テッサ

「あの……大丈夫ですか?」

 力強くも美しく透き通った声が、橋上の雑音をかき分けて耳に入ってきた。

 声の主は、癖の付いた栗色の髪を肩まで伸ばした十代後半くらいの少女だった。太めの赤縁眼鏡の奥に見える青い瞳は、僕の頭一つ分くらい下から、充血しきって真っ赤に染まった僕の目を見つめていた。

「どうして泣いてるんですか? 何か……嫌なことでもあったんですか?」

 彼女の話す英語には、ロンドン地域特有の下町訛りが感じられない。リスニングテストで聞くようなイギリスの標準英語だ。よっぽど厳しい学校に通っているのか。

「良かったらこれを……」

 彼女は肩から下げていた小さな鞄からハンカチを取り出し、僕に差し出した。かすかに震える彼女の手から、ハンカチを受け取ろうとした。

 しかし、僕の手は虚しく空振りし、そのままぐらりと地面に崩れ込んでしまった。足が忘れていた痛みを思い出したようだ。

「あ、だ、大丈夫ですか!?」

 ああ……大丈夫、の声は喉を震わせなかった。ただ情けない吐息だけが漏れ、僕は必死に頭を上下に振った。

 彼女は少し安心した様な笑顔を見せ、僕の手を取って起こしてくれた。ここにいるのも往来の邪魔だからと、橋を渡った先にある公園まで僕を連れて行ってくれた。


「何か飲み物を買ってきますね」

 そう言って数分後、彼女は洒落た紙コップを二つ持って戻ってきた。中身は暖かい紅茶だ。柑橘系の香りが、湯気と共に優しく鼻に入ってきた。ベルガモットで香り付けしてある、アールグレイだろうか。あまり紅茶に詳しい方ではないので、わかることはそれくらいだ。

 ありがとう。やはりこの声も出てこず、僕は思わずきつめの咳払いをしてしまう。それを見た彼女は何か察した様な顔をして、

「もしかして、英語話せませんか? じゃあ……Vouz parlez Français ?」

「あ、いや……あっ!」

 突然出てきたフランス語を咄嗟に否定しようとした途端、やっと言葉が帰ってきた。

「ごめん、話せるよ、英語」

「そう! よかったあ」

 彼女は安堵の笑みで紅茶をすすった。

 その光景と、手に伝わる柔らかい熱を感じた僕は、紅茶の存在を思い出し、一口含んだ。


「私、テッサって言います。あなたは?」

「あ……悟、です」

 思わず不器用な返事になってしまった。だが彼女は顔色を変えずに、よろしく、と微笑んだ。

「それにしても、サトル……サトルって言いにくいですね」

 どこが言いにくいのか、十数年間言い続けている僕にはわからないが、どうも彼女には難しいらしい。何度も空に向かって練習した後に解決策を見つけたようで、

「難しいから……サトーでも良いですか?」

「へ?」

 彼女はいたって真面目そうな顔をしていた。それじゃ苗字みたいじゃないか。しかし、

「まあ、呼びやすいならそれでも良いよ」

「ありがとう!」

 拒むなんて事は出来なかった。


 しばらくの沈黙。彼女はそれを破ることなく、時折紅茶をすすっては、きゅっと口角を上げ僕の隣に座っていた。

「テッサ……」

 先に再開したのは僕だった。紅茶に写る木々の葉を眺めながら、何気なく僕は彼女の名を繰り返した。

「はい、テッサです」

 視界の隅の方で彼女がこちらを向いて頷くのが見えた。

 日本より緯度の高い国。思ったほど寒くはなかったが、やはり二月は二月なりに寒い。引っかかる木の葉を失くした寒い風が、耳をつねるように吹き抜ける。

「……テッサって、美味しそうな名前だね」

「えっ?」

 思わず出たのは、そんな下らない話だった。

「フグっていう魚は知ってる? 風船みたいに膨らんで、毒を持っている魚」

「あ、知ってます! トゲがあったり、四角かったりする魚ですね!」

「そうそう。その刺身のことを僕の住んでる地方ではてっさっていうんだ」

「へえ……フグのサシミがテッサですか。面白いですね!」

 彼女の青い瞳は、微笑みに伴って輝きを増していった。

「あ、でも、私は風船みたいに膨らまないし、毒は持っていないので、安心してくださいね!」

 ふふん、と言わんばかりに口角の左側だけを上げ、自慢げに決めた。

 その姿と、くだらない感想を言った僕の両方になぜだか笑えてきて、思わず吹き出してしまった。

 それを見た彼女も、白い息を笑いと共に吐き出した。しばらく二人で笑い合った後、テッサはまた一口紅茶をすすって、また話しはじめた。

「よかった、笑ってくれて。あなた、さっき橋の上でまるで何もかも全て失ったみたいに泣いていましたから」

「ああ……恥ずかしいところを見せちゃったね。でもありがとう」

「いえいえ、放っとけなかったので。一体どうしたんですか?」

 優しく心配してくれる表情を見せる彼女に少し安堵し、事の顛末を話そうとしたが、どこからどう整理して良いのかわからず、上手く言葉を組み立てることが出来なかった。

 何度も頭の中で言葉を組み立てては崩していったが、結局出てこず、

 ぐう。

 と、胃袋の方が先に一言申し出た。

 あまりに滑稽な様子に、二人して吹き出してしまい、また笑い合った。

 お互い目に涙を溜めてお互いに笑いあった後には、紅茶はすっかりと冷めていた。

 橋の上で流したものとは正反対の、優しい涙をぬぐい、テッサの方へ顔をやった。彼女の方は紅茶を飲み終えたようだ。

「よかったら、うちへ来ませんか?」

 彼女は、飲み終えたコップを両手で掴み込んで聞いてきた。

「君の家に?」

「家族でカフェを経営してるんです。よかったらお昼食べに来ませんか?」

 

 ちょうど買い物の途中だったので、と言う彼女の買い物に付き合い、そのままテッサの家族が経営しているカフェへ着いて行った。


「お母さん、ただいま!」

 ビッグベンからそう遠くない住宅地の一角に、そのカフェはあった。彼女が勢い良く開けた扉の先に、客の姿はなかった。

「あらテッサ、お帰りなさい」

 カウンターに頬杖している女性が、どうやらテッサの母親の様だ。テッサと似た癖の付いた栗色の髪を頭の後ろでまとめている。眼鏡はなかった。

「ごめんなさい、遅れてしまって」

「良いのよ。無事に帰ってきてくれて良かったわ」

 母親はどことなく下町を感じさせる英語を話しているが、その母親に対しても、テッサの英語は先程と変わらない丁寧な表現だった。

 買い物袋をカウンターの上に置いたテッサの後ろにいる僕の存在に気付いたテッサ母は、いたずらな笑みを浮かべてテッサに声をかけた。

「Tessa, tu as eu un copain ?」

 フランス語だろうか、何を聞いたのかは分からないが、それを聞いた途端、テッサはあわてて反論を繰り出した。

「Non ! Il n'est pas mon copain, maman !」

 何かを否定した事は分かったが、やはり何の話をしたのかさっぱり。去年もう少し真面目にフランス語の授業を聞いておくんだった。

「この人はサトーです。ウェストミンスター橋で泣きじゃくってたところを助けて来ました。あ、あと買い物にも付き合ってくれました」

「そうなんだ。ありがと、サトー。今日はお客さんもいないから、ゆっくりしていって」

 少々引っかかる紹介に、スーパーのレジで身に着けた営業スマイルで返し、勧められるまま席に着いた。

 家族で経営しているとテッサは言っていたが、店には彼女の母親しか見えない。奥で作業でもしているのだろうか。


 紅茶と一緒に出されたサンドウィッチを二切れ程頬張ると、少し落ち着いた。

 ライ麦トーストにマスタードを程よく混ぜたマヨネーズを塗り、トマト、レタス、ベーコンを挟んだサンドウィッチと、トマトの代わりにゆで卵の輪切りを挟んだものの二つ。噂に聞いた通り、日本人には少しボソッとしたパンで、口の水分が一気に奪われるようだが、味は申し分ない。

 口腔内の水分補充のために紅茶を飲んでみる。さっきのベンチで飲んでいた紅茶とは違って、特にベルガモットのような香りづけはしていない分飲みやすく、それでいながら全く風味を感じないことはなく、優しく鼻に抜けていく。何ていう紅茶だろうか。あとで聞いておこう。


 ようやく胃袋も心も満たされたところで、僕はテッサに今までのことを話し始めた。


「そうですか、おじい様が癌で……」

 彼女は僕の話を遮ることなく、静かに相槌を打った後、マグカップをこと、と置いてそう一言。

「うん……」

 僕はというと、口角以外は全部下がった顔で、テーブルの上の水滴を見つめていた。


 祖父が入院したとの知らせを受けたとき、僕は風邪をひいていた。これがなかなかひどいもので、うつしてはいけないと入院先への見舞いは控えていた。

 体が病院に行けないということで、僕は祖父に電話をかけてみた。

『おお、悟か』

 電話越しに聞こえてきた声は、今まで聞いてきた通りの元気そうな声だった。ほっと安心したものの、何と声をかけていいのかわからず、結果出てきたのは、

『どう?』

 の一言。とても癌で入院している者にかける言葉じゃなかった。

 そんな下手くそな問いかけに祖父は、

『もうあかんでぇ』

 と、いつもの冗談を飛ばすような口調で返した。

 風邪が治ったら必ず見舞いに行くと約束して電話を切った翌々日、祖父はこの世を去った。

 沈黙の再会に僕は耐え切れなかった。薄情者の孫を許してくれと、何度も彼の頬をさすりながら謝ったが、何も返してはくれなかった。

 

「それは、辛いですよね……」

「うん……忘れようとしてたんだけど、戦争博物館が休館だったショックで、全部崩れちゃったんだ。おかしいよね……」

 うつむいたまま、時間は過ぎていく。そこに言葉はなく、ガラス扉の向こうから聞こえてくる車の音と、古そうな壁掛け時計の音が喫茶店に響いていた。テッサ母が何をしているのかはわからない。


「そうだ」

 テッサは軽く両手を叩き合わせ、身を乗り出し気味に話し始めた。

「戦争博物館が閉館だったんですよね?」

「うん」

 顔を上げて答える。テッサ母は娘とおそろいのマグで紅茶を飲んでいた。

「ミリタリーに興味があるなら、陸軍博物館に行ってみてはどうでしょう? 私も良く行くんですが、結構面白いですよ」

「へえ、そんなのがあるんだ。知らなかった」

「ええ、私は戦争博物館より好きです」

 案内しますよ。と言う彼女の好意に甘えることにし、残りの紅茶を飲み干した。


「お母さん、ちょっと陸軍博物館に行ってきます」

「気を付けるんだよ」

「はーい!」

 母親にも丁寧な物言いでテッサは喫茶店を出た。

「あの、サンドウィッチありがとうございました」

 後に続く僕が出る手前に礼をしようと振り返ると、テッサ母はどこか悲しげな眼をしてテッサを見つめていた気がした。すぐに僕の発言に気付いて、

「いえいえ、おいしかったでしょ?」

「はい、とっても!」

 一瞬はっとしたような顔をしたが、すぐ娘には無いいたずらな顔をして微笑みかけた。

「あ、そうだ。お金を……」

 と言いかけ、ポケットから財布を出そうとしたが、

「いいよ。買い出しのお礼さ」

「あ、ありがとうございます!」

 英語ではどうもテンポが合わなかったが、深くお辞儀をして店を後にした。


 ロンドン旅行一日目、陽はまだある。次の目的地は陸軍博物館。一体何が見れるのだろうか。

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