28
ついにファントムの脚の動きが目に見えて遅くなり──そうなると亀のように身を縮め、絶えず動きながら、受ける打撃の角度を変える防御に専念するより仕方なかった。
敵は速度を緩め重い打撃に切り替えて拳を振るい、脚をうならせ、冷徹な追い込みに入ってきた。ドッ! ドガ! ゴッ!と低い打撃音が連続して響き渡る。苦しい展開になり見ている方も辛い。
彼を制御するマリの心の叫びが頭の中で聴こえてくる。
《博士の意志とともにありたい》
これはマリ自身の声だ。
《忘れろとは言わないわよ》
これはアニエスの声。
《幸せになる選択をすればいいんだ》
これは俺の声。
《私の幸せって何?》
ドガッ!動きを捉えられ右フックが深く入る。後ろに跳ばされるファントム。
《私の居場所はボールドではない》
そこへ距離を詰め踏み込む敵ナイト。左の前蹴りがファントムの腹部に入る。速い。衝撃波が背中を突き抜け空気を震わせていた。後方に自ら跳び致命の一撃は回避したが──尚も敵ナイトは踏み込む。
ドン! うなる右ハイがガードの上に入る。反動で大きく上半身をかしげるファントム。
《私の居場所は──ここか。ハルオの腕だ。地上人。デリリウムの選んだ人間。地上と地下のはざまにいる人類。……私が守らなきゃ。私のために!》
ファントムは両足を踏ん張り崩れるのをこらえる、そこでブン、と左右に小さく揺れて姿を消した。その動きを読んでいたごとく敵ナイトは振り払うようにして左腕を回転させバックブローを放つ。
うなるブローは空を切っていた。ガンッ!と鈍い音が響く。身を屈めていたファントムは伸び上がると同時に右ヒジを突き上げ相手のアゴに直撃させていたのだ。
しかしその打撃を受けつつ左ミドルをファントムの腹に食い込ませる敵ナイト。右エルボーに渾身の力を傾けていたファントムは無惨な直撃を受けていた。俺の全身にも重い衝撃が伝わる。
ついにコンクリートの地面に倒れるファントム。
が、一方の敵ナイトもがくんとヒザから崩れ、仰向けに倒れ込んだ。頭部への直撃はやはり効いている。
ダブルノックダウンだった。両者とも体を震わせ動こうとするが地面から起き上がれずにいる。回復には時間がかかりそうだ。
ミューラー総帥がこちらに声を投げ掛けてくる。
「ハルオ、お前なぜ超人化しない? 私の出撃には超人化の威力がどれほどかを確かめる意味もあったのだが」
なんと俺にである。
「そっちも後ろの連中は加勢しないじゃないですか」
「ああ? 若造が! 地上人と一緒にするな! これは勝負だ」
ああ、戦争ではないということか。
「俺はやりませんよ」
「お前は戦うべく選ばれたと思うのだがな」
「でしょうね。だから彼は俺の代わりです。……だから、立て、ロジェントファントム。俺の代わりに戦ってくれ」
それは不思議な光景だった。ファントムが身を起こしよろよろと立ち上がる。彼の銀色の全身に奇妙な緑色の細いラインが走るのを俺は見た。それは血管のように幾重にも筋が浮かび上がり、それは彼の体躯を薄い緑色に輝かせた。再び闘気のオーラがほとばしる。
敵ナイトもよろめきながら立ち上がる。
総帥に目を移し俺は言った。
「地上の世界に関して言うと……俺はリセットもいいと思う。あんたたちの悲願を否定する気はない。仮に場所を入れ替わったとして、滅んだとして……運命だと受け入れるさ。が、ここであんたに負ける……というのは受け入れられない。なぜならあんたは相棒の仇敵だから」
「そうだな」
ミューラー総帥は腕組みをしてそう言う。
実のところ俺自身もふらふらだった。体力的なことではなく精神疲労ということだろう。意識が安定しない。
「次の一撃だ」
もうファントムは限界だった。
「次の右フックに、その一撃に全てをかける。どうするかはそっちの好きにしろ」
総帥は黙っていた。彼は疑念をこちらに向けている。言葉通りに実行するのか、フラグなのか、誘いなのか。
──実行あるのみさ。なあ、ファントム!
ファントムが動いた瞬間だった。敵ナイトが体を左右に小さく揺らし、スススッと横に流れるように分裂して五体に増殖するとそいつらが同時に襲いかかってくる! 四体が横に列を成して迫り、一体が宙を跳んで蹴りの構えを見せる──
幻術である。本物はひとつ。俺には気配で分かる、向かって右端のやつ。ファントムはそこだけを狙って踏み込み、全身全霊をかけた右フックを放った。
ドゴン!とけたたましい轟音が響き衝撃波が周囲に拡散する。カウンターとなった一撃は敵のクロスガードを撃ち抜き、腕に大きな亀裂を走らせる。この一撃によって敵の両腕を破壊することができた。幻の四体はかすみのように消えてゆく。一方ファントムはそこで体勢を崩し右ヒザを地面につき、緑色に輝いていた細いラインが消え、まるでスイッチが切れるようにしてオーラを失った。もう動けない。彼の体は限界を迎えていた。
──あともう少しだったな。
俺は終わりを覚悟した。
──ここまでか。
総帥が言った。
「終わったな。こちらには蹴りがある」
その声には確信がにじんでいる。
そう、相手は立っており、まだ動けるのだ。地力の差が最後の最後で出てしまった。しかし俺に悔いはない。悔いることに意味はない──
その時だった。二体のナイトのそばに移動サークルが立ち上がり、コンクリートに黒くあいた穴から若い女が現れた。離れた距離にいる三人の軍人も、俺の後方に位置する桜井さんも驚きの声を上げている。
ややあって桜井さんが俺に教えてくれた。
「ハルオくん、ルナイシエンサだ」
ボールドの最高権力者。預言者である。しかし見た目は二三くらいに見えなくもない。こんなに若いのか。いまの俺はすぐアンドロイドかと疑ってしまう。しかしそれは俺の中で急いで取り消す。
「ミューラー、止まりなさい。……もちろんマリも」
そう彼女は総帥を見ながら言った。ちらりとこちらを一瞥するとすぐに顔を戻し総帥に語りかける。
「たったいま、預言がありました。いま行われている戦いは中止。そして、地上帰還計画は凍結。この預言は悩まれた結果です、止まりなさい」
「……いまさら、、そうする根拠、理由が欲しいところだ」
「私に尋ねることではありません」
「そこは訊くなと。……まあよい……得るものは多々あった。戻れディアマンテ」
敵ナイトが疲れきった足どりで総帥の方に向かう。両腕は力なくだらりと伸びきっている。マリもまたファントムを消さない。
ルナイシエンサが俺たちの方に体を向け歩いてくる。一見すると巫女かと思わせる衣服である。上は白のふわっとした羽織をまとい、下はターコイスブルーの袴風スカート。艶々した黒髪を後ろに束ね、小顔の彼女は浮き世離れした美形の人だった。
「まずはお礼を。ミューラーを殺さないでくれてありがとう」
背後にいる総帥の顔には驚きと当惑と憤りが混じったような表情が浮かんでいる。
「誤解です。超人化には大きなリスクがあります。それが嫌だっただけです」
考えなかったわけじゃないが、マリがそうしようとしなかった以上、俺はマリに合わせるしかない。
「ですが私は大事な人材を失わずに済みました。あなたにはお礼として相応の報償を与えるべきだと私は思っています。何か望みがありましたらおっしゃって下さい」
望みか……なら知りたいことが幾つかある。
「地下世界については秘密が多すぎます。俺は秘密を知りたい。他言はしませんので教えて頂きたい」
「それは……覚悟のいる話になりますよ。またボールドに移動しての話になります。よろしいですか?」
一時的にしてもマリにとっては帰還になるので訊いてみる。
「マリ、どうかな?」
「仕方ないです。いいですよ」
そこでファントムが姿を消していく。それを受けて敵ナイト、ディアマンテも姿を薄くさせていき、ほどなく消えた。場の空気に微妙な安堵のムードが広がるなか俺はルナイシエンサに返事をした。
「では決まり。行きます」
彼女に導かれ俺は移動サークルに向かい、流れ的に桜井さんも同行するが、ルナイシエンサは彼の顔を見ていい顔はしなかった。同行も仕方がないかという顔だった。
黒い穴にゆっくりと沈んでいくとき、俺は距離を置いてこちらの様子を見つめているミューラー総帥を見、そして後ろのグレン大将を見、別れの挨拶をしておこうかと一瞬考えて、でもそれはやめておいた。俺と彼らには何か決定的な解離がある。相容れぬ何かが、そこにはあったのだ。
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