第1話 第二の生 6
さて、その脱走したという一人の兵士であるが、あともう少しで村の入り口だというところで、木々の間から犬の鳴き声を聞いた。
女王の命と国の衛生保全を兼ねているとは言いながらも、都からの長旅の末、誰もが催眠的な馬の蹄にあくびを噛み殺していた時分、彼だけが針を落とすような微かな声を聞いたのだった。地獄耳と言わずしてなんと言う。
この兵士、一行の長が思ったほどの腰抜けではなく、むしろずば抜けた聴覚と意思の強さを兼ね備えた傑物であったのだ。
彼を一人森の方角へ走らせたのは、決してこれから巻き起こる残虐な殺戮行為への怯えなどではなく、ひとえに使命感、それも国と国民の安全を願っての並大抵ならぬ使命感であった。
男の腰の剣は、日に焼けた黒い顔に光る対の眼球と同じく鋭い輝きを放ち、その切れ味といえば風を裂き、流水を断つほどのもの。人が十年かけて体得する流儀を半分の年月で習得し、それでいて謙虚さを忘れず、おごり高ぶることはないという高潔な精神の持ち主。まこと兵士の鑑と呼ぶべき人物で、同じ位の仲間からも、上の位の者からも一目置かれる存在であった。
疲労によって士気の下がっていた他の兵士たちを巻き込むわけにもいかず、そう、兵隊長がいるのだからこやつらはいざとなれば本領を発揮しよう、彼は隊列を離れ、一人馬を走らせた。たった一匹、されど一匹。油断してはならぬ、一匹の犬を放任することが村の壊滅へと繋がるのだ。
思えば最愛の妻が亡くなってはや三年。立派な墓を立ててやる金もなく、いまだ家の仏間に置かれたままのちっぽけな骨壺に収まった骨に毎日手を合わせ、彼女の肉体を蝕んだ病を根絶してやると誓いをあらたにする日々。商人などになりすましおった金に目のくらんだ役人の下端こそ、この国を破滅に追いやる売国奴に他ならぬ。
地下の拷問部屋で泣きわめきながら震えるあの醜い脂肪の塊。思えばあの時、犬の殺処分の任を受けた時と比べて、あいつがどれほど肥え太ったものか。それに気が付いていれば、多くの命を救えたかもしれない。
クソブタが! 背任などに手を染めよって、そのくせ事が露になると赤子のように泣き叫び、血の涎を垂らして命乞いをする始末。お前が罪のない人々を殺したも同然だ。彼らにも愛する者がいたのだ。 体が腐っていく家族を前に、自分の非力さに震える虚しさをお前は知らないのだ。妻がどうやって死んでいったか、最期に何を言ったか、全て聞かせてからその息の根を止めてやる。
何度振り下ろされてもまた持ち上がる彼の怒りの拳を仲間が止めたのは、これ以上放っておくと、背任者が死ぬかもしれぬと恐れたからだ。
「止めるな、殴らせろ!どうせ殺すんだろ!」獣さながらに目を剥いて、彼は自分に絡み付く腕を振りほどこうとした。
その黒く長い髪、小さな手足、黒真珠のような大きな瞳。一瞬で心奪われた。一目惚れだった。出会った日を忘れたことはない、思い出さない日はない。君は誰よりも美しかった。
裏路地の賭博場で君は粗野な酔漢どもに酌をしては、気安く体に触れる穢れた手と、酒臭い口から漏れる淫猥な言葉に身を固くしていた。まさか、好色の涎を滴らせて尻をさする男の前で、怒ったり泣いたり怯えたりできるはずもなく、と言うのも向こうは賭博場に大量の金を落とす客なのだから、ただ精一杯の微笑みを張り付けて受け流すだけ。
だから目が合った時、全てがわかった。君は逃げ出したいんだって。それなら俺が連れ出してやる。
血に濡れて腫れた拳と顔面を、君は丁寧に拭いてくれた。その顔に見とれていると、君は照れて頬を染め、この世のものとは思えぬ天女のようなはにかみ笑いに、酔漢どもにやられた傷も疼くのをやめた。
これまで感じたことのない衝動が胸の内側で俺を突き動かした。重なる唇、腕のまさぐり。
月に一度、商売女を抱いていた。街の裏通りで病気持ちかもしれない女を、どうせ死ぬ身と割りきって買っていた。そんな自分を呪い殺したくなるほど、君は純粋で光り輝いて見えた。
二人が一つになることにこれほど意味を見出だしたことはなかった。君は悦びに喘ぎ、脂のようにねっとりとした熱い吐息を吐きかけ、何度も体を痙攣させた。二人が出会ったことを祝福するように何度も君の中で果てた。
そうやって君は妻になった。
犬が全てを奪った。
どこぞの汚い犬がねばついた黄色い牙で妻の手を噛み、それ以来彼女は変わってしまった。真夏だというのにがくがくと震えだし、血の気が引いたように顔を蒼白にさせ、始終うわごとをつぶやくようになった。奇声を発し、手足をばたつかせたかと思うと、急に体をのけぞらせて泡を吹いた。
魔物が取り憑いたのだ。
便宜で疫病などと呼んではいるが、あれは憑き物に違いない。何か悪しき力が犬どもを媒介にして妻の体を乗っ取ったに違いない。
しまいに妻は白目を剥き、自傷するようになっていった。
家に帰ると妻の顔は傷だらけだった。皮膚の下をうごめく虫をえぐるように、のたうち回って体中を掻きむしったようだ。伸びた爪の間に皮膚が挟まり、ああ、新しい命に膨れていた腹を力いっぱい何度も叩き付けていた。産道からは血が漏れ出し、衣服を黒く染めていた。どす黒い血だまりの中に小さな命が、小さな、まだ母親の胎内に収まっているべき小さな命が、ゴミのように転がっていた。
泣きながら抱きしめた俺に君は言ったんだ。
「もう死にたい……」
あの感触を忘れるわけにはいかない。妻の首を絞め上げた手の平の感触を。彼女の体から最後に伝わった温もりを。
また同じ悲劇を繰り返すわけにはいかない。
はっきりと鳴き声が聞こえる、それと少女の声も。犬は近いぞ!
日はまた昇りぬ 赤木衛一 @hiroakikondo
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