第1話 第二の生 2

「本当にいけ好かないクソアマだよ!」と祖母は繰り返した。かろうじて残った奥歯の間に猪肉が挟まった時、くしゃみと同時に飛び出た鼻汁が洗ったばかりの皿を汚した時、小便を衣服に引っかけてしまった時、かつて闘犬として育てられた老いぼれの飼い犬が血に飢えた若い頃を思い出して鶏を惨殺した時、とにかく事あるごとに祖母は呪詛のようにつぶやくのだった。

「何もかもあのクソアマのせいよ! 高慢ちきの憎たらしい魔女め!」

 祖母が死んだ女王を罵る度に、幼い私はまるで自分が咎められているかのように体を硬直させたものである。なにせ彼女の怒りは破壊を伴わないことがなかったのだ。クソアマと言う度に皿が弾け、机の脚は折れた。竹箒でろうそくを倒し、すんでのところで家を燃やしかけたこともあった。一度など、何年も死の床に伏せて寝たきりの祖父の腕を力いっぱい踏みつけ、柔らかい骨が砕ける嫌な音を響かせたこともあった。

「あんたがあの時、あのクソアマの手先どもを殺していてくれてたらねえ!」

 虫の息でうめく祖父にはあんまりな言葉だ。


 それはまだ母が幼い時分のこと。村に一人の商人が現れた。団子のように丸々と肥えており、緑色の奇妙な服を着ていたという。

 闘鶏場を見つけるのは簡単だった。真夏の夜の熱気に蒸された生臭い血のにおいをたどれば良いのだ。何もない田舎の村では闘鶏だけが、人間の動物的本能を満たす娯楽だった。

 咆哮をあげて村の男が軍鶏の血に濡れた羽毛に口付けするのを、商人は手を叩いて祝福した。その顔にはクズ同然の代物で大量の金を手に入れる者特有の、胡散臭いが妙に人懐っこい笑みが貼り付いている。

「なんと見事な!」見慣れぬ商人の突然の介入に村人はきょとんとした様子。「血が騒ぎ肉が躍る死闘!」

「こちとら、欲しいもんなんてねぇぜ」と死んだ鶏を抱えた村人が言った。かわいそうに、鶏の体は鋭いくちばしでえぐられて、大きな穴が開いている。

「まあ、そうおっしゃらずに」と商人は敵意を隠そうともしない疑り深い田舎人を甲高い声で制した。血が頭に昇りきった村人も、その耳障りな声で喋られると口を開く気力も削がれてしまった。

「いくら勝ちました?」と商人は勝者に視線を向ける。男の腕の中で、鶏冠を揺すらせて鶏が短く鳴いた。

「お前の母ちゃんを二晩も買えるほどよ」男も女も一斉に笑ったのだが、おかしなことに商人までもが引きつったような笑いをあげ、実際、気の狂ったような彼の笑いといったら、村人が気圧されて押し黙った後もまだ続く。ようやくやんだかと思うと、結核患者のような咳き込み、嗚咽、咳払い。

「つまり、しけた金額ということですね」闘鶏に勝った男が殴りかかろうとしたのを制したのは、まだ若い祖父だった。「ひとつ金儲けの話が」と商人は腕を振り上げた男にひるむことなく話始めた。


「昨今、闘鶏は時代遅れ。毎日、数百万もの鶏が生まれ、同じ数が食卓に並ぶ時代。ありふれたもので金儲けはできないのです。鶏の生死で稼ぎたいなら、くさい養鶏場でも開いた方がいいでしょう。時代は犬ですよ」

 闘鶏場は静まり返った。

「近くこの国で闘犬の大会が催されるらしく、というのも女王様はいたく闘犬がお好きな方でして、噂ではかなりの賞金が用意されるとか」商人は、早く相手を突き殺したい一心で頭を振って歩き回る、出番待ちの鶏を抱きかかえた。「見事な軍鶏!いやはや、これほど勇猛な鶏を飼育なさった皆様を見込んで提案があるのですが、どうです、ちょいとばかり犬を飼育してみませんか? きっと皆様なら強くたくましい犬を育て上げることができますとも! そうなれば、闘犬の賞金だけでなく、国中から、いえ、世界中から優秀な種犬の遺伝子を欲した人間が大金を持って流れ込みますとも!」

 疫病が流布するように沈黙が流れた。誰しもの頭の中で犬と鶏を両辺においた数式が組み立てられた。いじらしく手もみして沈黙に付き合う商人は、気味の悪い笑みを崩すことなく、村人の脳内で数字が膨れ上がっていく様子を眺めた。

「犬一匹でいくらだ」一人の男が尋ねた。

「物にもよりますが、だいたい九十というところでしょうか」

「たわけ!食えねえ犬ごときにそんな金出せるか!」村人が叫んだ。そう、鶏は負けて死んでも食えるのだ。商人は食い下がった。

「では雌雄で百二十にしましょう。買い得でしょう? 子犬を増やして戦士に育てれば、金儲けの手も増える。今時の言葉で言うと投資ですよ」

「買った!」といち早く商談にのった者こそ祖父だった。怒声を目一杯闘鶏場に響かせた祖父の正気をいち早く疑ったのが祖母だった。

「馬鹿言うんじゃないよ!」とたまらず祖母は怒鳴り散らした。「食べ盛りの娘だっているってのに、そんな金がどこにあるってんだい!」

 長い押し問答の末、祖母は折れた。

 家にある金だけでは到底足りないので、稲を刈る鎌や大きな鍋、鶏の毛をむしって作った布団、祖父が月の欠片だと言って譲らない黒い石を売ったのだが、その石というのは、祖父が自分の父親(つまり私の曾祖父)を埋める際、掘り返した土から見つかったもので、それを伝説の巨人が実在した証拠だと言い張っていたものだった。祖父は家の床板の下の地面に石を埋めて、度々取り出しては何やら長い祈りを捧げていたようで、祖母いわく、「石っころに手を合わせて、十代も前のご先祖の名前をつぶやいてさかのぼるんだ!あたしのことはお前としか呼ばないくせに!」

 伝説の家宝を売り払ってまで闘犬に賭けた祖父の意気込みは、読者諸兄にも伝わるものと思う。

 祖父は言った。「みんな、時代は闘犬だ!鶏でしけた金を稼ぐより、世界一の闘犬の村になって稼ごうじゃないか!」


 ああ、いつの時代も儲け話というのは桃の実のように甘く、流感のように感染する。我が憐れな故郷も胡散臭い商人がもたらした儲け話に頭を腐らされ、捕らぬ虎の皮を数える愚かな人間が、ありったけの金と生活用品を集めては、明らかに闘犬には不向きな痩せっぽちの犬と交換した。その結果、六十八匹の茶色い犬が村の新顔として迎え入れられることとなった。明日の立身を夢見た人々は、遠慮を知らぬ四足歩行のノミの宿主のために、三食を一食に切り詰め、急激に需要の低下した鶏が我が世の春といった趣で村を練り歩いては貪欲な犬の餌食となった。

 犬に対して病的な献身を見せる村人が痩せゆく一方、犬たちはたちまち太り始め、次の春が来る頃には百八十匹の子犬がおぼつかない足取りで村を駆け回った。持ち前の好奇心で墓を掘り起こしては、いつの時代の物かわからぬ骨をしゃぶり、真夜中にわんわんと吠え立てては浅い眠りから人々を起こした。

「あんた、いつになったら犬どもが金を生むんだい!」祖母は耐えきれず嘆いた。

「まだあいつらは闘えるほど強くはない。今にみてろ、女王様を驚かせてやる」

 そう言うと祖父は五匹の子犬を従え、家の表に出た。鶏の小さな骨を投げて叫んだ。

「さあ取ってこい!一番の奴にはご褒美だ!」

 しかし、子犬たちはきれいに弧を描いて茂みに消えた骨には見向きもせず、互いの腹を鼻でくすぐり合ってじゃれつくのに夢中だった。

「感心だ! お前らは実践で鍛え上げたいんだな!見上げた根性だ!」と祖父が嬉しそうに言うのを見て祖母は怒鳴った。

「呆れたもんだよ! 今すぐ金を稼がせるかきゃんきゃん鳴くのをやめさせないと、殺して鍋にしちまうよ!」

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