第5話 店員の男

 閉じた瞼の向こう側が眩しい。喫茶店の余韻に浸っていたら眠ってしまったようだ。大きな胸の当たる感触、力強い抱擁、妖艶な囁き。今でもしっかりと覚えている。真由さん。まゆ……さん。しつこいくらいに名前を呼ぶ。真由さん。

 昨夜は頑張って呼び捨てにしたものの、わたしの自由意志はそれをやっぱり許さないようだ。

 心から呼び捨てにできる時、私たちは何をしているのだろう。有名テーマパークでデート? 海に行ったりもするかな。それともやっぱり、あの喫茶店に居るのだろうか。

 あれこれと妄想を膨らませているうちに、ぱっちりと目が覚めた。いい目覚めだ。


 今日は学校がないので、目覚まし時計なんて文明の利器は寝かせておいたわけだが、空を見上げれば太陽はもう高く昇ってお昼時であった。誰にも邪魔されずに睡眠を取った贅沢感と、少しばかりの虚無感を抱きしめる。

 私の親はよほどの事がない限り放任主義だから、きっと今「おはよう」と言っても「あぁ、起きたんだね」程度の反応しか示さないだろう。ちょっとぐらい驚いてくれればいいのに、なんて最近は思う。

 まぁ、それが助かる時だってあるのだけど。


 ちょっと出てくると云ってお気に入りのもこもこブーツを取り出していたら、お母さんがひょい、と顔を出す。めずらしい。


「あんた、なんだか楽しそうね」

「そう? そんな事ないと思うけど」


 ちょっと声が裏返る。どうか気づかないで。


「あそ? まぁいいや。で、昼はどうするの?」

「んー、外で食べてく」

「おっけー、じゃ、いってらっしゃい! 気をつけるのよ~」


 何気ない会話のなかの静かな駆け引き。そんなに私、楽しそうなことをしてただろうか。お母さんの勘は妙な所で鋭いから困る、と苦笑しつついつもの喫茶店へと向かうのだった。



「いらっしゃいませ、こんにちは~」


 聞きなれない男の声が響く。あれ、真由さんじゃない。残念だ。お昼はいらないと言った手前、後戻りもできず仕方なくカウンターへと向かう。店員の視線が痛い。

 どうしていつもいるなんて錯覚していたのだろう、と自己嫌悪に陥ってしまう。真由さんもいないのに沢山食べる気にもなれなくて、とりあえずキャラメルラテを頼むことにした。

 このお店で真由さんを感じられる品はそれだけだったから。胸がギュッと痛くなる。


 ずずず、とラテを啜りつつ、寡黙そうな店員に尋ねる。


「あの」

「なんでしょう」


 ぎろり、と男の目が動く。


「いつもここで働いてるお姉さん、今日はお休みなんですかね?」


 どうでもいい相手だから、言葉は詰まったりしない。早口でまくし立てる。


「あー」


 髭を弄りながら、低い声を漏らす。

 なんだ、いいから早くしてくれ。逸る気持ちが抑えられない。


「真由は今日はお休みですねぇ」


 真由? 真由といったか。私がどうにも超えられない一線を、この男はいとも簡単に超えてみせたというのか? 苛々した気持ちが募る。


「今、どこにいるとか分かりますか!」


 心の叫びと混じったものが口を吐いて出てくる。声を荒げてしまったが、とっさに口を押えたりはしない。


「お客様、あまり大きな声を出されますと迷惑ですので」


 ああ、それはいいから。どうしてこの男は私の気も知らずに呑気に構えているのだ。

 はやく、はやく真由に!真由にあいたいんだ。いけ好かない店員に対抗するように心の内で呼び捨てにしてみるが虚しさだけが残る。


「真由は、今日は習い事ですよ。でももうそろそろご飯を食べにくると思いますよ」


 ふーん、習い事。そうか、それなら仕方ないな。ここに来るというのが分かっただけで嬉しい。

 仕方ない。

 勢いに任せて大半は飲んでしまったが、残りをちびちびと飲んで時間をつぶそうではないか。

 それにしてもこいつはどうしてその情報を知っているのだろうか。どうしよう、真由さんの彼氏だったりしたら。いやいやこんな男にひっかかる訳がないだろう。でも、もしそうだったら。

 謎の怒りと不安とが頭をもたげてきて、そっと男を睨んでしまう。当の本人は何も考えていなさそうな顔で座っていて、それがまた腹立たしい。自分の狭量さも悔しくて、考えれば考えるほど苛々して、だからといって下手に質問をして店員に恋心を知られたくもなかったので、カップを両手で包んで、ただただ真由さんの帰りを、熱望するのだった。

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