落ち
低音、煩いというほどではないけれど、無視できない程度に喧しい連続音、聞き覚えのあるそれは羽音だった。
ぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶ。
粒の一つがこちらに舞い飛び、俺の鼻先で旋回する。
黒地に黄色い縞模様、胴体は親指よりも大きく、凶悪に左右へ開く顎と、睨んでるようにしか見えない複眼、粒は蜂だった。
見たことのない種類、けど凶悪で恐ろしい見てくれの虫、それが、沢山、人形の中から湧き出て吹き出て広がって、さっきまでの小麦粉のように辺り一面を霧のように覆っていた。
その影に隠れた人形の中には大きな茶色い塊、蜂の巣だとわかった。
「フェアリースパロー」
蜂を挟んだ向こう、ボスが語り出す。
「肉食で強力な毒針を持つこの蜂は、妖精を餌にしたという逸話からこの名前が付いた。その逸話と、この見た目から凶暴だと思われがちだが、実際は臆病で慎重、戦うよりも逃げ出す習性がある。餌も死肉か、自身よりも弱い虫しか狙わない」
淀みなく語り続けるボス、俺たちよりも蜂に近い位置にいながらそこに恐怖は感じられない。それが、不気味だった。
「強みと言えばストレスに強いこと。だがそんな彼女らでも時に攻撃的にもなる。例えば長い船旅、不慣れな土地、長期間閉じ込められ、餌は腐りかけの魚ばかり、挙句に巣が壊され、目の前に人がいれば、それが例え原住民であろうと子供であろうと、汚らしいコボルト風情であろうとも、彼女らにとっては全てが敵なのだよ」
「あーーーーそういうことか。くせぇの虫かぁ」
それを前にして、クベスが声を上げる。
「それと煙草、お前らやたらとくせぇと思ったら、これ虫よけか。虫に限らず大体の生き物は煙草嫌いだからな。つーか好きなの人ぐらいだろ?」
その質問、ボスは応えなかったが、反応したのは俺にもわかった。
「んだよ図星かよ。じゃあ煙草でお前は安全、そこらで潰れてる部下も安全、俺らは危なくて、後は、安全な奴らが雇い主か」
「そこまでだ!」
蜂が広がるボスの大声、焦りといら立ち、クベスの発言が痛いと言ってるようなものだった。
「おしゃべりが過ぎたようだ。名残り惜しいが死んでもらおう」
言ってボス、人形の背中を叩くや、蜂がなお一層飛び出した。
蠢く蜂の群れ、それらすべてが一つの生き物のように、一面を覆う。
それら全てが凶器、全てが毒針、濃密な危険だった。
一つ一つは小さい相手なのに、その集団に、俺の足はすくんでいた。
……だが、クベスに恐れはなかった。
「訊きたいこともあったが、しゃあないか」
ため息にも似た一言、恐れのない態度、そしてごそりと、右手をコートのポケットに入れるや否や引き抜き、振りかぶって投げた。
残像は青、真っすぐな軌跡は蜂たちを突き抜けてまっすぐに、だけどもボスもすかさず反応、蜂の飛び出る人形を前に、盾にした。
ガチン!
人形に当たり、割れて飛び散ったのは青のガラス瓶、そして飛び散った中身は液体で、背後に隠れてたボスへも雫が飛んで腕に肩にかかったようだった。
「おのれ!」
慌てて拭うボス……だけどもその体に異常は見られす、毒では無い様子、落ち着きを取り戻して臭いを嗅いだ。
「……なんだ? ただの水か?」
「まさか。もっと高級品、らしいぜ」
クベスの答えに、真っ先に応えたのは蜂たちだった
中空を舞うその群れ、集団、その流れ、明らかに変化が見られた。
「あの糞執事、やたらとそいつを俺にかけたがってよぉ。それじゃあマーキングの意味がねぇってっても聞きゃしねぇんだ」
クベスが語る。
「だがまぁ、助かった。実は俺、煙草の匂いが嫌いでよぉ。それをきっちり消せるなら、消臭エーテルも悪かねぇな」
語るにつれて、ボスの顔色が青ざめていくのがわかった。
そして何かを叫ぶ前、大きく開いた口を蜂が舞い戻り、ほどなくして全身もまるごと飲まれた。
絶叫も暴れる音も何もかもが羽音に飲まれ、蜂に集られた人のシルエットが滑稽に踊っていた。
凄惨な光景、勧善懲悪、因果応報、逃れようと暴れる手足が他の人形を吹き飛ばし、飛ばされた先のまた別の人形が、列に並んだ周囲一帯を巻き込んで、派手に連鎖し倒れて砕けた。
そして、それらの中にも、蜂は沢山入っていた。
「あ、やべ」
呟き、クベスが一歩引く。
その見つめる先、追加された蜂が溢れて狂い、飛び回る。
「……なんとか、ならないんですか?」
「ならねぇ。逃げるしかねぇだろ」
言い放つや否や、クベスが駆けだす。
同時に急な動きに刺激されて追加の蜂たちが騒ぎ始めた。
身の危険、感じて駆けだせば、俺が一番最後だった。
先行く双子、もう出口の両開きの扉に左右それぞれ手をかけ開けようと踏ん張っていた。
「「ふんぬぅーーーー」」
それでも開いたのはわずかな隙間、そこへクベスが追いつき、指を指しこみ靴をねじ込み、全身全てで踏ん張り、扉を開けにかかる。
ぶぶぶぶぶぶうぶぶぶぶぶぶぶぶっぶ。
羽音ではない、こんな時にぶっ放した屁、それもたどり着いたばかりの俺の顔面に、やりやがった。
……鼻が捥げる。目が潰れる。喉が焼ける。
踏ん張っての暴発、思って許せても、耐えられるものではない。
鼻を抑え、涙を流し、吐き気をこらえ、踏ん張り転げまわりたいのを必死に耐える。でなければ、背後に迫る羽音に飲み込まれそうだった。
それで、軋む音をたてて扉は開いた。
隙間から素早く双子が飛び出す。
「先行け!」
叫ぶクベス、コート脱いで振り回し蜂を追い払おうとしてるが、逆に興奮させて活発にしてる風にしか見えない。甘んじて飛び出た。
外は青空、煙の臭いはほぼなくて、ただの日常だった。
そんな空の下、向こうで双子が立ち止まり、こちらを見ていた。
「止まるな走れ走れ!」
背後、クベス、コート投げ捨て、飛び出して、扉を掴むも閉じれてない。
「クッソがぁ! 歪んだ閉じれねぇ逃げろ逃げろ!」
悲壮感の混じったクベスの怒声、迫る蜂に苦し紛れか残る小麦粉を中へ投げ込み新たな白を、だけども無数の羽ばたきに霧散され、ただ一層、怒らせただけに終わった。
そして迫る羽音に、もはや振り返る余裕もない。
ただ一心、蜂から逃れるためだけに前を向いて走る走る。
それを感じて双子も俺の前で駆けだしていた。
足音、呼吸音、鼓動、どれもが背後の羽音に呑まれそうだった。
「あ」
そんな中にありながらはっきりと聞こえた小さい声、前から、多分マーシャさん、転んでいた。
それを立ち上らせようと肩を掴むダーシャさん、だけど挫いたのか痛めたのか、立てないで、あっという間に俺は追いついてしまった。
「立てますか?」
「無理、痛い」
泣き言、泣き声、涙ぐんで俺を見上げてくる。
思考、走る。
留まるのは無し、立たせる、抱きかかえて運ぶ、引きずる、ならクベスの力がいる、思い、探せば俺のすぐ後ろにいた。
「あーーっしゃ、入った! あ!」
一声、その左手の中指、指輪が光る。あのアーティファクト、火の玉が出るやつ、回収してたのをはめていた。
が、石は拳の外ではなく掌の内、ねじって戻そうとするもがっちりはまって動かないようだ。
「あああああああもういい! 魔力は流れてんだろ。やるぞ! 耳塞げ! しゃがんでろ! 巻き込まれても知らねぇぞ!」
言ってクベス、俺と二人を背に、倉庫へ向き直る。
つられて見たそこには、悍ましいほどの黒の雲、溢れ出る粒は全て蜂、一塊の影は一つの悪夢、捕まれば助からない絶望、その只中へ、クベスは掌を開いて向けた。
一呼吸後、赤い火の玉が現れ浮かぶ。
まぎれもない魔法だった。
「……どうやってこっから飛ばすんだ?」
「は?」
この期に及んで最悪なこと言ってるクベスに思わず声が出る。
だけどもクベスもふざけてるわけではないらしく、必死に降ったり力んだりしていた。
「「切るの!」」
ダーシャさんマーシャさん同時に叫ぶ。
「「魔力切って! そしたら飛び出るから!」」
言われて納得したのか、落ち着きを取り戻したクベスが改めて火の玉を蜂へと向けた。
「ぶっとべ!」
遅れての決め台詞、それでもちゃんと発射された。
投げた石ほどの速度で、赤い尾を引いて火の玉が向かうは蜂の群れのど真ん中、焼き払い貫通して抜けた先は倉庫の入り口、開きっぱなしとなった扉、その周辺でまだもやもやしてた小麦粉のもやの中だった。
粉塵爆発、思い出し、思わず身を強張らせたのと、爆発はほぼ同時だった。
先ず閃光、次に爆音、遅れて熱い爆風と焦げた臭い、そして硬い壁に思えたのは地面だった。いつの間にか倒れていた俺の体は遅れてあちこち痛みだす。
これが、俺の人生初の大爆発だった。
「……すっげ」
熱も臭いも消え去って、羽音もなくなってから聞こえた一言、起き上がって見ればクベスは火の玉を発射した姿勢のままでいた。
正面には黒い点々、舞い散るものに飛び散るもの、恐らく全部が黒焦げとなった蜂たちだろう。
その向こうでは倉庫が、轟々と灰色の煙を吐き出し続けていた。
粉塵爆発、中にも爆風は届いたらしく、蜂の追加はない。ボスを初めモルタルネズミたちが無事化は怪しいけれど、今ははとにかく、蜂の脅威が去ったことにほっとしていた。
「終わり、ましたね」
半分自分に言い聞かせるつもりでつぶやく。
「とんだとばっちりだ」
言ってクベス、大きく欠伸する。
「ったーくよ、まだモルタルネズミやんなきゃいけねぇのによ」
……想定外の一言、わかってなかったクベスの顔を、思わず覗き込む。
「んだよ」
「いえ、彼らがモルタルネズミ、ですよね?」
確認、わかってなかったクベス、だけどクベスもまた驚きの顔で俺を見返してきた。
「馬鹿言え。あいつらは、少なくとも俺やお前の仇はいなかった。全員この手と足で叩きのめしたんだ。間違いねぇ」
驚きの一言、思わず目を見開く。
「それは、間違いないですか?」
「間違いねぇよ。そもそもやつは…………」
言葉の続きを待つ俺の目の前で、クベスはゆっくりと傾いていって、そして崩れ落ちるように倒れた。
「……え?」
いきなりのこと、反射的にかがんで手を伸ばし、その肩に触れると、クベスは、母さんのように冷たくなっていた。
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