまむ風習があるのだとか。薔薇の形をかたどった小さな菓子をどこに置けばよいかと尋ねるだけでも、声が震える。一苦労だ。
出窓のそばに据えられた長椅子に腰掛けるエポドスはくすくす笑って、執務机を指さした。
「あちらに頼むわ――いいえ、いまいただきましょう。ここへ運んで」
『魔女』は、手のひらを差し出している。厚みのある絨毯を一歩一歩踏んで、その手もとへと菓子皿を届けるあいだ、マリアの目は、エポドスの目から逸れなかった。エポドスの目が、マリアから一瞬たりとも逸れなかったからだ。見張るようだった。
「長椅子の上に置きます。受け布を――」
皿の下に敷く飾り布を、石製の長椅子に広げたところだ。その手は、掴まれた。
「おまえ――」
手首をつかんだ相手は、『魔女』。
驚いた拍子に、砂糖菓子を乗せた皿が床に落ちる。でも、『魔女』は目もくれない。その人は、じっとマリアを見上げていた。
まずい――ばれたんだ。きっと、フォル・トナの者だって見通されたんだ。捕まるんだ――。
血の気が引いていきながら、懸命に『魔女』の目を見つめ返した。けれど、問われた言葉は、まったく身に覚えのないことだった。
「おまえ、実は男でしょう?」
「はい?」
目が点になる。
明るみになってしまってはいけない秘密はいくつか抱えているが、『魔女』に問われたことは、そのどれともかけ離れていた。
「わたしが、男ですか? あの、ご冗談――ですよね。わたしがその、男に、見えましたでしょうか」
一応、王城務めの女中だ。身なりには気を使っていたつもりである。茶寮専属の女中に与えられる制服も、胸元にレース飾りがあしらわれていたり、腰の細さがないと格好がつかないデザインだったりで、華やかな服に負けないようにと、髪のまとめ方にも気を使っていたつもりだった。
『魔女』は、マリアの手首から手を放そうとしなかった。
「そうねえ」と顎をあげて、しげしげとマリアの顔や、肩や、胸元や、胴回りをひととおり見検めて、言った。
「もしもおまえが女装しているだけなら、よほどの変態だと思うわ。相当女に詳しくて、女装にも慣れた変態ね。しかも、
叫びそうになるのを、ぐっとこらえた。男だろうと言われたのもショックだったが、変態やら、少女趣味やら、投げられた言葉がどれも酷すぎる。
「あの……ご冗談ですよね」
悪い冗談だと言い聞かせるのが、精一杯だ。さすがに、胸には文句も湧く。
(それは、この方はお綺麗よ。背が高くて、手足も長くて、立っているだけで気品が漂っていて、顔もお美しいし――そうだ、わかった。きっとこの方は、鏡を見過ぎたんだ。ご自分の顔を見慣れ過ぎて、そこらの女の子の顔が女に見えなくなっているんだ――きっとそうよ。落ち着いて)
すう、はあと息を吐く。
なにしろ、怒鳴り返していい相手ではないし、そもそも、目立ったり問題を起こしたりはしたくない。すくなくとも、あと三日は。
「そ、それにしても、今日はいいお天気ですね、おほほ……」
どうにか話を逸らそうと笑顔を浮かべるが、そのあいだも、エポドスはじっとマリアの顔を見上げている。まだ男だと疑っているのか、麗しい切れ長の目は細められて、マリアの目元や唇のあたりを、じっと見つめた。
そのうち、マリアのほうも、エポドスの顔から目が離せなくなる。涼しげな目元や、白い頬や、細い顎に、見覚えがあるような気がしてきた。
「あの――どこかでお会いしましたっけ」
エポドスはくすっと笑った。
「いいえ」
「でも――」
どこかでこの女性の顔を見た気がして、記憶を探った。いつのまにか、唇も動いていた。
「女神の御胸に抱かれし風の子は、男神の息吹にて星の子と成る、風に舞う子は光の子、火の神、水の神、砂の神も、出で来ていざ、はじまる祝福の宴――」
風の女神を称える歌で、このあたりでは広く歌い継がれるいにしえの歌だ。
優美な旋律を小声で歌いきるのを、エポドスはじっと見上げていた。
「――いきなり、なにかしら」
「歌いたくなったんです」
なぜか、この歌を歌いなさいと、心に言われた気がした。この歌を歌えば思い出すから、と。
でも、ぎくりとなる。マリアを見上げるエポドスの目つきが、変わっていた。さっきまでは柔和に微笑んでいたのに、いまは睨みつけている。唇には笑みがあったが、化け物が獲物を前にしてにたりと笑うようで、マリアは思わず身を引いた。けれど、逃げられない。手首はまだエポドスに掴まれていて、後ずさりをしようとすると、かえって強く握られた。
「やっぱり――カシム・カージが生まれている。いくつもいくつも」
エポドスは怖い笑顔を浮かべて、あざ笑うように言った。
「おまえ、本当に男ではないの? もしくは、魔術の心得は?」
「――ありません」
「本当に? 嘘をつくなら、おまえの頭の奥に直接聞いてしまうわよ」
エポドスの目はむき出しの刃物のようだった。逃げようとするマリアを「逃がすか」と、腕よりも強く視線で捕えてくる。まるで、牙を剥いた獰猛な獣だ。
目を合わせているのが怖くて、わずかにうつむいた。その瞬間、驚いた。エポドスの身体が、さっきよりも少し大きくなっていた。細身の体を滑らかに包んでいた黒い服の布地が、いまは窮屈そうに張っている。脚は、服の上からでもわかるほど頑丈になっているし、腰も太くなっている。胸は、さっきまでは豊かな丸みがあったはずなのに、いまは平らに――その分、筋肉が張っていた。まるで、男のような身体に変わっていた。
恐ろしいものを見張るように、視線を上へと上げていく。胸と同じく、肩も広くなっていた。首も、さっきまでは折れそうなほど細かったのに、太くなっている。顎は、細いままだ。肌の白さも前と同じ。でも、顔は――女性というよりは、若い青年の顔に変わっていた。
笑顔は、さっきと同じだ。いまにも噛みつきそうに牙を向いた俊敏な獣を彷彿とさせる。エポドスは、くすっと笑った。
「また、見たのね」
ぞっと、背筋が寒くなった。涼しげな笑顔に、「ならば、いますぐ死になさい」と死刑の宣りを受けた気になった。
ゆっくりと、エポドスの白い右手が掲げられる。
「カシム・カージ」
部屋の気配が変わった。急に部屋の中の空気が重い粒に変わったように、重苦しくなった。そうかと思えば、マリアの周りに、小さな生き物が群がった。顔くらいの大きさしかないが、手足がついている――聖典の挿絵や、礼拝所に銅像として飾られる「聖霊」と呼ばれるものと、よく似ていた。
「風の子たち。この娘から、私のことを忘れさせなさい。なにもかも、この娘は知らない」
「聖霊」は、エポドスのいうことをよく聞いた。マリアがいやだと首を振っても、肌という肌に飛びついてきて、自由を奪っていく。鼻が塞がれて息苦しくなり、耳が塞がれて音が遠くなり、目も塞がれて真っ暗になる。そうこうするうちに、頭の奥がキーンとつめたくなって、気が遠くなった。
間違いない。魔法かなにかが働いているのだ。
怖い、いやだ――! あがいても、どうにもならなかった。
薄れゆく意識のなかで、『魔女』の微笑を見た気がした。
「また次も、『はじめまして』ね。――いい夢を」
ぱちん。と、乾いた音がして、はっと我に返った。
目の前にエポドスという名の美しい女がいて、白い指を掲げている。指を鳴らしたのだ。
「大丈夫? 気分が悪いのではなくて? ぼんやりしていたわ」
「えっ、あぁ――もうしわけございません」
あぁ、『魔女』の部屋にお茶を運んだんだった――。
窓越しの陽光が差し込む広い執務室をぼんやり眺めて、マリアははっと青ざめた。足元に、薔薇の砂糖菓子が転がっていた。
「わたし、お菓子を落として――もうしわけございません!」
「いいのよ、気にしないで」
『魔女』は美しい頬を陽光に晒して、柔和に笑っていた。
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