人の死に方
“Mind the gap. Mind the gap. Mind the gap…”
電車とホームの隙間に注意を促す放送が何度も繰り返される。ロンドンの地下鉄は、乗りにくいのか乗りやすいのかよくわからない。日本の電車と比べて明らかに小さくて、背をかがめて立っている人さえいる。日本人の平均よりほんの少しだけ小柄な僕でさえ、少し窮屈に感じる。ただ、乗り換えの容易さはピカイチだ。地元の大きな駅では、案内に従って歩いても迷うくらいなのに、ここではそれが無い。その点は、さすが100年以上やっているだけのことはある。
今僕たちはテッサが勧める陸軍博物館に向かっている。戦争博物館の一時閉館に沈んでいた僕に、彼女が提案してくれた。ロンドン名物の時計塔、ビッグベン付近の駅から地下鉄で30分ほどで着くらしい。
一つ目の駅を通り過ぎたところだが、出発の際にチョコウェハースをもらったお礼を言って以来会話は無い。まだ出会って半日も立っていないし、僕自身会話が得意なタイプでは無いから仕方ない。さっきカフェにいたときは、感情の後押しがあってすんなりと言葉が出たが、今はもうその助けを借りることも出来ない。
テッサからもらったチョコを、封を切らずに半分に折る。少し溶けているのか、もっさりとした感覚が手に伝わってくる。取り出してみると、手に少しチョコがついた。やっぱり溶けていたらしい。空港に着いた時にも買った、日本でも良く見かけるこのチョコを、1つ口に入れてみる。知らない土地で知っている味に会うことほど安心するものはない。ぐにゃり、さく、とした食感が、噛むたびに安心感を与えてくれる。食べた後に残るのは、治療をサボった虫歯にしみる感覚、喉をヒリリとさせて、水分を訴える感覚。とりあえず前者はどうにもならないので、水を一口含んだ。喉の渇きは収まったが、水の冷たさに虫歯の痛さがさらに増した。帰国したら真っ先に歯医者に行こう。
「おじい様は、どんな人だったんですか?」
歯痛で眉間にしわを寄せている僕に、テッサが聞いてきた。問いかけに反応して彼女に向けた顔から、まだしわが消え去っていないのを見て、彼女が少し笑った気がした。
「じいちゃんは、うーん、優しい頑固オヤジって感じかな」
「それって、どんな感じですか?」
彼女の問いかけはいつも笑顔が混じっている気がする。
祖父は、優しい笑顔の中に、誰よりも強い正義感と伝統を重んじる心を持っていて、曲がった事が大嫌いだった。半世紀後に生まれた僕からすると、ややもすれば凝り固まった古い考えを捨てきれていないようにも思たが、話をよく聞いてみると、しっかりと芯が通っていて、なんでも頭ごなしに否定する人ではなかった。
「その性格がたたって、一度昇進のチャンスを逃しちゃったらしいんだけどね」
「どうしてですか?」
祖母から聞いた話では、間違ったことを言う上司が許せず、楯突いた結果らしい。それくらい正義を貫く人だった。
そういえば、祖父の葬儀の後、僕はまるで彼の生き写しだと、父は言った。祖父の面影を、僕に感じるらしい。母は否定していたが。
「素敵じゃないですか。サトーは、どう思うんですか?」
「ずっと父親似の顔だと思ってたから、よくわからないなあ」
「お父様に似ているのなら、おじい様にも似ているんじゃないんですか?」
「それが全然似てないんだよ、不思議なことに。おじさんの方がじいちゃんに似てるよ」
「へえ、不思議ですね」
優しい笑みを見せてくれた後、テッサもチョコを頬張った。彼女は半分に割らない主義らしい。なぜかブルジョワジーな香りがする。
「きっと、顔じゃなくて性格とか、立ち振る舞いが似ていると思ったんじゃないでしょうか。そこが似ていると、顔も同じように見えてきて面白いですけど」
性格はさておき、祖父母の家に父親と尋ねたとき、テレビに夢中になっているときの姿勢が3人とも同じだったことがある。3人とも、半跏思惟像のように右足を左の太ももに乗せていた。足を組みたいが短いので仕方ない。
「やっぱり。他にもきっと色々あるんですよ。間違いなくおじい様はサトーの中に生きてますよ。そう思えば、なんだか寂しくないですよね?」
「……ありがとう」
思いがけず心が揺れた。人は死ねばいなくなる。二度と再び会えるものではないと思っていた。心の中にいるのなら。確かに少し寂しくなくなった気がする。
「ところでさ」
と、気になっていたことを問いかけてみる。
「失礼だったら申し訳ないんだけど、テッサは、映画やドラマで見るロンドンの人たちの様な話し方をしてないよね。違うところから越してきたの?」
「なんですか、その質問?」
一瞬、むすりとした様にも見えた顔に、思わず謝ってしまった。僕の小さな謝罪に笑みを返し、彼女は続けた。
「怒ってませんよ。実は私、大学で言語学を専攻しているんです。授業の一環でイギリスのニュースキャスターや俳優達が話している様な発音を勉強していたら、伝染してしまいました」
茶目っ気たっぷりに言う彼女の言葉は美しかった。なるほど、だから彼女の母親は下町風のアクセントで話していたのか。
「そういうことです」
僕のくだらない質問をきっかけに、他愛も無い会話が続いた。
「じゃあ、降りましょうか」
テッサのカフェから電車に揺られ、僕たちはスローンスクエア駅に到着した。駅舎を出た瞬間、石造りの建物が広がった。ロンドンではどこにでもある様な建物だが、東の端の田舎に住む人間の目には光り輝いて見えた。面白いことに、工事中の建物を覆う防音シートに建物の絵が描かれてある。景観を損ねないためなのだろうか。確か、首里城や清水寺の工事の際にも同じ様なものを見た気がする。街全体が文化財みたいなものなのだろうか。
周りを見回し、上を見て下を見て、とにかく田舎者のごとく視線をあちらこちらに投げながら15分ほど歩くと、博物館が見えてきた。数時間前に行った大英博物館とは違い、現代的な佇まいだ。周りに石造りの家が多いだけに、かなり浮いて見える。
ロンドンにある多くの博物館と同じく、無料で観覧することができる。貧乏学生にとっては、ありがたい限りだ。どこかのお金持ちがたくさん寄付をしているのだろうか。ブルジョワジーだ。
その名の通り、この博物館は陸軍に関するものを主に展示している。マスケット銃から毒ガス兵器、果ては最新鋭の装備までおいてあるという。静かな住宅街の中で、壮大な時間旅行を体験することが出来る。期待に胸を膨らませ、少年だった時でさえ見せなかった輝きを放つ目で、中へ進んで行った。先に行く僕の背中を見るテッサは、どんな顔をしていたのだろうか。
期待した通り、僕にとっては夢の空間だった。映画やゲームで見た兵器の数々に、僕の心は狂喜乱舞していた。展示品をめぐるごとに、あれやこれやとテッサに語りかける。テッサはそれに呆れることなく、優しく相槌を打ってくれた。聞き上手な彼女は、僕の饒舌に絶え間無く石炭をくべていった。電車内で気の利いた会話さえ始められなかったのに、趣味のことになると止まらなくなる。母語でも英語でもそれは同じらしい。これがもう少し、普段のコミュニケーションに役立てば……
順路を進むに従って、展示されてある兵器や装備が近代化してくる。夢の時間旅行だ。そして、時間旅行の終点、現代兵器展示のそのまた向こうには、最近の紛争に派遣され命を落とした兵士達の追悼碑が立っていた。
追悼碑を前に、僕の顔から笑みは去っていった。目を輝かせて嬉々として見ていたものは、戦場に赴く兵士を守るものだ。だが、戦場で相対する敵の勢力も、同じ様なものを持っている。敵の命を守るものは、自分たちの命を奪い取るものだ。そしてそれは、相手にとっても同じこと。自らの命を守るために、他者の命を奪う。その行為が正しいか間違っているかはさておき、身を守る盾は、見方を変えれば人殺しの矛になる。それを見てきた後に、それによって命を落とした人達と対峙する。追悼碑に刻まれた名前から伸びる手に全身を抑えられたかの様に、僕の体はぴくりとも動かなかった。
「サトー、ここ、見てもらえますか?」
束縛する手を払いのけて僕の前に姿を見せたテッサは、追悼碑の一部を指差していた。
“Cliff A. Worsley”
「その人は?」
「私の父です」
テッサの言葉が、どくりと脈を動かした。
「私の父は、10年前に派遣された戦場で命を落としました」
「……」
「私も、サトーと同じ様に、死に目に会うことができませんでした」
同じではない。いや、家族を看取ることが出来なかった事実は同じだが、まるで状況が違う。彼女の父親は、国のため、正義のために尽くした、立派な死なんじゃないか。
「立派な死に方……」
笑顔の消えたテッサに、言葉を失った。
「戦場の駒になって、人をたくさん殺して、見知らぬ地で家族にも会えずに死んでいったのは、立派な死なんでしょうか」
彼の死に至る心情は、画面越しにしか戦場を見たことがない僕には、到底想像できるものではなかった。戦争とは程遠い田舎町の病院で、家族に囲まれて迎える死。戦場と化した見知らぬ地で、憎しみに加速された銃弾を受けて迎える孤独な死。最後に一体何を思い浮かべるのだろうか。当然結論は出せなかった。
「ごめんなさい、こんな話をしてしまって。ただ、サトーの話を聞いたら父を思い出して、ここに連れてきてしまったんです。本当にごめんなさい」
「いや、その、こちらこそごめん。そうとも知らずにはしゃいじゃって……」
「……そろそろ帰りましょうか。よかったらうちで夕飯を食べていってください」
ちょうど空腹が襲ってくる時間。テッサの顔には笑顔が戻ったが、僕は何も言葉を発することが出来なかった。彼女の真似をした様なぎこちない笑顔で頷くしかなかった。
ビッグベンの方へ向かう地下鉄の中。往路と同じ様に僕から話しかけることはできなかった。くだらない質問さえ出てこなかった。気まずい沈黙が続く中、僕はテッサの顔を見ることすら出来なかった。
「ただいまー」
結局、一言も交わさずにテッサのカフェまで戻ってきてしまった。
「おかえり。ご飯出来てるわよ。さ、サトーも食べていってよ。お代なんかいらないからさ」
数時間前と同じく、カウンターに頬杖を付いているテッサ母が迎えてくれた。
「ありがとうございます。夕飯もご馳走になるなんて……」
「いいのいいの! 外寒かったでしょ? 早く座りな」
暖かい好意に甘えることにした僕は昼間と同じ席についた。
「さ、食べましょ」
出されたのは、暖かいスープとローストビーフ。それにサラダやパンなど、個人的に典型的なヨーロッパの夕飯だった。食事の間、奇妙なことに博物館のことは話題に上がらなかった。カフェの客入りが悪い話、僕の地元の話、テッサの恋愛の話…… 戦争の話や父親の話は一切出なかった。
「お母さん、美味しかったです。ちょっとお手洗いに行ってきますね」
「あいよ」
テッサが奥の方へ行くのを目で追った後、テッサ母が僕にぐいと顔を近づけてきた。
「父親の話、聞いたかい?」
「あ、はい」
家族でいる時には話題にしない様にしているのだろうか。さっきよりもボリュームを下げた声で聞いてきた。僕の頭には、追悼碑に刻まれたテッサの父親の名前が浮かび上がった。
「夫が戦場で死んだって聞いた時、あの子、私以上に落ち込んでたわ。私も嫉妬しちゃうくらい夫のことが好きで、なんでも真似してたわ。紅茶の飲み方、歩き方、喋り方もね。まるで生き写しね」
生き写し。博物館へ向かう電車の中で、僕がテッサに話した中に出てきた言葉だ。
「不思議と、そういうところが似てくると、なぜか顔までそっくりに見えてくるのよね。最初は私に似てると思ってたのに」
彼女たちが言う様に、仕草が似ている僕も、父親の目には祖父そっくりに写ったのかもしれない。
「それで、あの子に夫の面影を重ねる私があんまりに悲しい顔をしてたのか、ある日突然、仕草もコックニーもやめちゃったのよ」
「あ、それで話し方が……」
言語学の授業のせいで話し方が変わったと言っていたのは、どうやら嘘だった様だ。あの時は嫌なことを聞いてしまったのかもしれない。
「あの……」
僕の声に両眉をくいと上げて話を聞く姿勢に入ったところで、テッサが戻ってきた。
「ただいま。なんの話してたんですか?」
「んー? サトーね、彼女いないんだってさ」
「あ、ちょ……!」
思わぬ軌道修正に飛び出した音は、日本語だったかもしれない。
「狙っちゃう?」
「からかわないでください! 私は勉強で忙しいので……」
「えー、結構暇そうにしてるじゃん」
「お母さん!」
その後も、明るい会話が続いた。
「じゃあ、ここで。今日はありがとう」
「はい。私も楽しかったです」
ロンドンで過ごす、濃厚な1日が終わろうとしていた。ウェストミンスター駅までテッサが見送りに来てくれた。
「明日からはどうするんですか?」
「そうだなあ。ベイカーストリートにでも行ってみようかなと」
「シャーロック・ホームズですね! 楽しんでください」
「ありがとう。じゃあ行くね」
改札の向こうで優しく手を振るテッサに笑顔で答え、僕は電車に乗り込んだ。
少し窮屈な車内で、今日の出来事を反芻していた。旅というのは、思いがけず色々な人や出来事に遭遇するものだ。そして、当然のことだが、生きている人にはそれぞれの物語があって、僕の存在が霞むくらい、重厚な人生を歩んでいる人もいる。そういう人たちを前に、僕はどう生きればいいのだろうか。
ロンドンの中心から遠ざかって行く電車の中、僕は答えも出ないことを考え、悶々としていた。
「あ、連絡先聞いとけばよかった……」
と後悔したのはホテルのシャワーを浴びた後だった。
倫敦傷心旅行記 @mamossan
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