壊れた懐中時計

 小さい頃から、マリアは歌が好きだった。


 歌っていると気分がよくなるし、周りに吹く風も澄んでいく気がした。「ねえ、マリア、歌って」と、周りにいる人も笑顔になった。


 もしかしたら、自慢できるくらいにはうまいのかもしれないと気づいたのは、つい最近のことだ。


 故郷を出てから世話になった吟遊旅団の団長が、目をまるくした。


「見事じゃないか。わが一座の歌姫の誕生だな」


 でも、むりに引き入れようとはしなかった。マリアが国を出た理由は、すでに話していたからだ。


 歌声を披露した野宿の晩に、団長は、そばで火にあたる妻の肩を抱きながら笑った。


「俺たちも老けてきたからなぁ。かつての女神ディーヴァもすっかりオバサンになっちまったし、新しい歌姫が喉から手が出るほど欲しいところだが――親父さんを探しているんだもんな」


 「歌か――歌……」と、団長は考え事をするように呟いて、煙草に火をつける。白い煙をくゆらせながら、ぱちぱちと爆ぜる火の灯かりに、暗い真顔を晒した。


「なあ、確認したいんだが。おまえさんの親父は、フォル・トナの学者だったよな。戦争のごたごたで捕まったなら、いるとしたら、牢屋じゃないか」


「牢屋? お城の中?」


「いいや。砂漠だ」


「砂漠――」


「城塞都市の向こう側の砂漠の下にでっかい洞窟があって、戦犯や敵国の捕虜はそこに入れられたって聞いた。そこにいる奴を探すなら、年に一度の禊の晩がいい機会だ。貴月の祭りの晩に、すべての人が月の男神ヤーと風の女神カシムの祝福を受けることが定められているから」


「月の男神ヤーと、風の女神、カシム……」


「『カシム・カージ(風の子)』。つまり、風の女神カシムは、すべての聖霊カシム・カージの母親だ。聖霊は風から生まれ、風に乗って月夜に移動する」


 ふうっ。唇を丸めて、団長の男は煙を吐き出した。声が、内緒話を持ちかけるようにだんだん低くなり、目は、人の気配のない森の闇を探るように鋭くなった。


 マリアを見つめる目も暗くなり、冷たくなる。


「実は、貴族連中から、城内で余興をするのに、歌がうまい女を一人置いていかないかと頼まれていた。おまえを紹介しようか。――ただ、敵国の女を城内に送り込んだのがばれたら、俺たちも命はない。おまえを城に送り届けたら俺たちは逃げるし、もしもおまえになにかが起きても、おまえを助けない。それでよければ」


 「あんた……」と、団長の妻が夫を責めた。


 マリアも、だんだん意味を解した。団長の男の顔が暗く翳ったわけも、ひどく真面目な話をするふうに声を低くした理由も。


 団長の男は、こう持ち掛けたのだ。



 ――見殺しにしてもよければ、協力してやろうか。



 マリアは、はにかんでうなずいた。


「歌うのは好きだから。父さんも、わたしの歌が好きっていってくれてたから」



 ――大丈夫。なにか起きても、歌っていればつらいことを忘れられると思います。



 うまく言葉にはできなかったけれど、マリアの胸の内に団長は気づいたようで、いっそう深刻そうな真顔をして、煙草を唇に運んだ。


「その懐中時計は、父さんのかい」


 マリアの胸元には、金属蓋に覆われた円形の時計が重そうにぶら下がっている。チッ、チッ、チッ……と時を刻むのだが、その懐中時計の針が正しい時刻を指すことは一度もなかった。


「大事なものなんだろう。でも、壊れているんだろう? その――いくら大事なものでも、壊れたなら捨てる勇気も、必要だと思うんだ。――うまい言い方じゃないな。壊れたものにつられて一緒に壊れようとするなというかな――」


 団長は、懸命に言葉を選んでいた。


「無理をしちゃいかんよ。無理をして忍び込まずとも少しずつ味方を増やして、それからでも……」

 

 マリアは、はにかんだ。胸元の懐中時計の円みを指先でなぞりながら、笑った。


「父さんじゃなくて、母さんの形見なんです。大丈夫です。母さんも、わたしが歌うと喜んでくれたから。母さんはわたしが小さい頃に死んだけど、それだけは覚えているんです」


「そうか……」


 団長は、諦めたふうにふうっと煙草の煙を吐いた。

 




 とある日の城内。その時のことを思い出して、マリアは首を傾げていた。


(そうよ。たしか、「城内で余興をするのに歌がうまい女を一人置いていかないかって頼まれた」って団長はいってたのよね)


 てっきり、城内で暮らす許しを得たのは、歌の仕事があるからだと思っていた。でも、吟遊旅団と別れて女中として暮らしはじめてからひと月が経とうとしているのに、余興の稽古どころか、人前で歌わされたことも、いまだない。


 一度、勇気を出して古株の女中に尋ねてみると、噛みつくような返事がかえってきた。


「は? 余興? 知らないわよ。貴族の皆々様の気まぐれがいつ起きるかなんか知るわけがないわ」


 どうやらマリアが呼ばれたのは、「どうしても歌姫を」というよりも、「面白そうだから一人置いていきなさい。役に立つかどうかはわからないけれど」という、なんとも残念な思惑のせいのようだった。「歌がうまい女を」と頼んだことも、覚えられているかどうか。


(それならそれでいいか。目立たなければいいんだし)


 身分の高い人が、気まぐれにした頼み事をすっかり忘れるなど、よくあることかもしれない。命令に踊らされて言いなりになるほうは人生を懸けようが、偉い人にとっては、頼み事そのものが余興なのだ。


(くよくよしないの。人間、だれしも忘れるものよ。わたしだってこの前、塔の上でぼんやりしていたじゃない)


 数日前のことだ。はっと気がついたら、塔の上にいた。どうやって登ってきたのか、なぜそこにいるのかはさっぱり思い出せないのに。


 とにかく、あと数日の我慢だ。


 団長が教えてくれた貴月の祭りの日は、三日後に迫っている。


(ここを抜け出して牢屋の近くまでいければ、父さんがいるかどうかを確かめられる。もしもいたなら、ここに戻って助けられる時を待てばいいし、いなかったらここを去ればいい。――団長のところに追いつけるかなぁ)


 このまま何事もなく、目立たないように。あと三日だけでいいから。


 仕えることになった茶寮で、政務院に勤める貴族議員相手の雑事にいそしんでいると、女中たちでごった返す茶寮の控えの間に、貴族風の男が一人入ってきた。


「マリアという女はいるか、マリアは――」


 ざわり、と、お喋り声がやんで、視線がマリアに集まる。


 貴族風の男は、女中たちの視線の先にいたマリアを見て、探していた相手だと悟ったらしい。それ以上中に入ることもなく、手招きをした。


「おまえがマリアか。紅茶を運んでくれ。エポドス様の部屋まで」


 ざわり、と、今度は息を飲む音も混ざった。



 エポドス様って――。

 『魔女』じゃない。どうして王城一の魔術師があんな子を。

 決まってるわ。あの子が犯人なのよ。書庫前で起きた連続殺人の――。



 マリアのこめかみにも、たらりと汗が落ちた。


 エポドスという名は、マリアもよく知っていた。城内でも有名な『魔女』の名だ。


 どこかの地方貴族の子女らしいが、魔術の腕を買われて王城務めをしているとか。魔術師として仕えるようになったのはここ一年ほどのことだが、城塞都市を守る辺境王の覚えもめでたく、厄介ごとが起きるたびにその『魔女』が手を貸して、ことごとく解決してきたらしい。


 いまも、この城を震え上がらせている殺人事件の犯人捜しの任も、その人が得ている。


(どうして、わたし――)


 目立ったつもりはなかったし、『魔女』と会ったこともない。わざわざ名指しでお茶汲みを命じられるはずなどないのだ。


 でも、「いきたくありません」といえるはずもない。震えそうになる指をおさえながら、貴族風の男へ向かって、了承の挨拶をした。





 ワゴンを押す手が震えて、茶器が音を立てるのを懸命に鎮めながら、その人の執務室へ向かって絨毯を踏む。軍隊を組織して国境を守る騎士団長と対をなす魔術師の長の位に就く人の部屋なので、扉が面した廊下すら、他の階よりも豪奢だ。窓枠には細かな浮彫レリーフと螺鈿飾りがほどこされていて、足元の絨毯の毛もぎゅっと詰まっている。靴越しに絨毯を踏むだけで、この場所の上質さを思い知った。


「失礼します。お茶を届けにまいりました」


 扉をノックして、ドアを開ける。


 失礼のないように、目立たないように。そう念じていると、顎が下がってしまうものだ。できるだけ目を合わせないようにうつむきながら、扉の隙間からワゴンを部屋へと押し入れると、柔らかな女性の声に呼ばれた。


「ああ、マリアね。ありがとう」


 その人は、窓際に立っていた。


 女性のわりに背が高くて、すらりとした細身をしている。戸口に現れたマリアを振り返った目は切れ長で、美しい鳥や竜や、ふしぎな力をもつ生き物のような気配を帯びていた。


 窓ガラス越しに差し込む日光に彩られて、白い肌が輝いている。顎が細くて、均整の取れた身体つきと同じく、顔も、芸術品の人形のように美しかった。

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