第7話 プラネタリウム
場内はまだ明るく、上映まで時間があるようだ。
プラネタリウムに来るのははじめてなのでどこが見やすいのか皆目見当もつかないが、真由さんならいい所を見つけてくれるだろう。
ふと、座席についている人達からの視線が怖くなって真由さんの腕からするすると退却した。真由さんは私が離したことを意にも介さず席を探しており、少し寂しいやら悔しいやら。離さなければよかった、なんてちょっと思ってみたりする。思うだけだけれど。また抱きしめ直したら、からかわれそうだ。
「那奈さん、あっちの席がよさそうなのであそこでいいですか?」
特に検討もせず頷く。真由さんが決めた席なら、どこでもいい。
着いたのはドームの後ろ側ブロックの中央辺りの席。周囲にはあまり人がいなくて、ここならゆっくり見られそうだ。ほかのこと……というのも、ここでできる? のだろうか。分からない。
無意識に求めてしまう。期待してしまう自分がはしたなく感じて、抑える。本当は、甘えたい。甘えたい? 甘えたくなんてないはず。分からない。自分が、分からない。
アナウンスとともに場内が暗くなり始める。
すると、肘掛けの上に無防備においていた腕にそっと手を掛けられる。変な反応をしたら周りから見られてしまうので、気にしていないフリをする。
じわじわ、じわじわ。真由さんの指先が私の腕の上をゆっくりと這っているのが分かる。横目で彼女の顔を見ると、彼女はこちらを気にするような様子もなく空を眺めていた。
じわじわ、じわじわ。でも、この感覚は本物で。
じわじわ、じわじわ。熱を帯びた細指は私の手の甲に重なる。指間に入り込む。
ただ手が触れているだけなのに、なんだかいけないことをしているような気がしてしまう。耳まで赤くなっているのが分かる。ああ……。
しっかりと握られた時にはもう真っ暗で、頭上に星がキラキラと光っていた。前方で係員さんが星座の説明をしてくれている。聞いているようで、聞いていない。心地良い女性の声を耳に入れつつ、星空を眺める。綺麗だ。
星空に目を奪われそうになる度、手を通して伝わってくる体温が私を星空から引き戻す。触れているからこそ、声を掛けづらくて。どうしてだろう、いや、たぶん。
ずっと触れていたいから、なのかもしれない。
声をかけて、手が離れていくのがいやだから。それなら静かにずっと触れていたい。そういうことなのかもしれない。きっと、そうだ。
前方にいる家族連れがわいわいと盛り上がっているのだって、少し羨ましいけれど。真由さんと繋がって、静かに天を眺めるこの瞬間を大事にしたい。別に、やせ我慢とかじゃない。本当だ。
「月、綺麗ですね」
急に耳元で囁かれてドキッとする。そして手を離す素振りがなく、安堵する。耳が弱いから耳元で囁くのはやめてほしい所だが、それを言うのはまた今度にしよう。
「んっ、どこですか?」
沢山の星と体温に気を取られていて、特定の惑星の場所なんて分からないのだった。
月の場所を尋ねたら、なんだか不満そうな気配を察した。空を見たらまず月を探しておくべきだったのか? 必死で空を見回す。見つからない。
「鈍感ですね……」
「……すみません」
月を探しておかなかったことを後悔する。次は月から探す、と強く決心するのだった。
「ふぅー。」
「んっ」
「耳、弱いんですね」
耳に息を吹きかけられて反応しない人なんているのか? 思わず力が抜けてしまう。
「鈍感な那奈さんに、お返しです」
お返し……? ふわふわした頭でその言葉を反芻していると。
温かく柔らかいもので耳たぶが挟まれるのを感じる。んぅ……これは……?
ちろ……っ
真由さんが私の耳を……舐めている……!? 初めての感覚に驚きを隠せない。耳を舐められるなんて想定していないので、綺麗に洗っている自信がない。顔を傾けて抵抗しようとするが、真由さんはもっと近づいてきて離れようとしない。
凄く嫌、という程でもないので仕方なくなすがままでいることにする。普通だったらとても嫌がることなのかな、なんてふわふわと思ったりしてみる。嫌じゃない……なんて、変なのかな。
……ぺろっ……
最初は多少気持ち悪さを感じたものの口内の温かさに慣れ、心なしか安心感を覚える。気持ちいい……?
「んっ……」
耳の弱さが災いして声が漏れてしまう。暗いとはいえ、周りにバレでもしたら大変だ。
もっとしてほしい、なんて漠然と思って真由さんの顔を見ると、彼女はサッと離れてしまった。
「ふふっ、これはお返しですから。気持ちよくなっちゃったのならおしまいですね」
悪戯っぽい声が聞こえてきて、たまらない。
気持ちよくなんてなってない! と反論したい気持ちもあったが、妙な脱力感がそれをさせてくれなくて。私はただふるふると首を振るしかないのだった。
上映の間、真由さんの言葉が頭の中をいったりきたりを繰り返していた。
「気持ちよくなっちゃったのなら、おしまいですね」
あの時、もっと自分を隠せていたら。隠せていないにしても、真由さんを見ないでいたら。
もう少し長く、していてくれたのかな……なんて。
もっと舐めていてほしかった、なんて思うのは狂っている? 淫らなの?
気持ちよくなっていると思われたというのはもしかすると、取り返しのつかない失敗だった?
どうしよう。もう、何もしてくれなくなったら。でも、それが普通だよね、でも。
茫漠とした不安がのしかかってくる。何故か分からないけれど、とてつもなく不安だ。
どうしてこんなに不安に思ってしまうのだろう。
面と向かって振られたわけでもないし、次もありそうな口振りだった。いや、これは私の願望かもしれない。だけど。
なんで。
胸がきゅうきゅう言って、息苦しい。はやく終わらないかな。
おしまいっていつまでなのかな。
もっともっともっと、触れ合いたい。嫌がられるかな。それは嫌だ。触れ合えないのも、嫌だ。
私の中は目に映る星空みたいにキラキラでいっぱいで、おおきくて、ごちゃごちゃで、理不尽で。
事の道理がもうなんだか分かんなくって。
真由さんは私のとくべつだけれど、真由さんにとってはどうなんだろう。
ただ、弄んでいるだけ? ただ、面白がっているだけ? でも、それじゃ説明のつかないことばかりで。
とくべつだったら、いいな。回らない頭で願ってみる。
ふと、隣からは静かな寝息が聞こえてくる。私がこんなに考えこんでいるというのに、真由さんは本当に自由だ。こんなに自由だと、退屈なんて無縁なんだろうな。羨ましい。
すぅ、すぅ、というのを暫く聞いていたら私も眠くなってきたので、ゆっくりと目を瞑る。ごめんね係員さん、説明ちっとも聞けなかった。先ほどから変わらず静かなトーンで喋る係員さんに謝りつつ、気付けば眠りの世界に墜ちていた。
目が覚めたときには、前方にいた家族連れもカップルも、後ろから聞こえていたおじいさんの独り言も優しい女の人の声もぜんぶ、いなくなっていた。ハッ、と横を向いたら真由さんの姿も無くなっていた。
寝ているうちに、帰っちゃったのかな。私と居るのはやっぱり、楽しくなかったのかな。年甲斐もなく落ち込む。
そういえば、連絡先も聞いていない。これは、帰るしかないな……。真由さんとのコンタクトが取れそうにないことを理解してしまう。
虚無が目から零れる。誰もいないから、隠すこともしない。ただ座って目を見開いて、流れる虚無を垂れ流しにする。頬を伝って、顎から落ちる。気にしない。顔がびしょびしょだ。それでいい、気にしない。
突然、あの時みたいにフワッと春の香りが漂って。
思い切り後ろから抱きしめられた。白いブラウスの袖が視界に入ってくる。まゆさん……?
「ごめんなさい、泣かせるつもりはなかったんですよ」
切望していた声が聞こえてきた。嘘。虚無だったものが宝石に変わる。ぼろぼろと大粒の雫が膨らんでは落ちる。頭が真っ白になって、宝石の波にワッと呑まれる。
「ううううう………うっ、うっ……」
「ごめんなさい」
「うっ、うっ……うぁっ……」
「……」
泣き止まない私を温かに包み込んでくれる。
「あうっ……っ……ごめ、んなさい……」
「謝るべきは私ですよ」
「んんっ……」
「一人にして、ごめんなさい」
「あぅ……うあああっ……」
ごめんなさい、と謝る真由さんの声はいつもよりずっと優しくて。優しすぎて。堰を切ったように涙が溢れて止まらない。止められなくて、ごめんなさい。こんなに好きで、ごめんなさい。
涙が収まるまで真由さんはじっと傍にいてくれた。泣き顔を見せるのが恥ずかしくなって、不自然なのは承知で腕に顔を隠す。真由さんは申し訳なさそうに、でも余計なことは言うまいとしているようだった。
泣きやんでしまうと、何がそうさせたのかぽっかりと忘れていて、あるのはひどい泣き顔と傍にいてくれる真由さん。むしろ清々しい気持ちさえ感じてしまうのが不思議だ。
「真由さん、この後どうします?」
努めて明るく振る舞う。無論、顔は隠したままだが。
「大丈夫なんですか、那奈さん」
「大丈夫ですよー! 元気です! とっても元気です!」
ふふっ。やっと笑ってくれた。
「そうですね、では夕日を見に行くのはどうですか? 今の時間なら、丁度落ちるのが見られると思いますよ」
元々そうする予定だったかのように滑らかに提案してくる。
ふむ、中々渋いチョイスだ。
「あと」
「?」
「泣き顔を見られる心配も、ないですから」
ああもう本当に、この人は。
また涙が出てきそうなのをぐっと堪えて、目を逸らす。真由さんの方を見ていたらまた泣いてしまいそうだから。
自分の腕を外し、その代わりに真由さんの腕を抱きしめる。真由さんの肩に顔をうずめて、顔を隠す。真由さんは一瞬驚いた素振りを見せるも、無抵抗に私に腕を預けてくれる。真由さんの服が濡れていく。悪いと思うけれど、私の涙が染み込むのはなかなかどうして、心が満たされる。
「では、いきましょうか」
真由さんの匂いに囲まれて、私は真由さんの行くほうへ身を任せるのだった。
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