第4話 ふたりきり

 そっと耳を撫でた吐息は甘美な匂いがして、少しくすぐったかった。

 一言だけの囁きだけれど、それは、いつまでも残って私の胸を苛んでいた。


 出会って二日目だというのに、私の心はすっかり真由さんの虜になっていた。

 こんなことは初めてで、恥ずかしいやら気持ちいいやら辛いやら、たくさんの感情の渦が大暴れしているのが伝わってくる。ドクンドクン、と心臓の音が煩い。

 涼しそうな顔で仕事に励んでいる真由さんは、どんな気持ちでいるのだろうか。

 傲慢な考えなのはわかっているが、私の事を少しは……好いてくれていると嬉しい。


 切なげな表情で窓の外を見る。せかせかと歩いている男性が数人見える。

 ここにいると、現実と隔絶されたかのような気分になる。ふとおおきな影が後ろを通って、すぐに鈍い鐘の音が聞こえる。

 これで、もう、真由さんと二人きり。

 厭らしい考えなんて決してない。ない、筈。そっと唇を舐める。


「さて」


 気付けば真由さんは目の前にいた。陶器のような白い肌に薄いピンクのアイシャドウが映える。


「本日は、またのご来店ありがとうございました」


 死刑宣告のように小さな唇から紡がれる言葉は穏やかではあれど、私が期待していたそれよりもずっと冷たくて、硬い。

 そんなの。

 散々弄ばれた心が、このまま帰る訳にはいかないと口を開かせる。


「……リボン、どうしてくれたんですか」


 つめたい氷を溶かしたくて。さっきの囁きの味が、もっとほしい。

 真由さんが、ほしい。


「それは。」


 紅く色づいた口元に華奢な手が持って行かれる。指先がすらっとしていて芸術品のようだ。


「貴女が気になるからという以外に、何かありまして?」


 軽く首を傾げた彼女を前に、私は何も言えなくなる。時が止まる。

 さも当然のように述べられたその台詞は私が求めていたものな筈なのに、感情という感情がどこかへ消え去ってしまう。

 わたしのことが、きになる。

 それは、どういう意味なんだろう。


「どういう意味か、ですか?」


 私の心を読んだかのように質問を投げかけてくる。ゆっくりと私の方へ向かってきて、見えなくなる。

 背中からじわり、と熱が伝わってくる。真由さん。どうして。頭が真っ白になる。

 気付けば私は真由さんに抱擁されていた。


「こう云う、ことですよ」


 耳元で囁かれる。今度は、もっと近くで。ちょっとビクッとする。


「んっ……」


「厭ですか?」


 ふと細い腕が居なくなってしまいそうになって、反射的にぎゅっと手を握ってしまう。

 ふふっ、と微かに笑われたような気がした。でも、嫌な気はしなかった。


「……いいんですね」


 真由さんはそうと分かると更にしっかりと抱きしめてきた。茶色がかった長い髪からは花の上品な香り。

 ずっと求めていた真由さんの声、匂い、心。それら全部のなかはとても心地よくて、もっと欲しくて、目を閉じる。私たちのほかに、誰もいない。この時間がいつまでも続いてほしい。


「可愛い」


 彼女の口から漏れる。興奮して、熱い。

 無意識に、真由さんの腕押し当てるように身体を揺らす。

 気持ちいい。

 聞こえてくる吐息もいつしか激しくなるのが分かる。

 そして、急に掛かる力がいなくなる。

 不安げにする私の横に現れて、髪を撫でられる。


「今日は、このへんにしましょうか」


 彼女の頬が心なしか紅い。すっかり私は蕩けてしまって、まともに返答できそうもない。

 次があることを匂わせられ、心臓の鼓動が止まらない。


「ん……」


「これからも、宜しくお願いしますね」


 小悪魔のような微笑を浮かべながら話す彼女に、こくりと頷くことしかできない私。

 スカートのなかが湿っぽい。脚には全く力が入らなくて、暫くは動けそうになかった。


「それと……」


 悪戯っぽく口元を持ち上げる。


「真由、で構いませんよ」


 真由。遠く離れているとおもっていた存在が、すぐ近くに迫ってくる。

 だがしかし呼び捨てにしたら、私の気持ちが真由さんに露わになる予感がして、恥ずかしくて、呼べる気がしない。

 その考えを知ってか知らずか、彼女は畳みかけてくる。


「一度、呼んで頂けますか」

「んっ、それはっ……」

「だめ、ですか?」


 心底悲しそうな顔をされる。卑怯だ。そんな顔をされたら、言わないなんて、無理だ。


「……まゆ」

「?」

「真由!」


 たった一言なのに、身体が震える。大事なものが出て行ったような感覚。

 彼女は、そんな私を優しく撫でてくれる。


「ありがとうございます、那奈さん」


 満足げな彼女をとろんと見つめる。全身が微かに甘い匂いを漂わせていた。




 脱力したまま、私はしばらくそのまま座っていた。真由は帰り支度があるらしく、奥に引っ込んでしまった。

 窓の外はもう真っ暗になっていて、月がぼんやりと木々を照らしていた。


「行きましょうか、那奈さん」


 ガラン、ガラン。

 閉店時刻をとうに過ぎて、夜道を歩く少女ふたり。会話はないが彼女らの手は静かに、だがしっかりと握られていたのだった。

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