第8話 きれいで歪
ぐずぐずしていた鼻もいつしかすっと通って、涙で見えなかった視界もクリアになっていた。
ホールの中からずっと腕を抱きしめていたのが急に気恥ずかしくなってきたが、ここで離すのもそれはそれで、意識しているのを感づかれる可能性を孕む。
とはいえあんな泣き顔を見られてしまったのだからここで何をしようと大差はない気もするが、それはそれである。
「んん……」
微かに唸って探りを入れてみると、空いている手で撫でてくれた。嬉しい。手の温かさで思考までとろけてしまって、先ほどまで立てかけていた戦術もどこかに飛んで行ってしまった。へへへ、気持ちいい。こうやって真由さんの手によって味わえる快感は未だかつて経験したことがなく、まるで麻薬のようだ。嫌がってはいないようだから着くまでこのまま、ぎゅっとしていてもいいよね。
出会って数日だというのに、狂おしいほど真由さんを愛してしまっているのが分かる。自分でも笑ってしまうほど急速にはまり込んでいて、さながらジェットコースターのようである。
女の子同士だからおかしいんじゃないか、とか。単純な奴だと笑われるんじゃないか、とか。
最初は気になったけれど正直そんなの、どうでもよくなってきた。
真由さんとずっと一緒にいたい。
考え疲れた頭はそれだけを願うようになっていた。否、そうしようとしていた。
どうして、どうして、どうして。
疑問の渦に揉まれるうちに、私は彼らと慣れ合ってしまったのだろうか。
慣れ合ってしまうのは、いけないのだろうか。
そうやってもくもくと新しいお友達が生まれるけれど、今日はもうお開きだ。
ぱちん。
心の中でそう云えば、ギモン達は消えてくれると昔誰かが言っていた。効き目はバツグンとまではいかないが、小さな子たちはきちんと隠れてくれるので頻繁に使う呪文である。
折角のデートなんだから、最後ぐらい真由さんと二人きりにしてよ。
追い討ちをかけるように呟いても、やはりもくもくは抑えきれなくて。半ばやけくそのように真由さんの腕を顔に押し当てて、すんすんと匂いを嗅ぐ。
そーっと吸って、そーっとはいて。
これならきっと、ばれない。根拠のない自信を盾に堪能する。ごめんなさい、気持ち悪い子で。でも、抑えられない。快楽と懺悔が交じり合う。ごめんなさい、だけどどうかもう少しこのままで。
気にする素振りを見せない彼女の姿が救いだった。
彼女はどうなんだろう。ああっ、違うの。もういいって云ったでしょう。不安が尽きない。
「那奈、そろそろ着きますよ」
「んっ……」
……?
「んっ!?」
バッと顔を腕から離して目を見る。
「どうしましたか?」
何事も無かったように訊き返してくるのは演技なのか、はたまた素なのか。だって、いま。
「い、いま……なまえ……」
「名前?」
あーっ! もう!
真由さんは私の口から言わせようとする節がある。その誘導によって真由さんに所有されているかのような気分になるのだが、それが気持ちいいときも、うざったいときもあるのだった。
「なまえ! さっき呼び捨てにしましたよね!……あっ」
怒っているような口調になってしまって、パッと手を離す。
そんなつもりじゃなかったけれど、突然のことだったから仕方ない。仕方ない……。仕方ないのだ。
一方真由さんはというと、手を顎に当て、下の方を向いて何やら考えているようだった。変な心配をさせちゃったかなと不安になる。
「いやっ……そういうつもりじゃなくてですね!」
勢いよく弁明を始めようとする私を手で制し、彼女は海の方へと歩いていく。案外歩くのが早くて、とてとてと後ろからついてゆくので精一杯だ。ブーツの先から段々と砂が侵入してくるのを感じる。
「ねぇ、那奈」
「はい」
「私はね、きっと、貴女の思うような綺麗な人間じゃないですよ」
真由さんがぽつり、と零す。彼女の後ろ姿は海に消えちゃいそうなぐらい儚く見えて、放っておけない。綺麗な人間、という独特の言葉回しにきょとんとしてしまって、真由さんの考えていることを図り知ることができなかった。
「えっと……そ、そんなことないですよ!」
フォローしようにも当たり障りのない言葉しか投げかけることの出来ない私はとても、無力だ。胸の内で嘆く。私が真由さんを神聖視しているなんて思ったことも無かったので、それが当たっているかも分からない。無意識のうちに、そんな行動をしていただろうかと自身を省みたその刹那。
すぐ前にいた真由さんがくるっと向きを変えて、私はその胸に否応なく飛び込むことを強いられる。ふにっとしたもので衝撃が和らげられる。
つかみ慣れた腕が背中までまわって、瞬時に自分の状況を理解させられる。視界は真由さんでふさがって、真っ暗だ。
「はぇ……?」
「こうしても、本当にそう思うんですか?」
何かを考える間もなく、耳に、ふーっ、と真由さんの吐息がかかる。
そして生暖かさが徐々に侵食してくる。こんどは耳たぶだけじゃなくて、ぜんぶだ。微かな恐怖心が浮かんで、飛んで行く。
「あっ」
問答無用で舐められる。時折歯の感触がするが、甘噛み程度で痛いものではない。このまま噛みちぎることだってできるのに、痛くしないようにと配慮を感じて少しほっこりする。
じゅるっ……ぺろっ、ぬちゅっ
綺麗ではない音が耳の中で響きわたって、濡れる。
彼女の舌が周囲から、内側にかけて撫で回してくる。
「んっ……あぅ……」
2回目なので驚きこそしないものの、感度はそうそう落ちるものじゃあない。どくんどくん、彼女の胸の鼓動に囲まれて、おかしくなってしまいそうだ。
…れろっ……
耳の骨の間まで真由さんの舌が這って、私すべてが真由さんのものになったような錯覚さえする。
気持ちいいような、気持ち悪いような何ともいえない気持ちだ。奥まで来ないのは、真由さんなりの気遣いだろうか。
ぴちゃっ……
海風に当たって、耳がスースーし始めた。唾液の匂いがツンと鼻を襲う。けして心地いいものとはいえないが、大好きな人にマーキングされたような気分がしてドキドキする。
「ごめんなさい」
対面した彼女の顔は真っ赤で、目を合わせようとしない。
「大丈夫です……」
一線を超えた感じが逆に嬉しかったりして。
でも、彼女は全然嬉しそうじゃなくて、むしろ悲しそうで。
なんで? 真由さんから、真由からやってきたことだというのに。封印していた紫煙が溢れ出てくる。
オレンジ色の夕日が目の端でだんだんと落ちてゆく。
もう、上の方は暗くなってきているのがわかる。
真由さんは目の前で黙ったまま、所在なさげに瞳をふらふらさせている。
ふらふら、ゆらゆら。夕日はその間にも止まることなく落ちてゆく。
ふらふら、ゆらゆら。子供たちの笑い声が聞こえる。
その定まらない視線の先を追って、永遠の時間が経ったかに思えたその時。
…………!
突如彼女は、氷の刃で私の心臓を突こうとするのだった。
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