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 807年8月16日 プセルロスは引退した。


 暑い夏の日だった。57歳。病が進行していて身体の自由が利かなくなっていた。 思い返してみれば、彼の周りで天寿を全うした者は少ない。

 その多くが病や戦で命を落としている。逆にいうと、老衰が珍しい時代だったのかもしれなかった。

 ペラギアはプセルロスの口から引退の話を聞くと、返事もせずに無表情に追い払うような仕草をした。皇帝のその様は、長年仕えてきたプセルロスに対してあまりにも情のない振る舞いだった。

 そしてペラギアはプセルロスが引退した後、お気に入りの美青年達を連れて国内を旅行し始め、遊び呆けた。その無情な様は彼女の母親であるテオファノが亡くなった時に似ていた。

 へメレウスとグルツンギ王女との婚約話が白紙になってから程なくして、テオファノは亡くなった。病死である。

 ペラギアはそれまで母親であるペラギアに、甲斐甲斐しく年金を送り続けては顔を見せていた。

 だが、テオファノがもう長くないと知ると、母親と距離を取って一切面会に行かなくなった。理由は記録されていない。

 テオファノは最期に一目娘と孫に会いたがった。だが、再三送った手紙を、ペラギアは無視している。

 結局、テオファノは一人虚しく亡くなった。葬儀は二人の皇帝を生み出した皇太后らしく、豪奢なものだった。


 周囲にはプセルロスへの態度が、亡きテオファノへの態度に重なって見えた。

 約30年も宰相を勤めた男に対する冷たい仕打ちに、心ある者は密かに同情した。 だが、プセルロスは皇帝に何も求めなかった。



 プセルロスの病がいよいよ篤くなった。

 危篤の知らせを受けたペラギアはようやく重い腰を上げて、かつて自分を養育してくれた男の自宅へと足を運んだ。

二人きりにさせて欲しいと周囲に命令した彼女は、一人覚束ない足取りでプセルロスの寝室へ入っていった。

 この命令によって、彼らが二人きりでどんな会話をしたのか記録には記されていない。

 程なくして子どものように泣きじゃくりながら出てきたペラギアは、その日以来ハギア宮殿の自室に閉じこもった。プセルロスが亡くなった知らせを受けるとまた泣いた。

 そして彼の為に豪華な建築を立てるように命令を出した。

 宮殿の主はプセルロスではなく、ペラギア自身であるという。



「余が死して住まう宮殿である。プセルロスはまた余に仕えるのだ。だからこれはプセルロスの為の宮殿でもある」



 まるでペラギアに仕えることがプセルロスの趣味のような言い草である。

 彼女にはそう見えていたのだろうか。






 完成した宮殿こそドクサ宮殿だ。一度も使われたことがない、あの宮殿である。

 後年ヴァシリティオンを滅ぼした異教徒たちがあまりの美しさに感動して、壊すことが出来ずにそのまま保持されたギリク建築の最高傑作。

 ペラギアは完成を待たずに世を去った。


 プセルロスが亡くなった後、もう成人しているへメレウスに帝位を譲った彼女は、遊覧の旅に出ようとした。だが、新皇帝に連れ戻されている。

 母親の為に美しい奴隷たちを用意して、母の望むものは何でも与えたへメレウスだったが、ハギア宮殿からの外出だけは許さなかった。この処置は軟禁と何ら変わりない。

 へメレウスの本音は分かりづらい。

 前皇帝に対する政治的危惧だったのか、自由奔放な母親に対する執着心だったのか、保護の為だったのか。

 ペラギアは文句も言わずにこの処遇を受け入れた。

 彼女は不思議な女性で、特に美しいとも秀でた人格者であったとも伝わっていない。それでも、外国の史書に悪し様を書かれた師匠と違って、この女皇帝は人から好かれた。身近な世話をする小間使い達、老獪ろうかいなヴァシリ官僚、美しき側室達。誰もがペラギアに親しみを抱いた。

 惚れっぽい彼女が惚れる相手は皆、最後には立場が逆転して彼女を追いかけた。美しい側室たちは、男女を問わずペラギアを自分一人の者にしようと躍起になった。

 ペラギアは愛情に溢れ、人を楽しませることが上手く、人の弱さに寛容であり、そして不誠実だった。

 人たらしとは古今東西そんなものかもしれない。

 へメレウスにもその才能が受け継がれているからこそ、誰もが彼を愛した。母親と違う点は、この息子は自らに向けられる好意に対して無責任ではなかったことだろう。

 

 それでも、多くの人に好意と不誠実をばら撒いてきたペラギアでも、もしかしたらプセルロスは特別だったのかもしれない。

 本項でプセルロスを扱っているからこじつけたわけではない。

 何故なら、宮殿に軟禁状態にされていたペラギアは、亡くなる前にプセルロスのことを呟いている。母親でも、その時に仕えていた唯一の話し相手たる少年奴隷でも、かつての愛人たちでも、子どもたちのことでも、ましてや国のことでもなかった。


「もう一度プセルロスと遊びたい」


 これが最期の言葉だった。

 自らの黄金期に思いを馳せていたのだろうか。



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