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「……歌手になりたいの」

 何回目の密会だっただろうか。

 私は春にそう呟いた。

 話の流れは全く覚えていない。私がそう口にしたことぐらいしかまともに記憶にないのだ。

 歌手。

 私の夢。私のわがまま。

「歌手?」

「うん。私はみんなの前で、何かを歌う人になりたいの」

 この話をした人は少ない。

 自分の夢なんて誰かに話すものでもないだろうし、話したところで真意なんてわかりっこないからだ。

 それに、この後の展開が特に嫌いだから。

「じゃあ、何か歌って欲しいな」

「……みんな絶対そうやって言うんだよね」

「そりゃそうだよ」

 そしてこれから逃げられないことも私は経験上知っていた。

 こういう時はさっさと歌ってしまうに限ることも。

 先程まで座っていたベンチにサンダルのまま登る。

 気分を高めるためだったけれど、結構恥ずかしいなと思った。

「じゃ、歌うけど……知らない曲だったとしても許してよね」 

「いいよいいよ」

 春はパチパチと拍手して私の歌を待っていた。

 それになんだか気を抜けれてしまい、知らずに入っていた肩の力が緩んだ気がした。

 頭の中で曲を選び、再生する。

 息を吸う。

 口を開く。

 最初の言葉を発した時点で、私は私ではなくなった。

 歌う時は何か別のことを考えてはいけないと思っている。

 歌詞に込められた想いだとか背景だとか、そういったものを肩代わりしているから。

 私達はそれを伝えるべきだと思うし、それが出来ないのであれば実力が足りないのだと。

 少し前まで通っていた、スクールの先生の師匠が尊敬している人の言葉らしい。

 その人のことは何も知らないけれど、全くその通りだ。

 私の喉、肺、脳、そして声は。

 そのために生み出されたものなのだと。

 信じていなければ、駄目なのだ。

 曲を歌いきり、乱れた息を整えながら春の顔を見る。

 目がきらきらしていた。

 小さい頃に見たプラネタリウムのようだと思った。

「すっごい!」

「……何が?」

「歌が! 上手!」

「……ありがと」

 初めてだった。

 春がこんなに声を大きくして何かを話すのは。

 それに気がついて、頬が緩んでしまう。

 良かったと言われるのは嬉しい。何回でも、誰にでも、どうやっても。

「前から思ってたけど声がハスキーですごくかっこいいから、なんだろう、上手く言葉に出来ないや」

「もう、良いよ」

「とにかく本当に上手だったよ!」

「……うん」

「美咲?」

 春は少し前から私のことを呼び捨てにし始めた。

 最初からそうだった私とは大違いで、彼女は何故か許可を取ってきたぐらいだった。

 その頃ぐらいだっただろうか。

 私が、自分のことを少しずつだけれど、話し始めたのは。

「泣いてるの?」

「……そんなわけないじゃん」

「でも、だって、」

「泣いてない!」

 私の意思とは反対に、目からは涙がこぼれ続けていた。

 しゃがんでしまったから、それがつま先にかかって不愉快だった。

「嬉しかった、わけじゃないよね?」

 すぐに言葉が出なかった。

 涙が喉に入ってきてしまって、詰まっていた。

「……ちょっと待ってて。何か、飲み物買ってくるから」

 そう言って春は公園の外にある自動販売機に歩いていった。

 帰ってくる頃には流石に涙も止まるだろうと、自分を抱きしめていた腕に力を込めた。

 軽く伸ばしていた爪が痛い。

 クラスで浮かないためのお洒落が自分を苦しめるなんて、考えたこともなかった。

 爪切りはどこにしまっていたっけ。

 そんなことを考えていると春が帰ってきた。手にはオレンジジュースとコーヒーが握られていた。どちらがどちらのだろう。

「意外と泣き虫だったんだね、美咲って」

「まぁ、まだ高校生だからね」

「わかーい。羨ましくなっちゃうなぁ」

 手渡されたのはオレンジだった。プルタブを開けると炭酸が吹き出してきた。

 あまり飲まないので口に含んだ瞬間、舌がびっくりしてしまう。

 春はコーヒーが好きらしい。いつもここで集まる時に香ばしい匂いをまとってきた。

「……で?」

「で?」

「何で泣いたの?」

「……答えなきゃ駄目?」

「せめてそれ1本分は話して欲しいかなぁ」

 私は大きく息を吐くと、ぽつぽつと語り始めた。

 と言っても半分以上は愚痴になってしまったけれど。

「世界で有名な歌手って何人も居るじゃない?」

「うん。私でもちょっとは知ってる」

「その人達の中に、声が低い人っている?」

「……あんまり?」

 そう、数が少ないのだった。

 私はこの声で生まれてきて、歌手を目指して。

 色々な歌を聴いた。

 その中で私が音を下げずに歌えるものは、ほとんどない。

「でも、そういう人でも歌手になってる人はたくさん居るじゃん」

「そりゃね。それでも私はこれじゃ嫌なの」

 天まで届いて響く伸びのある声を知っている。

 透明で綺麗で力強い声を知っている。

 私の低く掠れている声とは違う。

 だから努力をした。

 けれど私の声はそれにはならなかったし、電話口ではいつも男の子と間違えられた。

 ハスキーだと言えば聞こえは良い。

 けれど私は。それを苦し紛れだとしか思えなかった。

「……だから泣いちゃったの。それだけ」

 話し終わってから、1本分以上だったなと思った。

 これは今度何か別のものを追加してもらうしかない。

 横に座っている春は何かを考えているようだった。

 当然だろう。突然人の悩みをぶつけられて、しかもそれが自分の居る世界とは全く違うものだったら。

 私なら答えに詰まるだろうし何を言えばいいかわからないと思う。

 現に学校の友達などはそうなっていた。

 スクールの先生でさえも当たり障りの無いことを言ってきた。

 そういうものなのだろう。

 腫れ物に触るよう、とは上手いことを言ったものだなぁと思う。

「それはさぁ、逃げてるだけじゃないの?」

「……は?」

 唐突だった。

「なんか、そういうのを建前にして逃げてるようにしか聞こえないよ」

「え、ちょっと待って? なに? 喧嘩売ってる?」

「そうなっちゃうのは図星ってこと?」

 春が目を細めて微笑んだ。

 余裕がにじみ出ていて無性に腹が立った。

 彼女はそうだった。

 何をするにも私の上に居るようで、私はいつもそれに腹を立てていた。

 だからだろう、声を荒げて噛み付いてしまったのは。

「逃げてなんかない!」

「ほんと? 諦めたほうが簡単だからそう言ってない?」

「春も知ってるでしょう! 世界はこんな声の歌手なんて求めてない!」

「私は美咲の声と歌が大好きだけど?」

「1人に言われたって!」

「私だって世界の一部なのに?」

 屁理屈だと思った。

 それについて怒鳴りたかった。

 けれど。

 いつも以上に優しい表情と声に。

 いつの間にか添えられていた手と温度に。

 また涙腺が緩んでしまっていて声が出ない。

「私は美咲の声が好き。何度だって言ってあげる」

 子守唄を歌うように、春がそっとささやいてくる。

「あの歌を歌って欲しいなって思った。色んな話を聞きたいなと思った」

 水が2人の手を濡らしていく。

「だから、お願い」

 私は泣いていた。さっきよりも酷く。

「私の好きに、そんなこと言わないで」

 人は欲しかった言葉をかけられると、驚いて嬉しくてみっともなくて涙が出ると知った。

 春の前だと私は普段よりずっと幼くなってしまうようだった。

 彼女に抱きつきながら声をあげて泣いた。

 赤いパーカーが濡れて黒く変わっていくのに、春はそれに何も言わず私の頭を撫で続けてくれた。

 風が吹いて砂場の表面をさらっていった。

 そろそろ冬が終わるなぁなんて考えた。

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