白小麦粉の戦い
濃密な白、濃霧のような小麦粉は、目立つはずのクベスの黒いコートを覆い隠していた。
中で動くは影か実体か、初めに飛び出したのは左の拳、殴り飛ばした手斧と指輪の男だった。
完全な不意打ち、防御も覚悟もできなかったであろう男は、顎を砕かれ、涎と歯とを吐き出しながら吹っ飛んで、どさりと倒れた。
そして動かなくなる前にはもう、クベスの姿はいなくなっていた。
ギリギリまで隠れ、襲う時は一瞬、そしてまたすぐに消え去る。まるで海中に潜むウツボのような攻撃だった。
「指輪は使うな。だが生かして返すな」
小麦の中に静かに響くボスの声、その一言だけで、男らから迷いが消えた。
あるものは指輪を外し、あるものは武器を持ち替えて、近場の男ら同士で背を合わせ、死角を潰す。途端にこの場の殺意と集中力が研ぎ澄まされていくのが肌で感じられた。
「いっ!」
中で響く短い悲鳴、見れば背を壁に付けていた男、左手で押さえる右肩には、いつかの串焼きの串が深々と突き刺さっていた。
「「ぐへぇ!」」
更なる悲鳴は二つ同時、見れば背中合わせだった二人、その一人正面から跳び蹴りかまし、重ねてまとめて吹き飛ばしてるところだった。
「この!」
倒された二人に急いで助けに入る剣の男、だけども一歩踏み出した足がつるりと滑り後ろへ流れてつんのめり、受け身も取れずに顎から転んで落ちた。
一瞬遅れてポタリと落ちたのは、黒く変色したバナナの皮だった。
「んだよ数だけか?」
嘲りの声、同時にクベスは腕を振るってコートをはためかせ、新たな小麦粉を風に載せて振り撒き、付けたした。そして新たな霧の中へ、滑り込み、またも姿を消す。
完全にクベスの独壇場だった。
小麦粉で身を隠し、一撃離脱や飛び道具で相手を翻弄し、おちょくりながらも確実に相手の数を減らしてゆく様は、男の子ならば誰でも、悔しいけれど胸踊る光景だった。
クベス、強かったんだ。
見直すと同時に見ほれてしまう俺の前に、それを邪魔する影が二つ、かかった。
「「騒がないで」」
二人、双子、ダーシャさんとマーシャさん、涙をぬぐい終わった顔は今まで見せたことがないほどに、真剣だった。
「今のうち、逃げましょう」
「彼に気を惹かれてるうちに、表に出るの」
「私たちは邪魔になっちゃう。だから逃げるの」
「ワサビも来てるはず、来てなかったら誰か、助けを呼ぶの」
手早く、マーシャさんが俺の口から布を引っ張り出し、ダーシャさんがガラスの欠片で俺を縛る紐を切って自由をくれた。
「「さぁ!」」
言われて、だけど俺の動きは鈍かった。
さっきのマーシャさんとボスとの会話、島の人たちへの言葉、あんな汚いあいつらと、思い出される一言に、俺の動きへ迷いを産んだ。
それが、致命的な遅れとなった。
「「あ」」
声、二人、同時に見たのは、俺の股の間の湿り気、連想するのは一つで、事実これは尿だった。
「ごめんなさいその」
「大丈夫、普通のことだから」
「それに誰にも言わない、言わないわよねダーシャ?」
「もちろんよマーシャ、これはあたしたちだけの秘密よ」
完全な誤解、この期に及んでどうでもいいことだけど、だけど誤解されたことは事実で、混乱は更に俺の動きを鈍らせた。
「だよなやっぱ、双子のくせに似てねぇもんなぁ」
薄い驚きの声、俺と双子の前に立ちふさがった男に見覚えがあった。忘れるわけない、心に何度も刻んだその笑顔、こいつは、母さんのお店に火を放ったやつだった。
「危ねぇ。危うく間違えて虫の餌になるとこだった。が、これでそろってラッキーだ。こい!」
怒鳴りつけ、怯んだダーシャさんとマーシャさんのそれぞれ右手と左手を掴み、力任せに吊り上げる。
「いっ!」
「ひゃ!」
苦痛に歪む二人の顔、それを目にして、俺に迷いなんかなかった。
「やめろ!」
怒鳴り、叫び、立ち上がり、その勢いで男へ体当たり、が、届く遥か手前で、男の雑に伸ばした前蹴りに吹き飛ばされた。
衝撃、激突、俺の意識は一瞬飛んで、次には床に転がってた。
目をぱちくりさせ、それで現実を思い出し、まだ立てると気が付いて手を突いたところに追加の蹴りが腹にめり込んだ。
「原住民が、しょんべんくせぇんだよ!」
怒声、その次に放たれた蹴りは踏みつけるもの、倒れたままの俺の右肩に激痛が走り、立ち上がることもできない。
「そも! そも! おま! えが! もら! さな! きゃ! あん! にゃろは! こな! か! ったんだ!」
言葉を切るのに合わせて何度も何度も男は俺を踏みつけてきやがる。
肩、わき腹、足、蹴られ続け、なのに痛み、衝撃、恐怖、不思議と感じなかった。
ただ本能一つが、俺の体を強張らせ、丸まわせて、防御の姿勢を取らせ続ける。みっともないほどにやられっぱなしだった。
……このままではまずい、意味がない。わかっていても体が動かなかった。
「「やめて!」」
頭を抱える腕と腕の隙間から、俺が見えたのは双子の勇気、同時に捕まれた腕を引っ張り、俺を踏みつけようと片足上げてた男のバランスを崩した。
その隙が全てと俺の本能が吠えた。
ガバリと立ち上がり、ただ全身の全てを、上げてた男の足へとぶつけて押し上げた。
「うぉ!」
一鳴き、同時に踏ん張ってた足がガラスで滑って、双子を巻き込み背中から、俺を踏んでた男は派手に転んだ。
好機、逃がさない。
倒した衝撃をままに、男の体の上を這い抜け、胸の上、のしかかり座り込む。
「この!」
双子を振り飛ばし、手を突き立ち上がろうとする男、抑えるには俺の体は軽すぎた。それでも抑えるため、捉えるため、逃がさないため、視線を走らせ見つけたのはガラス片、手を伸ばし、捕まえ男の喉元へ、付きつけた。
それで、ピタリと男は止まった。
口は半開き荒い息、目線だけが俺の顔とガラスを行き来する男の表情は、笑顔ではないが泣き顔でもなく、様子を伺う顔だった。
こいつが、お店に火を点けた。
それだけじゃない。こいつらが母さんを、あんな目に合わせた。
こいつは、仇だ。
今なら、やれる。殺せる。
だったら殺すべきだ。
溢れる怒りも、初めて体感する憎しみも、このガラス一つ、流れ出る血液が、幾分かを洗い流してくれる。瞬間的な怒りがこれまでの憎しみを呼び起こす。
これが待ちに待った母さんの敵討ちの、一口目だった。
だから……なのに……どうして……震える指、進まない切っ先、これが限界だった。
俺は、殺せるのに殺せなかった。
ただガラスを突き付けてるだけの時間、一瞬だったのか永遠だったのかわからないけど、男に気取られるには十分な時間だったらしい。
寝た状態から放たれた男の拳、当たったのは俺の肩で、痛みもないけれど、乗っていた体をどかすだけの威力はあった。
再び床に倒れ、ガラスで手を切り、痛みから思わず手放してしまった俺の横で、男が身を起こし、立ち上がろうとしていた。
次、立たせたらもう隙は見せないだろう。
最後で最初だったチャンスを失い、頭の中が真っ白となった。
それを、踏みつぶしたのはクベスの足だった。
ぐしゃり。
嫌な音、勢いよく叩きつけられた足、その踵がめり込んだのは起き上がろうと男のついた右の手の指の四本だった。
「あがああああああ!!!」
寝転がり、悲鳴をあげて手を押さえ、転がりまわる男のその顔面顎先を、クベスの二発目の蹴りが弾き飛ばした。
途端、ガクリと動かなくなった男、その顎は砕かれ、だらしなく開いた口から下が飛び出て、だけどわずかに息をしているようだった。
「何やってんだよお前は」
俺を見下ろし、言い放つクベスは、真っ白だった。
灰色の毛が汗で湿って、それに小麦粉が付いて、ムニエル作る前の魚に粉叩いた状態だった。後は焼くだけだけど、美味くはないだろう。
そんな調理前のクベスは、今しがた蹴り潰した男へ手を伸ばしすと、折れた指から指輪を引き抜きぬく。
「見てたぞ」
俺を見もせず、クベスは言う。
「せっかくのチャンス、逃しやがて。目玉が無理なら口の中突っ込んでやりゃいいだろが。それで頬を引っ張れば、大概の雑魚は大人しくなる。何よりすぐ死なないからたっぷり楽しめるし、賞金も出る。頭使え」
引き抜いた指輪をまじまじ見てから、改めて俺をまっすぐに見下ろした。
「やっぱ、お前はこの道に向いてねぇよ。敵討ち忘れて家で縫いものの勉強でもしてろ」
怒ってるのでもなく馬鹿にしてるのでもなく、普通に言う感じ、だからこそ、それが紛れもない真実だと思った。
「……だが、その尿の機転、そいつだけは褒めてやるよ」
だからこそ、これも真実だと思った。
……漏らしたのがワザとで、クベスの追跡をやりやすくするため、と俺の口から言っても下手な言い訳にしかならないとあきらめてたけど、ちょっとだけ救われた気がした。
「すごい」
「すごいわ」
「全員かしら」
「全員でしてよ」
俺らの会話とは別に、双子が話してる。腕を引っ張られた痛みは大したことないのか、平気そうだった。
そんな二人が、並んで見つめる先は、小麦粉の晴れた戦いの後、立っているのは、俺たちと人形だけ、残りは全員、倒れて動かなかった。
……誰も死んではいないようだけど、もれなく出血してるか手足が折れ曲がってるか、無事なのは一人もいないと断言で来た。
これを、一人で、あっという間に、倒してのけた。信じられない光景だった。
「これで、終わりと思っているのかね」
声、ボス、一人、まだ無事で、人形の間でこちらを睨んでいた。
「部下は全滅、隠れ家は露見、計画に大きな支障、挙句に依頼された双子のお嬢様方は、助けられなかった。実に残念だよ」
言ってズボンのポケットからボスが取り出したのは、片手斧だった。
「お見せしよう。これが今回の陰謀だ!」
一声、同時に斧を振り上げるや、よりにもよって母さんのドレスを着た人形へ、振り下ろした。
バガン、砕ける音、人形の木目の顔が砕け、遅れてズルリと赤毛のカツラが滑り落ちた。
…………そして割れた中から黒の粒が溢れ出た。
ぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶ。
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