第1話 第二の生 4
ここまで読んでいただいた諸兄の中には、文句を言う者もおられるだろう。俺はお師匠様の話を聞きたいんだ、お前の話なんか知ったこっちゃない、と。しかし、一人の人間を理解するには、その奥に静かに横たわる世界全体飲み込まねばならぬのだ。酒樽の上澄みだけをよそって、それで満足している人間は所詮その程度の人間に過ぎない。樽の底に沈殿した豊穣な酵母の風味を知らずして、本当の意味で酔えるわけがないではないか。そして私はあのお方との邂逅、長きに渡る旅によって我が心に鮮烈に焼き付いた記憶や感動を、諸兄と共有したいのだ。大きな爆発にはしばしば長い導火線が必要となる。世界がお師匠様を必要とした理由、そしてそれに立ち向かったあのお方の神々しいまでに立派なお姿が、必ずしや諸兄の眼前にも浮かび上がることだろう。
では物語に戻ろう。
祖母は別に犬たちを憎んでいたわけではない。彼女をして犬に毒づかせたものは、素性の知れない商人と、他でもない怪しげな男の口車にまんまとのせられた祖父をはじめとする村人たちだった。
犬が来て以来、村人は一人として闘犬での村おこしを信じて疑わず、いまや致命的なまでに膨れ上がった欲望は熱病のように村人を呆けさせた。かつて東方の穀倉地帯として名を馳せた土地はやせ細り、先祖が命を賭して完成させた広大な灌漑設備は縮小していく一方だった。
「いつになっても闘犬の知らせなんてないびゃないか!」と祖母は苦言を吐いた。
「今は耐え忍ぶ時だよ、お前」と楽天主義の祖父は返した。「それに今開催されても勝ちっこないさ」
「この先だってどうだか」という祖母の予測は間違っていなかっただろう。
目先の欲は村人の感覚を鈍らせていた。苛立ちを紛らせようとする祖母の包丁は、日に日に激しさを増していった。
幼い母は堕落していく村をどのように見ていたのだろう。祖母と同じように苛立っていたのか、あるいは祖父の楽天家の血を受け継いで、じゃれる子犬を見て笑っていたのか。
祖母が言うには母には不思議な力が備わっており、当時、まだ村が犬で溢れかえっていた頃、いつも犬と話していたそうだ。
そう、私がネズミと話せるように、母は犬と話すことができた。
「泥だらけね」母はこと一匹の犬と仲が良かったという。「おいで、わんちゃん、体を洗ってあげる」
その犬は祖父母の家の子犬たちの中でも一番小柄な犬で、立派な戦士を育てようとする祖父の鑑識眼には残念ながらかなわなかったものだった。他の犬が順調に体躯を築く一方で、その犬は生まれた時とほとんど変わらぬ寸法。兄姉の中にもまことに犬的な階級が確立されるようで、体の小ささがそのまま個体の非力さを表す犬の世界では、その雌犬は最下層に属していたようだ。
生まれつき骨格に異常があり、左側の後ろ脚を引きずるように歩いていたが、もしかすると、兄姉喧嘩の際に痛めたのかもしれない。びっこを引く脚を恥じているのか、いつも人目を気にしているように頭を落としてこそこそ歩くものだから、村人は「ヘタレ」と呼んでいた。
そういうわけで祖父からも兄姉たちからも爪弾きにされたヘタレは闘犬として訓練されることはなく、彼らが外で走り回り、鶏やタヌキを襲って千世代前の先祖が備えていた戦闘本能を思い出している頃、幼い母と共に呑気に村を駆け回っていた。
「お母さん、この子も戦いたいんだって」と鬼のように包丁を振り上げて野菜を刻んでいた祖母に娘は言った。野菜の上げる断末魔の悲鳴と鉄がまな板に叩きつけられる音にヘタレは驚き、体を震わせた。
「あんな馬鹿どものことはほっときなさい」と祖母は二発目を振りかぶる。「闘犬なんて血生臭いことより、そのイヌコロには田んぼの耕し方か、キジの捕らえ方を学んでもらいたいもんだね!」
再び響いた鉄が野菜をぶった切る音に、犬は思わずきゃんと情けない声を上げた。
「それ見ろ、こんな音で縮こまって震えてるじゃないか、闘犬には向かないよ!」
しかし、それでも戦い方を教えてくれと懇願しながら袖を噛む犬に、遂に母は折れた。
祖父がいつも通り、朝早くに三匹の犬を連れて特訓へ向かうのを見届けると、母はおもむろに立ち上がった。
「私がこの子を一人前の戦士にするの」と畑に向かう準備をしていた祖母に告げると、度肝を抜かして絶句する彼女の言葉を待たずに二人は外へ駆け出した。
いったい一人の少女にどうやって闘犬を育てられるものか。二人の間には種族を越えた絆があったとはいえ、母は闘犬のなんたるかを知らない。母と落ちこぼれ犬の特訓は昼夜を問わず行われたが、それは所詮ままごとに過ぎなかった。ぴょんぴょんと跳ね回るバッタを追いかけたり、墓場の土を掘り返したり、母が投げつけた木の棒をよけたり。ああ、はたで見る分には愛くるしい少女と犬の戯れであるが、それは人間と動物の心温まる愛情以上の何物でもなく、まして闘犬という血生臭い野生本能を剥き出すための訓練などではなかった。
しかし、変化は唐突に訪れる。
そう、変化というものは、どのような時にも当人の覚悟が固まるのを待ってはくれない。予告もなしに襲いかかり、一つの終焉を暴力的に打ち据える。ちょうど悪魔どもが私からお師匠様を奪った時のように。そして変化を迎えた人間は混乱のうちに新しい環境に従属することを余儀なくされるのだ。
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