カシム・カージと制約の魔術師

円堂 豆子

『魔女』の検死




 きっと、人が死んだせいだ。


 王城の廊下は、いつもよりも人がまばらで、災厄除けの呪香の匂いが漂っていた。


 マリアも急ぎ足で宿舎へ戻っていたけれど、ふいに足がびくついて、歩みが遅くなる。行く手に暗がりをつくる、地下へと続く石階段が目に入ったからだ。


 壁に据えられた燭台に、いつもなら火が灯っているのに、今夜は真っ暗――そのうえ、段の前には鎧姿の騎士が立っている。


 階段を下りた先にあるのは、地下書庫だった。むやみに入ってはいけない場所ではあったが、騎士が出入り口をふさいで、灯かりすら消えていたのは、その下で人が死んだからだ。しかも、二人も。次々と。


 死体は、首をひと斬りされていた。石階段に敷かれた深紅の絨毯に赤黒い水たまりをつくるほど、血を流していたとか。


「『魔女』が検死をしたんだって」


 と、女中仲間は噂をした。


 死体を検めた『魔女』は、こういったらしい。


『死んだのは、どちらも呪剣士――魔術と剣術を併せて用いる騎士よ。でも、魔術が使われた痕跡はないわ。相手は、剣士よ。しかも、この切り口はナイフでしょう。林檎の皮を剥くのにちょうどいいくらいの小さなナイフか、せいぜい短剣でしょうね。――これじゃ、犯人がどこに忍んでいるかもわからないわね』


 犯人が誰で、なぜ、どうやって殺されたのか。


 まだ、一切が謎だった。






 早足で歩くうちに、書庫や、貴族が集まって執務をおこなう議場のある政務院の裏口に行き着いた。


 扉を押し開けると、ジャスミンの香りに包まれた夜の庭に出る。外に出てしまえば、少しくらい駆けても咎められない。壁伝いに続く石の道を小走りに駆け抜けて、隣の塔へ。贅を凝らした彫刻に飾られた政務院とくらべると、その塔は余計な飾りもなく、のっぺりとして見えた。そこは、女中や下男や、住み込みで働く人の宿舎になっているのだった。


 塔の内部へと続く門をくぐった先から、笑い声が漏れている。仕事を終えた仲間がお喋りを楽しんでいたけれど、マリアが入っていくと、話し声はさっと止んだ。


(あの子よ、この城にきたばかりの女中)

(昔の記憶がないんだって)

(二人が殺された武器はナイフかもしれないって話じゃないか。ナイフなら、女にも扱える)

(だってあの子、ろくに話をしようともしないのよ。それに、壊れた懐中時計を手放そうとしないの。まともじゃないのよ――)


 女たちは、わざわざ横顔を向けて耳打ちをしあった。


 こちらも気づかないふりをしながら、マリアはできるだけ早足で前庭を通り過ぎた。


 ――違うよ。記憶がないのは一部だけだもの。

 ――思い出せないのは、母さんのことだけだもの。


 言い返したくても、この城にきたばかりなのは噂の通りだし、人付き合いもそこそこに、人の目から隠れているのも事実だった。大事な秘密を抱えて忍び込んでいるので、うっかり口が滑ってはいけないから。それに、「違います、わたしは人を殺した犯人じゃありません」と訂正しにいけるだけの度胸もない。目立ってしまうのも、絶対に避けたかった。


(父さん――)


 しょんぼりと肩を落として、塔の螺旋階段を登る。賑やかな前庭など、早く遠ざかってしまいたかった。


 新参者の寝床は塔の上にあって、たくさん石段を登らなければいけなかった。


 はじめは逃げるように石段を登っていたけれど、だんだん足取りが強くなっていく。


(どうしてわたしがこんなことを、どうして)


 父と二人、幸せに暮らしていたはずなのに。身の上を偽って、敵国の王城に忍び込んでいるなんて――。


 去年の戦争で、この国の支配下に置かれてしまったフォル・トナ王国の者だと気づかれれば、捕まって酷い目に遭うはずだ。それなのに、どうしてこんなことに――と、自分の身が悲しくなった。


(毎日毎日、いつばれてしまうのかってビクビクして。大それたことができるような心臓もないくせに――ううん、やるしかないのよ)


 無理やり手のひらに力をこめて、握り拳をつくる。キッと前を見据えて、背筋を伸ばした。


(歩け、登れ、もっと登れ、登っちゃえ)


 

  フォル・トナ王は竜神の子

  守盾は聖鱗のごとく剛健で

  忠剣は牙のごとく噛む

  王の凱旋を称えよ

  我が水神を拝せよ



 歩きながらもごもごと唇を動かして無音で唱えたのは、故郷の街に響き渡っていた軍歌だった。


 軍隊を見送る時に街のみんなで歌った行進曲で、胸の中で唱えれば、足は勝手に勇ましく上がって、やすやすと段を登っていく。


 いつのまにか、自分の寝床の入り口を通り越していた。


 もうすこし登れば、眺めがいい場所に出られることを思い出したからだ。王城の周りに建つ礼拝所の尖塔のちょうど隙間に出られて、そこからなら、街を一望できる。


「わあ――」


 螺旋階段の手すりに手を置いて、マリアは城下町を見下ろした。


 そこは、隣国フォル・トナ王国との境にある砂漠のオアシス都市で、国境を守る城塞都市であり、商隊が立ち寄る商都でもある。街は背の高い防御壁で囲まれていて、旅人が集まる宿場街や酒場街、市場があり、夜が更けたというのに贅沢に火が焚かれ、昼よりなお明るく、賑わっていた。


 塔の上にびゅうっと吹きつける風は、冷たかった。砂漠の街では、日が暮れると、風も土も一気に冷えるのだ。


 でも、風越しに見える賑わいは、夜の冷えを感じさせない。篝火の炎にいろどられた百、二百ともつかない市場の天幕テントには色がさまざまあって、闇の底にかかる虹に見えたし、そこからもくもくと湧き上がる白い煙は、雲に見えた。旅人にふるまう肉を炙った白い煙で、脂の匂いまでが塔の上まで届きそうなほど、夜の街には活気があった。そこを行き来する雑踏や人の声も、耳のそばで聞こえた気がする。


(あっ)


 名案を思いついたと、襟の内側を探る。首からさげた鎖を伝って懐中時計を取り出すと、上蓋を開けた。時計が指す時刻は、二時過ぎ。夜のお勤めが終わっているので、時計の針が指す時間は間違っていたけれど、時間を確かめたいわけではなかった。


 チッ、チッ、チッ、チッと、心音のようにゆっくり刻まれる金属音。小さな懐中時計に耳を当てて目を閉じ、聞き入った後で、マリアはすうっと息を吸った。


 

  女神の御胸に抱かれし風の子は

  男神の息吹にて星の子と成る

  風に舞う子は光の子

  火の神、水の神、砂の神も

  出で来ていざ、はじまる祝福の宴

  揃い来ていざ、盛況なる祝福の宴



 喉を響かせて、歌声を好きなだけ夜風に乗せる。母国だけでなく、この街でもよく歌われる歌だと知っていたから、ひゅうっと吹きつけてくる夜風と機械仕掛けの時計音を伴奏にして、思い切り声を伸ばした。


 歌うのは好きだったし、うまいと褒められたこともあった。歌声のおかげで、マリアはこの城に忍び込むこともできたのだ。


 三度ほど続けて歌って満足すると、はあ――と息を吐く。胸も頭も、すっきりしていた。


(ここで歌うのは気持ちいい。またこよう)


 商都の街灯かりに「聞いてくれてありがとう」とお辞儀をするふりをして、背を向けようとした、その時。異変に気づいて、マリアは動けなくなった。


 風が止まって、頬に闇が張りつきはじめた。まるで、いつのまにか水中に潜ったかのように街の音が遠くなっていて、頬に、かすかな振動が届いた。なにかが地面を引きずられるような――なにかが勢いよく近づいてくるような。


(なに? どこ――)


 首を動かそうとした。でも、金縛りにあったかのように動きが鈍い。まるで身体中をねばねばしたもので絡めとられたような、まわりにある空気が、どろりとした蜜菓子ゼリーに変わってしまったような。


 身体の動きは思うようにならないのに、びりびりと細かな振動は、頭の先から頬、指、足先まで伝わってくる。雷を浴びている気分で、しかも、しだいに揺れは強くなる、近づいてくる――。


(上だ)


 息を飲んだ時には、真上に黒い塊がいた。小さな刃物を手にしていて、その刃が触れたところから、空が真っ二つに分かれていった。


 大きな頭巾フードをかぶっていたが、人だ。身体つきから男に見える。でも、身体の線が細くて若い。


 その人は虚空を切り裂きながら降ってきて、マリアの正面に降り立った。


 その人は静かに立っているが、うしろで、空が真っ二つになっていた。蜜菓子ゼリーを切り分けるように、その人が夜空ごと斬ってしまったからだ。はるか上空に、黄砂の色をした月だけが、ぽつんと浮かんでいた。



 いったいなにが起きたのか。

 幻だ。ううん、きっと夢だ。



 歯ががちがちと鳴っているのが不気味だった。夢なのに。


 その人の顔を隠していた大きな頭巾フードが動いて、布の影から目が覗く。思ったとおり、若い青年だったが、娘のように顎が細い。肌の色も白くて、天空にぽつんと残った月の光を浴びて、青白く輝いていた。それに、もう一つ輝くものもある。青年の手には、短剣があった。


 息を飲んで、後ずさりをした。でも、下がれない。マリアがいたのは螺旋階段で、段の幅はそう広くない。すぐうしろに石の壁があった。


 殺される――逃げられない――。悲鳴も出ないほど怯えたけれど、一番恐ろしかったのは、青年の目だった。うしろに下がろうとした瞬間に、短剣の刃よりも先に目がマリアを捕えた。頭巾フードの暗がりから覗く目は、「逃がすか」と脅していて、そうかと思えば、首に冷たいものが触れる。きっとそれは、短剣の刃だ。怖くてたしかめられないけれど、きっと、月光を浴びてぎらぎらと輝いているはず。



 やっぱり、この人なんだ。きっと、この人が書庫で人を――。



 怖くて、目をつむるしかできなかった。


「――侍女か?」


 月光のように柔らかな声が降ってくる。恐る恐る目をあけると、声の主――マリアに短剣を突き付けた青年は、訝しがっていた。


「名前は」


 短剣の刃はまだ首にある。怖くて、息をするのもやっとだ。声はかすれた。


「――マリア」


「何者だ?」


「――なんのことですか」


「――」


 頭巾フードの男は、しばらく黙った。短剣の刃をマリアの首筋にあてたまま、髪の先から目元、顎、首、女中の制服に包まれた肩や腰、足先までをひととおり検める。


 それから、ふうと息をついた。


「見間違い? そんなはずはないんだが。――幻術が解けはじめてる。時間切れだ――しかたない」


 頭巾の男が見上げた先で、夜空の切れ端が歪んでいた。氷が解けるように端が丸まって、ついには、ぽたりと、人の頭ほどの大きなしずくが滴りおちた。夜の色をした塊が溶けていた。


(幻術?)


 この世に数多いる聖霊を使役して、幻を見せたり、人を越えた力をふるったりする人がいると、聞いたことがあった。なら、この人は魔法使いなんだろうか。


「あの、あなたは魔……」


 歯が、ガチガチ鳴っている。最後までいえなかったが、頭巾フードの男は意を解したようで、「そうだよ」と笑った。


「でも、内緒だ。――これは夢だよ? おまえは、私を忘れる」


 「えっ」という驚きの声は、出ていく暇も与えられなかった。真正面にある青年の目がじっとマリアを見つめていた。白い手のひらも、目の真上にかざされた。


「カシム・カージ。この娘から、私のことを忘れさせろ。なにもかも、この娘は知らない」




 はっと気づいた時、マリアは石造りの螺旋階段にいて、夜風に吹かれていた。


 見下ろすのは、賑やかな街。砂漠の商都の夜は遅く、街のそこら中に篝火が焚かれて、色とりどりの天幕テントの隙間を、大勢の人が行き来している。


 市場や酒場からは肉の脂が染みた雲が湧いて、塔の上にいたマリアの空腹も刺激する。――でも、すこし怖い。なにかとんでもないことを忘れている気がして、ぶるっと寒気を感じた。


 ここにいるのは怖い――。


 夜景から逃げるように石段を下りて、寝場所に戻った。




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