(8)

 さて、こうしてプセルロスの死によって彼の章を締めくくり、次の章に移りたいところである。

 だが本書は折角“この世の全てが記録されている”と言われているものなので、他の史書に載せられていない部分についても触れてから次の章へ移ろうと思う。

 これは記録であるのだから、彼らの心情について推し量ることは控えてきた。だがこれから述べる部分はいささか彼らの心情に近すぎるように思われる。しかしこれは小説ではなく記録であるのだから考慮する必要はないだろうと結論付けた。

 他者の心情を推量しても、それが正しい答えではないように、意図的に情報を伏せることも、他者の意思が働いている点では同じだからである。

 前置きが長くなった。

 それでは誰もが記録できなかった、プセルロスとペラギアの最後の会話を載せておく。



 その日、無表情でプセルロス邸を訪れたペラギアは、寝台の上で弱々しくなっていたプセルロスを見つけると、みるみる顔を歪ませて涙を流した。

  子どものように泣きじゃくってプセルロスの近くに駆け寄った。

「余を置いて行かないでくれ」

「見舞いにも来なかった奴が調子の良いことを言ってくれる」

 プセルロスは痩せた頬をかすかに揺らし、震える手でぺラギアの頭を子どもにするように撫でた。

 どうやら身体も自由が利かなくなってきているようであった。数年前から関節痛も患っていたので、動くたびにプセルロスの身体は軋んだ。

 プセルロスの死に向き合えないぺラギアは、今度はプセルロスを睨んで責め立てた。

「余を孤児にするつもりか」

「俺はあんたみたいなでかい娘はいない。あんたの息子程見てくれは良くなくても、ちゃんと跡取り息子がいるんだ」

「お前は余にとって父であり母であり兄ではないか。お前は余を娘であり妹であると思って慈しまなければならない」

 無茶苦茶な理屈であった。口の上手いプセルロスも、これには何も言い返すことが出来なかったようで、呆れたようにため息をついた。

 ペラギアは我儘な女だったが陽気な性質で、他人を責め立てることはない。だからこれはプセルロスにだけ見せる甘えのようなものだ。

 まだ夏の暑さが残る初秋のことである。寝具は薄く、プセルロスの身体の線が見える。

宰相プセルロスと言えば贅沢の限りを身体で体現したような肥満体質だったが、ため込んだ贅肉はここ数年、病によってすっかりと削げ落ちていた。

 幾らかの沈黙の後、プセルロスはゆっくりと口を開いた。



「テオシウス様は良い方だったなぁ」

 突然この場にはいない人物の名前が出て来たにも関わらず、ペラギアはそうすることが自然であるように相槌を打った。

「余にも優しくしてくれた。同母の兄などより、よほど親切にしてくれた」

「そうだそうだ。アンドロニコス。あいつは救いようがなかった」

「でも、母上はあいつの罪を隠した。母上にとって兄上だけが可愛い子どもだったんだ」

「あれはもう親子ともども、どうしようもなかった」

「お前だけが余を守ってくれたなぁ」



 それから二人は、亡き人たちの話に花を咲かせた。それはペラギアの身内の話から始まり、ヴァシリの高官達、ヴァシリ帝国史に確認できない人物たちにまで広がった。

 中には女性の名前らしき人物名も挙げられていて、共通点があるようでないような列挙だった。単なる思い出話にしては、彼らと会話すらしたことがないような人物も混ざっているようである。彼らは自分たちが何者によって命を絶たれたのか分かることなくこと切れていった。



 それからひとしきり話し合うと、二人は長年の友として笑い合った。そしてペラギアは笑いながら次第にまた泣いた。

 俺はなぁ、とプセルロスはペラギアに声をかける。しゃくり上げたペラギアは涙をぬぐいながら顔を上げた。幾らか皺は増えたが、目ばかりは出会った頃のプセルロスと変わっていない。肥満に苦しんでいた時も、神経質そうな目つきだけはそのままだった。

 


「あんたと出会った時な」

「うん」

「ああ、俺がいるって思ったんだ」


 プセルロスは目を閉じて夜伽話をするかのように言った。


「不思議だよな。出自も年齢も性別も、何もかも違うのに。この世の全てが敵で、味方なんか誰もいなくて、見えない敵と戦っててさ」

「そうか」

「うん」


 だから、とプセルロスは続ける。少し息が上がってきたようだった。


「だからあんたに他人を愛せなんて言ったんだろうな。他人を味方につけるのが作戦だなんて言ってさ。俺は結局のところ、あんたを全うに幸せな人間にしたかった。だってあんまりじゃないか。世を拗ねた人間がまっとうな愛を知らずに他人から奪って切り開いて、最後に何も残らなかったなんてさ」


 ペラギアは返事をしない。


「だからあんたが他人から愛される人間になることで、俺は俺自身を供養できると思ったんだ。馬鹿だよなぁ」

「そうだ、そうだ。馬鹿だ。そなたと余は違う人間なのだぞ。お前自身が幸せにならなければ意味がないじゃないか」


 ペラギアは思わず立ち上がって怒鳴りつけた。興奮したようだった。元々泣いていた顔を更に赤くさせていた。

 確かに、死ぬ間際にこんな告白をされて動揺しない人間がいようか。そんなことを託されていたなど、共犯者としての裏切りではないか。

 怒鳴られたプセルロスは、ペラギアの怒りを予想していたようであった。この男は最後まで先を考えてしか行動しない男だった。

「そうだな。馬鹿だったしおこがましかったな。俺だって若かったんだよ。だがな」

「なんだ」

「死ぬ間際になってみると、俺の人生も悪くなかった。面白かったなぁって思うんだ」

「そりゃあお前。他人の余から見てもかなり楽しそうだと思うぞ」

「なんだよそれ。まぁ、つまりだ。なんやかんやあっても、最後にそう思えるってことは俺は結構幸せだったってことじゃないか?」

「当たり前だ。大体お前。そもそもお前と話し合った時、自分の目的は贅沢の限りを尽くすことだって言ってたじゃないか。国民の不興を買いながら余よりも金持ちになってるんだぞ。どうなんだ」

「そうなんだよなぁ」


 二人は笑い合った。

 しんみりとした出だしだったにも関わらず、いつの間にか間が抜けた会話になってしまったことも、笑いを誘ったようだった。

 笑いながら泣き出すペラギアにプセルロスは宥めるように笑いかけた。



「気長に待ってますよ。また二人で一緒に遊びましょう」








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