(3)姫の決断



「エマ!?」


 くず折れたエマの姿に、急いでマリエルが立ち上がった。そして、急いで駆け寄ると、こぼれる血にもかまわずに、白い手でエマの唇に触れている。


「吐いて! すぐに!」


 マリエルの指が血で汚れるのもかまわずに、エマの手をどけて唇をこじ開けようとしていた。


 ――毒!


 マリエルの咄嗟の様子と、エマの側に転がっていた毒見のパイの欠片に、何が起こったのかやっとわかった。


 だから、急いで駆け寄ると、エマの腹を後ろから抱える。そして、思い切り力を入れて、肩甲骨の間を叩いた。


「吐いて! 少しでも、口の中に残っているのなら!」


 無理矢理下を向かせて、背中を叩いたお蔭で、まだ口の中に残っていた欠片は、エマの開いた口からたくさんの唾と一緒に絨毯の上に転がり出てくる。


 だけど、食べたのがこれだけとは限らない!


「シリル! 急いでお医者様を!」


「今、呼んでいます!」


 シリルも慌てているようだ。今顔をあげれば、さっき閉めたはずの扉がもう開かれて、扉の前にいた衛兵達の姿が見えなくなっている。きっと咄嗟に医者を呼びにやってくれたのだろう。


「エマ! エマ! しっかりして!」


 青い顔で、マリエルがエマを抱き起こしている。絨毯にうつぶせていたエマの姿は、自分の吐いた物で、顔や服が汚れてしまっている。


「すぐにお医者様が来るから!」 


 けれど、汚れがドレスにつくのもかまわずに、マリエルは必死にエマの肩を抱えると、側の長椅子へと連れていってやろうとする。もちろん、細い体だ。自分と同じくらいの体格のエマを支えて歩くのは、大変なのに決まっている。


 それなのに、愛らしい眉を寄せながら、自分に忠誠を誓ってくれた侍女のために、少しでも体を楽に休ませてやろうと必死に運んでいく。


 眉を寄せているマリエルの様子に、私も急いで反対側からエマの肩を支えた。


 そして、赤紫の長椅子に横たえると、吐いた物で喉がつまらないように、エマの顔をそっと横に向けてやる。


 涙をためながらマリエルが、エマの汚れた口元をハンカチで拭ってやった。


「駄目です……姫様。ハンカチが汚れます……。それに、毒がつくかも……」


「何を言っているの。手やハンカチなんて、洗えば大丈夫」


 それよりもと、涙が滲んだ瞳でエマを見つめた。


「エマは、昔から私の側にいてくれた大切な存在だもの……。お願いだから、こんなことで死なないで……」


「姫様……」


 泣きながら呟かれるマリエルの言葉に、苦しそうなエマの瞳にもうっすらと涙が光って頷かれた。



 その後、急いでかけつけてきた医師の迅速な手当てによって、エマの命は何とかとりとめた。


「パイ生地の中に、毒を入れたクッキーを混入して、銀食器に反応させなかったようですな」


 かたんと音をさせて、医師は調合した薬の鉢を、エマの枕元に置いた。


 側では暖炉の火が焚かれ、部屋の中を暖気の色に染め上げている。焔に頬を染められたエマは、前よりも少しだけ顔色が良いようだ。


 解毒薬を飲んで落ち着いたエマは、今は隣にある侍女用の部屋のベッドに移されて、眠っている。着替えたから、さっぱりもしたのだろう。寝息は落ち着いているようだ。


「食べた量が少なかったのも幸いでした。怪しまれないように、クッキー生地を薄く伸ばして入れた為に、口に入った量そのものは少量だったのでしょう」


 離宮に勤めて、幼い頃からずっとマリエルの健康も診てきたという年配の医者は、落ち着いた声で話しながら、側のたらいに入った水で手を洗った。


 そして、横で心配そうに見つめているマリエルを振り返る。


「もう、大丈夫ですよ」


「あの、エマは……」


「そうですな、一週間は安静にしておいてください。でも、今は姫様の顔色の方が心配だ。ちゃんとお昼は食べられましたか?」


「いえ……それどころではなくて……」


 口ごもるマリエルの様子に、時計を見れば、いつの間にか昼をすぎていた。もう二時近いだろう。


 だから、薬が効いて、静かにベットで眠っているエマの顔を振り返った。ここは、マリエルの部屋の隣にある侍女の控えの間だが、私とマリエル、それにシリルと医師がいるのでいっぱいだ。みんな心配して、時間がたつのも忘れて、エマの様子を見続けていた。


 けれど、眠ってはいるが、今のエマの落ち着いた息なら、もう大丈夫だろう。


 だから、私もほっとした。


 そして、一つ大きく息を吐いてから、気がついた側のマリエルの様子に、袖を引っ張る。


「マリエル――本当に顔色が悪い。少し休んだ方がいい」


「ええ……」


 ひどく張りつめた顔をしていたマリエルは、私の言葉で、やっとはっとしたらしい。ずっとエマの看病で青くなっていた顔で振り返ると、弱々しく微笑んだ。


「ごめんなさい。そうね、じゃあ奥の部屋で着替えてくるわ」


「ああ、安心して! ついでに少し休んで元気をだして」


 笑顔で励ますと、振り返ったマリエルは微笑みながら出て行く。部屋の向こうに笑顔が隠れ、ぱたんと扉が閉まると、私は急いでシリルの方を振り返った。


 ――時間がない!


 だから、シリルの側に早足で駆け寄ると、必死で叫ぶ。


「今すぐ私をギルドリッシュ前王陛下の所へ行かせてください!」


「貴方を?」


 毒で冷え切ったエマの体を温めるために、部屋に焚かれた暖炉の焔を背にして、シリルが驚いたように瞬いた。


 だけど、こんな事態になれば、一刻の猶予もない!


「はい! 使者がやられ、次はマリエルを狙ってエマがやられました! もう一刻を争う状況です! 少しでも早くギルドリッシュ陛下にお会いして、マリエルを新女王と認めていただかないと、マリエルの命が危ない!」


 今回は、幸いエマの口に含んだ量が少なかったから助かった。けれど、これがもし多量だったら――そして、マリエルが気がつかずに食べていたら――考えただけでもぞっとする。


「ふうむ」


 必死な私の表情に、シリルも同じ事を考えていたのだろう。顎に手を当てると、少し考えこむように目を動かしている。


「確かに――これ以上、時間をかけるのは姫の身が危険になるばかりです」


「だったら!」


「とはいえ、貴方は姫の大切な従姉妹君です。できれば危ない任務を頼みたくはありませんが……こうなっては、致し方ありません。姫のために、行ってくださいますか?」


 頷いたシリルの言葉に、ぐっと拳を握り締めた。


「はいっ!」


「あ、でも護衛の騎士はもちろんつけてですよ? いくら、貴方が強くても、ロナルドを倒した相手に一人で使者に出すわけにはいきません」


「わかりました! 騎士隊で信頼のできる者に、同行を頼みます!」


 やった!


 だから、私は急いでエマの部屋を飛び出した。元々、じっと敵の襲撃を待っているのは、合わない性分なのだ。それぐらいなら、多少危険でも、自分から飛び込んで活路を開くほうが合っている。


 それに――と部屋を飛び出しながら、唇を噛んだ。


 悔しいではないか。同じ離宮の仲間がやられて、マリエルの命が狙われたのに何もしないなんて!


 あの明るいエマが何をした!?  ただ、深くマリエルに忠義をつくしていただけだ!


 その主君を大切にする心さえ守ってやれないなんて、何のための騎士職だ!


 だから、急いで隣まで走ると、マリエルの書斎の前に立った。


 ――さて、なんて話そう。


 こほんと扉の前で咳払いをする。


 きっと心配するだろうな。心配して、真っ青になってしまうかもしれない。


 うーんと、腕組みをする。


 だけど、これはマリエルとみんなを守る為に決めたことだから。どうか許してほしい。


「マリエル?」


 だから、出発の報告のためにマリエルの部屋の扉を叩いた。


 けれど、中からは何の返事もしない。


 おかしいな。続き部屋の寝室で眠ってしまったのだろうか。


「マリエル?」


 だから、もう一度こんこんと叩いて、しーんと静まり返る扉に首を傾げた。


 そして、もしこの間みたいに眠ってしまっているのだったらと、できるだけそっと扉を開く。


 けれど、中は静かな空間だった。この間散らかっていた机の上の本も綺麗に纏められて、横に積み上げられている。


 こちこちという時計の針の音だけが部屋に響いていた。


「マリエル?」


 だから、私は不思議に思って部屋の中に入って首を巡らせた。


 けれど、部屋の中の空気は冷え切っていて、ここには長く誰もいなかったことを示している。


 そして、ふと目を留めた机の上に見つけた。


 この間の時とは違い、綺麗に整頓されて開けられた空間の上に、白い小さな紙切れが置かれているのを。


 え? なんだ、あれ?


 だから、近寄ってそっと手に取ってみる。白い上質な紙は、マリエルが使っていた便箋なのだろう。そこに急いだような文字が書かれていた。


『これ以上、ほかの人達を危険にするわけにはいきません。


 だから、私がお爺様に直接お願いに参ります。


                      マリエル・レビジュール・ロードリッシュ』


「マリエル!?」


 思わず、私は便箋を掴むと、焼ききれそうな勢いで書かれた文面を何度も目で追いかけた。


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