3

「……オーディション、通った」

「……うそ」

「まだ1次だけど……次も通ったら」

「デビュー?」

「……かも」

 言い終わると同時に春が私に抱きついてきた。私も力いっぱい抱きしめ返した。

 やったやったと2人で言いながら飛び跳ねた。

 そして転んだ。

 それでも笑った。おかしくて仕方ない気持ちだった。

 それは花粉が舞う季節だった。

 あの騒動の後に、とある事務所のオーディションを受けることにした。

 少し吹っ切れて、世界に私を知らしめたいと思ったから。

 親も驚いたようだったけれど私のことを応援してくれた。

 その結果がこれだ。おかげで夕飯が私の好物ばかりで少しお腹が重い。

「おめでとう! 本当に! おめでとう!」

「ちょ、ちょっと。まだ1次だから……」

「それでも!」

 春は公園内をぐるぐると走り回っていた。

 まるで犬のようだったけれど彼女らしくて笑ってしまう。

 しばらく走り回った後、春は私が座っているベンチの隣に飛び乗ってこう言った。

「ねぇ、お祝いしない?」

「お祝い?」

「そ。色んなもの食べてさ、色んな話もして」

「別にいいけど……いつ? 来週?」

「ううん。今日」

「今日って、今から?」

「うちに来ない? 泊りがけでさ」

 思わず変な声を出してしまった。

 春からそういうお誘いがあるのは初めてだった。

 そもそも彼女がどこに住んでいるとか何歳とか本当の名前だとか。

 私は何も知らないままここ数ヶ月一緒に過ごしてきたのだ。

 それを知るチャンスなんてそうそう無いだろう。

 逃したくないと思った頃には、私は親に連絡して友達の家に泊まると嘘をついていた。

 準備をしたいと言う春の言葉に私も少し冷静になった。考えてみれば、明日も普通に学校がある。

 一度家に帰って準備をしてからまたこの公園に集まろうということになって、春と別れた。

 家に帰ってからも親に話をしていても鞄に制服や小物を詰めている時でも、私は春のことを考えていた。

 どんな家に住んでいるんだろう。

 どんな家具を揃えているのだろう。

 どんな本が好きなのだろう。

 考えることは沢山あった。

 私は春が好きだった。

 最初は不審がっていたけれど、彼女という人間を知れば知るほど惹かれていった。

 私を何回も助けてくれた人。

 私の欲しい言葉をくれる人。

 もっと知りたい。親しくなりたい。離れたくない。

 こんなことは初めてだった。

 公園に駆け足で戻ると、春はもうベンチに座っていた。

 こっちと指された方を見ると公園の脇に黒い車が停まっていた。彼女の物らしい。

 助手席に乗り込むと柑橘系の香りがした。芳香剤か何かだろうか。

「ちょっと遠いから、車の方が楽だと思ってさ」

「車、持ってたんだ」

「まあね。電車も嫌いじゃないんだけど、やっぱりこっちの方が便利だし楽だし」

 他愛無い話をしながらも私の心臓は高鳴ったままだった。

 車の運転が出来たりお酒が買えたり。

 春はしっかりと大人だった。

「着いたよ」

 そう言われて車から降りると、そこは高級住宅街と呼ばれる場所だった。

 親からあそこに住んでいる人はお金持ちなのよ、なんて話を昔聞いたことがある。

 そう呼ばれるのも納得できるほど、連れてこられたマンションは豪華だった。

 玄関が私の部屋以上に広かったしエレベーターの前には背丈以上の植物が飾られていた。

「……こんな所に住んでるの?」

「うん。つまらない場所でしょ?」

 春は悲しそうに笑った。私は少し羨ましかった。

 ここまでお金があるなら防音室や機材を揃えることができそうだと思ったからだ。

 今の家は壁が薄いから歌うとすぐに怒られてしまう。

 6階までエレベーターで上り、長過ぎる廊下を歩く。どこが春の部屋なのだろうと思っていたら端までたどり着いてしまった。

「ここが私の家。どうぞ入って」

「おじゃまします……」

 人の家に入る時、とても緊張する。

 家には空気というか線みたいなものがあって、それを超えると図々しいことをしている気分になってしまう。

 靴を脱いで靴下を確かめて、リビングまで歩く。

「私の部屋まで持っていって欲しいものがあるんだけどさ」

「良いけど、先に手を洗いたい……んだけど」

 リビングに足を踏み入れた瞬間、叫びだしそうになってしまった。

 部屋にほとんど物が無かったのだ。

 真ん中にソファが置かれていて、壁際には電気屋さんでしか見かけなさそうな大きいテレビがあった。

 普通ならばテーブルが置かれているだろうスペースには埃しかなく、ちらりと見たキッチンには数個のグラスと冷蔵庫しかなかった。

 異常だと、思った。

「洗面所は出て右だよ」

「う、うん。お借りします」

 逃げるようにそこへ向かう。

 大きな鏡の前にはコップと歯ブラシ、タオルが置いてあって少し安心してしまった。

 全てが白で統一されていて病院を思い出した。

 リビングに戻ると春からお盆を手渡された。その上には個包装のお菓子とグラスが乗っていた。

 春は何かの瓶を数本、手に持っていた。

 こっちが私の部屋だよと春が言うので後ろを着いていく。部屋がいくつもあったけれど全て閉まっていた。

 静かだった。

 私達が歩く音とグラスがぶつかる音、それ以外は何も聞こえてこなかった。

 壁が厚いんだなと思った。この時間なら車やバイクの音がしてもおかしくはないのに。

「ようこそ、私の城へ」

 春がふざけながらドアを開ける。

 もうちょっと持ってくるものがあるから、と彼女はまた部屋から出ていった。

「……ここも」

 寂しい部屋だった。

 ベッドと机しか置いてない、白い部屋だった。

 テーブルの上にはノートパソコンが置かれていたけれど、それだけだ。

 私はパソコンに詳しくない。

 それでも何も繋がっていないそれがただの板になっていることぐらいは理解できた。

 想像していた部屋のイメージが崩れていく。

 実は本棚には難しそうな本が詰まっていたりとか。

 結構散らかっていたりとか。

 観葉植物だったり水槽なんかが並べられていたりとか。

 一緒に住んでいる、人が居るんじゃないかとか。

「悲しい、家」

 私の声は壁に吸い込まれていって、返ってくることもなかった。

「おまたせー。さ、お祝いしよ」

 春が両腕に抱えて持ってきたのは、缶だった。

 私にも見覚えがあるそれは、味もそれぞれでぴかぴかしている物。

「……お酒だ」

「そ。宴会しようよ」

 よく見てみると瓶もお酒で、ワインだった。

 赤と白があることは知っている。どちらも用意されているみたいだった。

「飲もうよ、未成年」

「犯罪じゃないの、成人」

「今日ぐらい神様だって見逃してくれるよ」

 ね、と笑う春に私は心の中で大きく息を吐いた。

 実は助手席に座ったあたりで気がついていた。

 そして今ので分かってしまった。

 分かって、しまった。

 認めたくなかった。

 私と春は今日までなのだと。

 今日が終われば次は公園で出会うこともない。

 最後、なのだろうと。

「どうしたの? 座ろうよ」

 春がベッドに座って、隣を軽く叩きながら私を誘ってくる。

 これに乗ってしまったら終わってしまう。

 そう思うと足が震えた。

 嫌だった。

 今まで春には沢山助けてもらった。恋愛関係ではないけれど友達以上の何かだったのは間違いない。

 よくわからないけれど、この気持ちを名付けるならば恋だと思っていた。

 涙があふれてきた。いつの間にか私は本当の泣き虫になっていたようだった。 

 春はずっと微笑んだままで、グラスにお酒を注いだりしている。

 私にもそれを持たせて乾杯をせがんできたりもした。

 言ってしまおうか。

 これが最後なんだねと。

 あなたのことが好きだと。

 春が好きだと言ってくれたこの声で。

「駄目」

「……っ」

「それを口にしたら、今すぐ出ていってもらう」

 だからね、と春が笑った。

 この人は一体何物なんだろうと、出会った時にも考えたことを思い出す。

 涙は拭わなかった。

 そのままグラスをぶつけて、無理やり笑う。

「……乾杯!」

「うん、乾杯」

 そこからは、本当になんでもない話をした。

 クラスの女の子の話。先生の話。親の話。

 最近流行っているアクセサリーの話。

 読んだ雑誌の話。テレビの話。イヤホンの話。

 私ばかりが話していた。いつもとは真逆だった。そのせいですぐに喉が乾いてしまって、その度にお酒で喉を焼いた。

 春はそれに、噛みしめるように相槌を打っていた。

 時々お菓子をつまんで美味しかったら私にも食べさせてくる。

 時計もないこの部屋でどれだけ話をしただろう。

 気がついたら結構な数のお酒が空になっていて、殺風景な部屋が徐々に散らかり始めていた。

 酔っているというのはこういうことなのかとふらつく頭で考えた。

 座っているのに我慢が出来ず、ベッドに仰向けで倒れ込んだ。

 天井まで真っ白なこの部屋がどんどん好きになっていた。微かに香る花のような匂いが気に入った。

 私と電灯の明かりを遮るように、春が覆いかぶさってきた。

 そしてそのまま抱きしめられた。細い腕が私の背中に滑り込んでくる。

「酔っ払っちゃった」

「……わたしも」

「そっか」

「うん、おそろい」

 春が笑いながら頭を撫でてくる。前にもこんなことがあったなと、不確かな頭で思い出そうとする。

 春が何かを喋っている。

 私はそれを聞き取ることが出来なかった。

 少し体を持ち上げ、彼女が私と目を合わせる。

 口を少し開き、一度閉じ、また開く。

 何かを言おうとしているようだった。

 春の頬に手を添えた。

 いつもひんやりとしていたはずなのに、今はほんのりと熱を持っているのが感じられた。

「……歌手になりたいの」

 自然と口が動いた。

 春が驚いたように目を開き、そしていつも通りに笑った。

「そう言ってたね」

「1番になりたいの」

「なれるよ」

「知ってる? 歌ってすごいんだよ」

「知ってるよ」

 だってあなたが聞かせてくれたんじゃないと春が呟いた。

 私みたいな人はたくさん居るだろうから、と春が言う。

 歌手になれば大人になれば色んな人と出会って、別れて。

 こんなことを特別だなんて思わなくなるよと彼女は言った。

 私にはよくわからなかった。

 彼女以上に特別を作ることなんて不可能だと思った。

 春の声を聞きながら目を閉じた。

 そのまま眠気に、誘われるがままに落ちていく。

 さようなら、と聞こえた気がした。

 それがどちらの声だったのかは、もうわからない。

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