一番やりたかったこと

 ……このタイミングで、クベス、やらかす。


 壮大な音に、飛び回る黒い粒、蠅たちが一瞬飛び去り、すぐに集まった。


 それほどまで、蠅には魅力的な、だけどもそれ以外には耐えられないほど凶悪な悪臭が漂ってくる。


 しかもこれまでと比べてより濃厚で湿った感じ、いつまでの鼻に残るしつこさ、更にその悪臭の中にはただ臭いのではなく本能に訴えかける不快感、思わず両手で鼻を覆い、それでも防ぎきれずに俺はせき込む。


「貴様」


 ジグルベルの苦々しい声、それでも俺を盾にしたまま、構えを崩さなかった。


 それを前にクベスは、その曲がらないと見破られた右手を、ズボンの後ろに滑り込ませると、臭いの『本体』を取り出した。


「な!」


 ジグルベルの驚愕の声、不本意ながら俺も同意見だった。


 クベスの曲がらない指に引っ掛けたのか、張り付けたのか、その『本体』は掌に乗っていた。


 太くて立派な一本、その色合いや艶から健康だとわかる。その表面に沢山の蠅たちが集まれば、それはもう紛れもない『本体』だった。


 それを、捻り出し、素手で、引っ張り出して、振りかぶって、投げた。


 一切の躊躇も何もない滑らかな動き、軌道はまっすぐジグルベルの顔面目掛けてだった。


「ぬぉ!」


 悲鳴にも似た声を上げ、飛来する『本体』から身を守るために、右手に持っていた俺を掲げて突き出した。


 ……次出された俺にできることなんかほとんどなかった。


 ただ本能に従い、目をつぶり、両手で顔を庇うのがやっとだった。


 ベト。


 感じたのは胸と腹との中間あたり、衝撃よりも湿り気が先に来て、次に出したての温かさ、それから鼻にこってりコクのある悪臭が届いた。


「ヒィ!」


 悲鳴上げ、お腹を動かし『本体』を払おうともがくけど剥がれない。それどころかより一層しみ込む気がして、それが不快感を吹き飛ばして恐怖となった。


 それでやっと剥がれたと思ったら次に感じたのがスカートたっぷり膨らんだ前の方に当たり、転がり、落ちていく。


 完全に落ちたか? どれほどの被害か?


 顔を庇ってた両手を解いて足元を見ればちょうどスカートの淵より飛び落ちる『本体』と、それを潜るように滑り込むクベスの姿が見えた。


「貴様ぁ!」


 ジグルベルの絶叫、同時にクベスの頭めがけてサーベル振り下ろされる。


 ガギャン!


 響く金属音、一瞬の火花の後、迫るサーベルをクベスのナイフが外へと弾き反らしていた。


 その下で、ジグルベルの右足が軽く浮いた。


 そして膝を曲げ、踵を引いて、放ったのは変身直後にクベスを吹き飛ばした、そして母さんを殺した、あのつま先蹴りだった。


 ドン!


 衝撃、揺れる俺の体、そして放され、落ちて、床に当たった。


 思考より先に本能が、先に床に落ちているだろう『本体』より急いで離れる用体を暴れさせ、二人から距離をとって、それでようやく、音と衝撃の正体を知った。


「な、あ?」


 驚愕の声、信じられないという顔をしてるのは、ジグルベルの方だった。


 俺を手放し、サーベルを取りこぼし、大きく見開いた目で見下ろすのは自分の腹、臍がある辺り、そこに突き刺さる、クベスの右手、四本の指だった。


 「ひゃはっははははははははははっはははっひひひひはははっはははひひひひひひひひひいっははははははっは!!!」


 響きわたるクベスの馬鹿笑い、その振動で縦に四本、突き刺さった指が揺れ、傷口広げて血をにじませる。


「お前には多くを奪われた。アニキ、キャラバン、ブレンダの目、この復讐に費やした時間も情熱もだ。だが一つだけ、もらったもんがある。この右手だよ」


 見開いた両の目、狂気の眼差しで、ジグルベルを見上げ返す。


「貫手って知ってるか? どっかの格闘術で、真っすぐ伸ばした指で相手の肉を打ち抜く技だ。納めるには長い鍛錬が必要な上、そこまで鍛えると今度は器用さが失われる。習得にゃあ相当な覚悟が必要だが、俺にはその必要がなかった。お陰でな」


 ねっとりと、口の端を上げながら、嬉しそうに、そして馬鹿にした風に、語る。


「お前に踏みつぶされて、指が動かなくなって、だったらいいやと思い切りやれた。普通なら砂に突っ込んで鍛えるところを、俺はガラスでやった。瓶を樽に放り込んで、中身が砂になるまで突き入れんだ。痛いし血は出るし爪ははげるが、威力はこの通り、だ!」


 最後の一言に合わせて右半身退いて、ジグルベルの腹から指を引き抜く。


 途端に吹き出る血液、ジグルベルの大きな両手で押さえるも、勢いは半分も弱まらなかった。


 そんなジグルベルから一歩二歩三歩、跳び下がり、距離をとってから小首を傾げて、うつむくその顔を、クベスは覗き込む。


「で、散々見下してきたコボルト風情に、素手で、負ける気分ってのは、どんなだ?」


 馬鹿にした声、駆けられて、ジグルベルの表情が変わる。


 そして腹を押さえたまま、その大きな口を開くや、丸呑みにせんとの勢いでクベスに襲い掛かった。


 これに更に一歩引くクベス、同時に足元絨毯の上に残ってた『本体』を左足の指で掬い上げると、軽い感じで計上げた。


 ふわり、浮かぶように飛んだ『本体』はまるで元からそれが目的であったかのように、迫るジグルベルの口の中に納まった。


 !!!


 声なき悲鳴、吐き出し、ふらついて、腹の傷も忘れて両手で舌を何度もこすり、嗚咽し、涙を流し、尻もちついて座り込むと、ゲェと透明なゲロを吐き出すと……それきり動かなくなった。


 決着だった。


「んだよあっけねぇな」


 愚痴るクベスが、ふらりと前に出て、ジグルベルの死体を見下ろす。その体の湿った部分、口や目玉や傷口にはもう蠅が集まり出して、母さんの仇とは言え、あまりにもむごい姿だった。


 ……そして、見下ろすクベスにもまた蠅が集まる。


『本体』を出した尻、そこから漏れ出た分で染まるズボンと尻尾、掴みだして投げて血にも汚れた右手、蹴り飛ばした左足、何よりも未だに血の噴き出している腹の傷、その全てに蠅が集まっていた。


 それを追い払う素振りも見せずに、影のようにクベスは俺を見た。


 そして何かを言おうと口を開けるのと同時にドウと倒れた。


 やばい。


 慌てて立ち上がりクベスへ向かう。


 近寄ったら聞こえるクベスの荒い息、思っていたより多い出血の量、集る蠅を追い払いながら必死に思い出す。


 傷口、出血、抑えるには綺麗な布、だけどここにはない。


 クベスもジグルベルも俺のドレスも先ほどの攻防で『本体』に汚されている。


 それでも抑えるべきか? どこかに綺麗な布はないか?


 考えて、思い出したのはスカートの中、借りてて履けてなかったショーツだった。


 身に着けていたわけじゃないけれど生暖かく、だけど『本体』にも触れずに綺麗な布地、これだと取り出し傷口に押し付ける。


 けど小さすぎた。


 もっと大きな布、いやそれよりも移動させた方が?


 考える俺に、クベスが、絶え絶えの声をかけてくる。


「んだよ。パンツとか、他ねぇのかよ」


「ありませんよ!」


 思わず叫び返す。それからそのまま叫び続けた。


「誰か! 誰か助けて! 誰か!」


 みっともなく半狂乱、だけど他に手がなく、口の中に蠅が入るのも気にせずひたすら叫び続けた。


「誰か!」


「おい! 誰かいるのか!」


 返事が、返ってきた。

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