第三章 リラックス、リラックス
22
七時に床から身を起こした俺だが、夜中の三時くらいに一度目を覚ましていた。その時は頭が冴え渡った状態で自分でも怖くなるほどに冷静な心境にあった。
思考を支配していたのは孤独というものだった。誰からもいまの俺は理解されない立場にある……途方もなく大きなものを俺は背負っているし自分の意志とは関係なく担わされている……とそこまで考えたところで俺は思考を打ち切り、眠ることにした。
考えたってどうにもならない。ならば考えない。考えることをやめる。目の前のことだけに集中しろ島本遥生。
なぜか脳裏に浮かんだのはベテラン芸人五十嵐豪の姿だった。俺の知る彼は殆どの場面で輝く芸人だったが彼が何もできなかったことがある。
学科試験を受けて面白回答を競う企画のなか、彼は何もできなかった。それでよかったのだ。若手のアイドルやタレントの育成が裏テーマとなっている企画であり、すでに芸能界での立ち位置を確立している彼に求められていたのは引き立て役だった。あの五十嵐が何もできないなか、この若手はここまでやれるのか、という輝かせ方である。
いまでも思い返すだけでリスペクトの感情でいっぱいになる。このようなパフォーマンスをこなすのは彼ただひとり。俺はこのとき彼の勇姿を思い浮かべながら眠りに入っていった。
──今日、大きなことがあるな。俺にはそんな確信があった。シュラフ(寝袋)から出て居間を抜け、屋外に出て山奥の空気を吸ってみる。朝の乾いた空を見上げ、林の濃い緑を見、風を肌に感じる。
俺は戦いを予期し、抑制しつつもそれを待ち望んでもいた。俺が戦うわけではないのだけれども。戦うのはマリである。
午前九時頃、机につき何かの作業に没頭している桜井さんのわきでスマホを片手にネットのニュースをチェックしていると、玄関の引き戸を叩くノックの音がした。
返事を待つことなく戸が開いて、俺が玄関に行くとそこには長い黒髪の女が立っていた。よく通る透き通った声が耳に届く。
「はじめましてハルオさん」
三十代後半だろうか。東洋系の顔立ちで美人ではあるものの雰囲気が攻撃的でかすかに圧もある。
「はじめまして……」
俺は気圧されていた。
「おはようございますイヴォン博士」と奥に向かって強めた声を放つ女。ベージュのコートを脱ぎ、黒のパンツスーツ、白のインナーという出で立ちになる。
桜井さんがやって来てその顔には少々戸惑いの表情が浮かんでいた。
「おはよう」
「お久しぶりです。何年ぶりかわからないくらいに」
「……用件は?」
「政府の使者として参りました。説得の依頼を受けて。……といっても無理だと思ってますから個人的な助言をしておこうと」
「……何だか偉そうだな。……ハルオくん、彼女はジルダ・ゴードン。アレクセイの助手だった科学者だ。いまは副主任だっけ?」
「はい」
「誰の説得の依頼?」
「あなたがた三人です。でも個人的な目的……誰に会いに来たかと言えばマリですね」
「そうか。……じゃあ上がりなさい。俺の家ではないが」
座敷用の低いテーブルに俺と桜井さんのふたりがつき、ジルダさんは机の前の椅子に座ってマリと語る形になる。俺の左手首との対話になるので妙な感じだ。彼女はすぐに本題に入った。
「マリ、帰りましょう。政府主導にある今を逃すと事態はどんどん難しくなる」
俺が感じる印象としては、マリは事務的な対応しかする気がないように思われる。
「承知の上です」
「あなたはあなたであるべきで、あなた自身の答えを見つけなきゃならない」
「どういう意味です?」
「あなたはシュナイザー博士を誤解してる。人には光と影があるのよ。あなたは光の部分しか見ていない」
「それのどこがわるいのでしょうか」
「わるいわ。一面しか見ないのはバランスを欠くわね」
「特別に優れた人物は誰であれ功罪があるものです」
「知りもしないのに何言ってるの」
「あなたは何を知ってるんですか?」
「……二年前の事故は防げたかもしれないってことね」
──事故? ああ……デリリウム鉱石の研究施設で実験中に起爆し、どでかいクレーターを作ったというやつか……
「それは俺も知りたいな。その件はよくない噂しかない」と桜井さんが静かに言う。
「特に知りたくはありません」とマリ。
「いや、聞かないと。デリリウム研究は国策だったから最新の施設が作られた。国営の施設よ。研究者や従業員には政治家や軍人のご子息も多かった。……その中には私の恋人もいた」
俺は正直なところ彼女が怖かった。その核が突然に表に出てきた感じだった。
「……いいでしょう。聞かせて貰います」
マリの声には少しだけ、感情が込められていたように思う。
──三年前。
軍の管轄下にあるグエルアルモス研究所の会議室に呼ばれたジルダはシュナイザー博士から忠告を受けた。
ふたりだけの会合であり博士には最初から何か言いにくそうなムードがあった。言うべきか言わざるべきか、そうした迷いを抱えているのがジルダにはありありと感じとれた。
彼はもともと新たに建設されるデリリウム鉱石専門の研究所に強い懸念を示し反対の立場をとっていた。そして今日、二時間ほど前にジルダのフィアンセであるレウス・ノエルがそこに勤務することが決まったのを知ったのだ。それを受けての忠告である。
「サンティアナは非常に危険だ。配置替えの願いを出させた方がいい」
サンティアナとは広大な荒野であるエリア32に建てられた件の研究所の名だ。
「私から彼にそんなことは言えません。本人が希望していた職場ですよ。何にでもリスクは付き物です。博士自身がいつもそうおっしゃっているではありませんか」
「リスクの大きさが違う。扱いを間違えば予想できん規模になる」
「そうであるなら政府に根拠を示すべきです」
「客観的な根拠は持たない。勘だ」
「勘の話を私にされましても」
ジルダは疑った。博士は先に手柄を出されたくないのではないかと。彼が誰にも手伝わせず個人でデリリウム鉱石の研究を行っていることは仲間内では誰もが知っている。
「私に命令する権限があれば確実にその権限を行使している……それだけの忠告だということを頭に入れてくれ。その上で考え直してくれ」
「頭には入れておきますが、政府が決めたことです。変更はありませんよ」
時が経ち、その約一年後、サンティアナ研究所は実験中に突如起爆したデリリウムの破壊力によって建造物も何もすべてが跡形もなく消え失せてしまう。
ジルダは自分が自分でなくなっているような期間を過ごした。体の中身が消え失せ幽霊になってしまったような。職務を病欠として度々放棄し自室に閉じこもり、ただ無為な時間を過ごすばかりで考えることも何もできなかった。何も感じなかった。そしてその先にあったものはある疑惑だった。
なぜ博士はあのとき自分に忠告したのか、できたのか。──それは危険の度合い、破壊力の規模をはっきりと掴んでいたからこその忠告ではなかったか。
さらに言えば……予期できていた? 失敗することが予見できていた? だから?
……だからジルダは拳銃の銃口を自分の頭に突きつけ、問うたのだった。
その時彼女は博士を会議室に呼び出した。自分が呼び出され忠告を受けたあの時と同じ部屋である。アレクセイ・シュナイザーの顔は部屋に入ってきた時から死を受け入れた、沈痛と諦念の混ざる表情で固まっていた。断頭台を前にすでに生を捨てていた。
ジルダは博士を室内の最も端に位置する椅子に座らせると、立ったまま自分の頭にゆっくりと右手で握った拳銃を突きあてた。彼女の体が小さく揺れ、小刻みに震えだした。
「申し訳ありません博士……こうするしかないんです……」
体の奥から絞り出すように彼女は言った。
「答えてくれなければ撃ちます」
いきなり涙をこぼした。それから、あとからあとから涙が溢れ出てくる。どこから出てくるのかわからなかった。上ずった声がジルダの口から漏れる。
「あなた知ってたんでしょう? 研究所が失敗するって……」
シュナイザーから沈痛さは消え、意志のこもる達観した態度に切り替わる。
「私を撃ちたまえ。私を撃っていい。……科学者としてあえて言う。あれは必要な失敗だった。政府と軍に畏怖を与えるだけの結果が。近い未来に、それだけの脅威が必要になる。ひとつの金属が……ボールド政府と軍を、その存在だけで威圧できるほどの力を持たなくてはならない」
「ひ、必要な失敗……? 必要って、誰に……?」
「人類にだ」
「はあ……? あなた、それ国のお金を使っての研究よね……?」
「誰かがやらなくてはならない」
「わからないわ……わかるのはあんたが悪魔ってことだけ」
「あとでわかる。人の進化はAIとの融合でしか成し得ない。そうした反逆は“強大な力”の背景なしには存在できないんだ。許されざる存在だからね」
「わかんないなあ……あんた自分の研究欲を満たしたいだけじゃない。……でもお礼を言っとくわ、いま、あたしは生きていくって決めた。何があっても生きていく。……悪魔の研究が行き着く先を見届けてやる」
その場は銃声が響くことなくジルダの嗚咽でことは済んだ。彼女は、得た秘密は内面に押し込み、博士に対してもそれまでと同じ態度をとり、勤務もまた通常の内容に戻った。
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