些細な失意
ようやく素敵な紅茶と紳士の国に到着したわけだが、玄関先から居間に入れてもらうまではそう簡単にはいかなかった。
入国審査に必要な書類に記入漏れがあったのはこちらのミスなので仕方ないが、あんなに質問を投げかけられたことは未だかつてなかった。
特に、金銭面での質問だ。いくら持って来たかくらいは聞かれるとは思ったが、その金の出処と、アルバイトの種類まで聞いて来た。三百ポンドほど現金で持って来たのが怪しまれたのか。カードを作る時間が無かったのだから仕方ない。僕は純粋無垢なスーパーのレジ担当だ。ちなみに審査官はジムのインストラクターをしていたらしい。
入国審査が終わって、待っていたのは手荷物検査。アムステルダムに降りた時にも受けたが、あちらの方が最新機器を導入していてさらに厳しかったと思う。SF的な機械が身体の周りをぐるりとスキャンして、何か隠し持っていないかチェックされた。今回は簡単な検査みたいだ。乗り継ぎの時に一度済ませたからだろうか。
ともあれ入国だ。無事全ての審査が終わり、今はベルトコンベアの前で荷物が運ばれて来るのを待っている。目立つようにと蛍光色の水色の旅行カバンに、趣味ではないが特大のステッカーを貼っておいた甲斐もあって、すぐに見つけることができた。できたのだが、旅行前に購入した新品にもかかわらず、もう塗装が剥げて黒い下地が見えている。乱暴に扱われたに違いない。割れるような物が入ってなくて良かった。
荷物を受け取れば、後は出口を目指すだけ。ゲートを過ぎると、今回依頼した旅行会社のスタッフが立っていた。すぐに駆け寄って名前を伝えると、ホテルの出発までしばらく待機するように言われた。どうやらあと一人がまだ来ないらしい。
ただ待っているのも退屈だ。先ほどから気になっている売店に行きたい。その旨をスタッフに告げ、期待を胸に売店へと向かった。人生で初めて、海外で買い物をする。異国の地に来ているのだから、これから何をするのも初めてだと思うと、胸躍るものがある。
購入したのはコーラと、チョコレートでコーティングしてあるウェハース。両方とも日本でも購入できるものだ。後から知った事だが、このウェハースの歴史は戦前まで遡るらしい。一方のコーラは、日本のものと比べて微妙に味が違った。どことなくレモンの香りがする。イギリスだけに、ベルガモットでも入れてるんだろうか。
最後の一人が到着したようだ。予定より少し遅れて出発する事になった。お詫びとしてか、スタッフから全員にペットボトル入りの水が配られた。明日の散策でありがたくいただこう。
ホテル行きのバスに乗り込んだのはスタッフと運転手を除いて四人。女子二人組みに好青年風の男、そして僕だ。女子二人組みは初めの方こそはしゃいでいたものの、揺れるバスの中ですぐに眠りこけてしまった。好青年風との気不味い空気。スタッフも特に話したりせず、沈黙のままバスは夜のロンドンを走り抜けていった。
ホテルのグレードはある程度選べたようで、良いホテルほど都心部に近い所に位置している。女子二人組みと好青年風は、割と多めに支払ったようだ。僕よりもずっと早くにバスを降りていった。好青年風が降りてから随分と時間が経ってから、ホテルの前に降ろされた。その後スタッフ付き添いのもとチェックインを済ませ、ようやく部屋へとたどり着いた。
明日の計画を立てよう。
近場にあった店で適当な食べ物と飲み物を買い、シャワーも済ませた。日本の空港でとっさに購入したロンドン旅行ガイドブックを片手に、大きめのサンドを頬張りながら計画を練った。
ロンドンといえば博物館。誰かがそう言ってた気がする。やはり目玉として、今までテレビや映画で散々見た大英博物館に行こう。戦争博物館なんていうのもある。中学生時代に痛々しい程軍事物にハマった余波は、未だに続いているみたいだ。
おそらく人生で一番楽しい夜を過ごしただろう。その後は時差ボケも気にせず幸せに眠りにつけた。二人部屋を一人で使っているので、片方のベッドは荷物置きになっている。こういうので迷惑を掛けないのも一人旅の醍醐味だろう。
ロンドンで迎えた最初の朝、枕元には空のペットボトルとガイドブックが雑に投げてあった。忙しく着替えを終えた後、申し訳程度のチップを枕元に置いて朝食を食べに向かった。
僕が泊まっているホテルはちょうど改装工事中らしく、朝食は隣の少し高いホテルの一室を借りている。ビュッフェスタイルの朝食で、さして面白いものもなく適当に皿に移して朝食を終えた。あの香りの強いウィンナーだけが気になるが、僕の頭は今日の観光でいっぱいだ。少しきつく匂うウィンナーなんて気にもならなかった。
ボクスホール駅。ホテルの最寄駅から……あまり数えたくないくらい駅を通り過ぎてようやく到着した。
ロンドンの地下鉄は都心部から郊外にかけて一から四エリアまで分けているらしい。僕の泊まっているホテルの最寄りは、三エリアに位置している。安く済ませている分仕方ない。自動運転の電車からジュビリー線、ビクトリア線と電車を乗り換えてたどり着いたこの駅から、僕の旅は始まった。
興奮と不安に満ち満ちた旅だ。この不安とは、スリに対する不安だ。ホテルが工事中とあって金庫が使えないため、日本円にして五万円ほどを持ち歩かないといけない。財布には最低限だけ入れて、残りは中敷の下や胸ポケットなどに分散して入れた。今思い返すと慎重すぎたかもしれない。
時刻は午前九時を少し過ぎたところ。辺りに人は少ない。しばらく歩いて見えてきたのは橋。と言ってもこの橋は至って普通だ。ロンドンを訪れたなら必見、という訳でもない。肝心なのは橋から見えるこの光景だ。
秘密情報部。イギリスの諜報機関の本部だ。本当に映画に出てくるようなスパイが働いているかは知らないが、一見する価値はある。中はもちろん見学出来ないので、早速撮影を……と思ったのだが、これは撮影して良い施設なのだろうか。映画ではヒーローの本拠地の様な扱いを受けているが、そもそもここにはイギリスの最重要機密がわんさか眠っているはずだ。それに、さっきから妙な視線を感じるので、さっさと移動することにした。
地下鉄を利用するにはもちろん切符がいるのだが、旅行者用に用意してくれたのか、一日乗り放題券なるものがある。少し値は張るが、これを購入すればその日一日地下鉄に乗ってどこだって行ける。持ち帰ると記念にもなるだろう。オイスターカードと呼ばれる、非接触型のICカードもあるみたいだが、申し込み方がよくわからないので早々に諦めた。
再び地下鉄に乗りホルボーン駅に到着した。ここから目指すのは、初日のメイン、大英博物館だ。一日では周りきれないほどの展示品数だと聞いた。少し早めに出てきて正解だったかもしれない。
ホルボーン駅を出ると、さっきとは全く違う景色を見ることができた。ボクスホール駅周辺は、やや近代化された建物が多かったが、ここにはいかにもヨーロッパという古めかしく、しかし美しい建物が並んでいる。
まるで映画のセットの中に迷い込んだかのように、行き交う人々、街並みに夢中になって歩を進めていった。
大英博物館だ。
テレビでよく見かける面がまえに、興奮を隠しきれないでいる。さあ、入ってみよう。
イギリスにある博物館には、入場料無料のものが多いと聞いた。しかし寄付はしっかりと受け付けている。一日では周りきれないほどの物を見せてくれるのだから、寄付をしていこう。入り口で館内図やオススメの展示品の載ったパンフレットまで売っている。入場料と思っても安いくらいなので、迷わず購入した。……入場してすぐのところに、同じような内容で半額のパンフレットを見つけて少し後悔したのはまた別の話だ。
この大英博物館には、様々な国の展示品が置いてある。一番人気はエジプトコーナーのようだ。早速、そちらに向かった。
エジプトコーナーでまず目に入ったのが、ロゼッタストーン。古代エジプトの神聖文字と民衆文字、そしてギリシア語が上から順に掘ってある石板だ。ヒエログリフ解読の鍵となった貴重なものらしい。土産物店には、ロゼッタストーンのマウスパッド、USBメモリ、文鎮まで売ってあるくらい人気の展示物だ。
エジプトコーナー入り口に展示されてあって、大勢の人が写真撮影に勤しんでいる。僕も周りに倣って撮影を始めた。カメラを持っていない手は、ポケットの中にある財布を汗が滲むくらいきつく握りしめている。どうもロゼッタストーンの周りにはスリが多いらしい。皆ロゼッタストーンを撮るのに夢中になって、注意が散漫になるからだとか。
果たしてこれだけの展示物をどうやって集めたのか。察しが付くような付かないような気もするが、とにかくすごい展示量だ。エジプトコーナーの後に日本コーナーその他を軽く周り、大英博物館を後にした。まだ周っていないところもあるが仕方ない。次の目的地が待っている。
大英博物館近くから今度はバスに乗り込んでテムズ川を超えた。バスを降りたところから少し歩いたところにあるのが、戦争博物館だ。大戦中に使用された戦闘機や戦車が展示されてあると思うと、居ても立っても居られない。競歩気味に博物館まで進んでいった。
歩を進めて十分ほどで、大きな建物が見えてきた。先ほどの大英博物館も大きかったが、負けず劣らずその存在感を醸し出している。元は精神病棟だったらしい。
とにかく中に入ってみよう。入り口の前には巨大な砲身が二門並べて置いてあった。博物館の防衛にしては大きすぎる。
……しかし、僕のこの、期待と興奮に輝いていた瞳は、一瞬で光を奪われた。
博物館は、六月まで休館だそうだ。
僕がここロンドンに滞在出来るのは、今日を入れてあと四日。四日目は朝早くに飛行機に乗らないといけない。四ヶ月後の再開館には、もう僕は日本で新学期を迎えている。
今まで順調に回っていた歯車が、急に空回りし始めた気分だ。予定なんてまた組めばいいじゃないか。いつもならそう明るく気分転換出来たはずだが、なぜだか今は出来なくなっている。
しばらく無心で歩いていたようだ。どの横断歩道を渡ったか、そもそも信号をちゃんと守っていたのか、何もわからないままさまよっていた。戦争博物館に背を向けて歩き出したことは覚えているが、それ以降のことはさっぱり。
無理な歩き方をしていたらしい。かかとと膝に痛みを覚えてようやく、我に返った。
その場に立ち止まると、自然とため息が漏れた。たった一つ博物館が見れなくなっただけ。たったそれだけの事で、どうしてこんなにも心を穿つかれないといけないのか。
ここはどこだろう。昨日の晩旅行スタッフにもらった水を一口含み、ようやく落ち着いて辺りを見渡した。視界の右側に見えてきたのは、巨大な観覧車、ロンドン・アイだった。
ロンドン・アイ。その威圧感さえ覚えるほど巨大な観覧車の存在を認めるや否や、僕は走り出した。
走っている間は、何もかも忘れていた。足の痛み、呼吸、祖父の死。ただ一つ、この先に見えてくるであろう景色に向かって、滅茶苦茶に足を動かしていた。
がむしゃらに走る自分以外の時は、止まっていた。人も車も、僕より先に行くものはなかった。音もなく時が止まった世界を、僕は永遠に走り続けていた。
時が再び動き出したあと、息は切れ、足の痛みは限界に達していた。たったあれだけの距離をどのくらいの速さで走ったのか、思わずうつむいて酸素を取り入れようとしていた。
やがて、息を整えた僕は、一つまた大きく息を吸いながら、顔を上げた。
目前には橋の上を歩く大勢の人。立ち止まる僕を人々は迷惑そうに抜かして歩いていた。人々の会話が、街の雑音が、うるさく耳に流れてくる。橋の両側からは、スカート姿の男性が演奏するバグパイプの音が絶え間なく聞こえてきた。
その橋、ウェストミンスター橋の伸びる先に見えたのは、飴色に輝く時計塔、ビッグベンだった。僕は、このビッグベンに吸い込まれるように走ってきた。
そしてまた、時が止まった気がした。いつの間にか往来は見えなくなり、さっきまで耳をつんざいていた雑音も消え去った。ビッグベンは僕を静かに見つめ、異国の地、ロンドンに立っていることを、行き過ぎなほど証明してくれた。ヒースロー、地下鉄、大英博物館でさえ出来なかった証明を。
祖父の葬儀を終えた後から浮いていた心が、ようやくここで地に着いた気がした。抜け殻の様な僕の体を操っていたのは、その殻から抜け出した僕自身だった。自分の身を離れ、見たくないもの、聞きたくないことから自分自身を遠ざけようとしていたのかもしれない。僕の心と体は、ようやくここで再開した。次に待っているのは、操られて避けていた現実に目を向けること。
街の雑音が再び聞こえ始めた頃、頬に一粒、二粒、雫が伝った。それが雨でないのは、時計塔の上に青空が広がっているのを見てすぐに気付いた。やがてその雫は勢いを増し、今まで溜めていた分を吐き出す勢いで流れ始めた。橋を歩く人々の怪訝な顔など気にせず、僕はその場に立ち尽くして声を抑えながら、しかし止まらない涙を流し続けていた。
「あの……」
人と車とバグパイプが交差した音の中から、強く、しかし透き通った声が聞こえてきた。
声が聞こえてきた先、正面の頭一つ分下には、癖の付いた長い栗色の髪を肩まで伸ばした少女がいた。
太めの赤縁眼鏡の奥に輝く青い瞳は、僕の充血しきった目をしっかりと見つめていた。
「大丈夫ですか?」
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