第1話 第二の生 1
発情期のネコのうめきに恐れをなした我が友は、一目散に秘密の巣へと戻っていった。人間の奇声にしか聞こえないネコ科の求愛はネズミの精神にはこたえるようだ。かび臭く窮屈な家で震えているがよい、その方が私の筆も進むのだ。
さて、最初に私が語ろうと思うのは、お師匠様との出会い……ではなく、それよりさかのぼること十数年前、と述べると、高貴なる我が師の登場を待ち望む読者諸兄の間からは落胆の声が聞こえてきそうではあるが、しかし、実を言うと、私が今から語ろうとしている出来事こそ、お師匠様の奇跡の御力に他ならないのであり、今現在、私が読者諸兄にこうして語っていられるのもそのお陰なのである。
森羅万象を司るは古よりの業。蜘蛛の巣状に張り巡らされた緻密な因果。ろうそくの微かな明かりの下、夜のみだらな鳥のさえずりに耳をすませて推敲を重ねた幾夜を過ごし、またひとつ、私はお師匠様の慧眼に気付くこととなったのである。
ああ、お師匠様、どうして私は今まで気付かなかったのでしょうか、お師匠様が私をお選びになられた理由に! あなた様に選ばれて、私はただそれだけで天にも昇る思いでした。思い返せば、時折見せたあなた様の視線、浮かれ気分の私に冷や水をかけるような視線の意味を、私は完全に取り違えておりました! 馬鹿でのろまな私を罵りください!
私がお師匠様の言説、御力について書を著す日が訪れることをご存知だったのでしょう? だから私をお選びになられたのでしょう、違いますか、お師匠様! 世の中広しと言えど、私ほどあなた様を理解し、愛をもって物語れる人間がいないことを、あなた様は知っておられたのでしょう? だから私は選ばれ、第二の生を授かることとなったのでしょう? そして恐らくご自身の死も……。
いやはや、この私、誠心誠意その務めを全うしてみせましょう!
そう、読者諸兄、私は天上にいらっしゃるお師匠様によって第二の生を授かったのである。文字通り第二の生を。無情にも一刀両断に断ち切られた生命の糸を、あのお方は見事に結い直してくださったのだ!
私は死に、そして再びこの世に生まれ落ちた。
夜は短く、物語は長い。
ブタの頭。
私が唯一覚えている前世での記憶である。野性味あふれる葉物が敷き詰められた皿の周囲に、輪切りの果実が彩りを加えている。その中央に鎮座するブタの頭。こんがりと焼けたそのブタは死してなお口角を吊り上げ微笑んでいる。その安らかな笑みは、饗宴に供えられることに最上の喜びを見出だしたかのよう。
闇夜に浮かぶ満月のごとく、ぽつりとそのブタの頭が私の記憶に残っている。
現世が汚辱にまみれているのなら、そのブタを食らう人間もまた汚辱にまみれているのだろう。髪振り乱した薄汚い男女が我先にブタに群がり、湯気を立てる微笑みのブタを引きちぎる。丸い鼻がもぎ取られ、眼球はえぐられ、耳は引き裂かれる。誰かが金槌で頭頂粉砕し、こぼれ落ちた生煮えの脳を五十は下らぬ指がまさぐる。肉の削がれた骨を未練がましくしゃぶる肥満の男。衣服についた脂の跡。馬鹿笑い。
私は六歳で死んだ。
そして三日後に再びこの世に戻ってきた。
私の故郷である村の中央には墓園があった。墓を中心に村を設計するなど気がどうかしていると思うかもしれないが、これには理由がある。
遥か昔、月の王国を追われた一人の巨人がこの地に追放された。巨人は月の王国の近衛兵の長であり、戦勝後の宴会の際、その酒豪ぶりを王にひどく気に入られた。血気盛んな王はこの巨人に闘飲を挑んだ。
「その飲みっぷり、まことに見事なものよ! どれ、私が相手をしてやろう」
「陛下と言えど、わたくし、容赦はしませんぞ」
かくして二人の飲み比べが始まったのだが、両者一向に引けを取らず、加熱していく群衆の扇動が、より勝負を白熱させた。月の酒は宇宙全体に溢れる光を素にして作られる。注いだそばから渇いていく杯を潤わせるため、一千もの兵がひしゃくに光を汲んでは造酒に励み、いよいよ宇宙は彩光を失っていった。
「陛下、これ以上続けますと光が消えてしまいます」と近衛兵長は言ったが、憐れなる月の王は酒の神に魅入られてその声も届かない。
「もっとだ! 酒はないのか、グズども!」やがて王はより強い酒を求めて、太陽から作れと命令した。
「いけません、陛下」と兵の一人が言った。「太陽を酒にするなど、この世界が暗黒に満ちてしまいます」
「うるさい!わしに指図する気か、馬鹿たれが!」の怒声と共に放たれた剣の輝きが百人の兵の首をはね飛ばした。
兵たちは仕方なく太陽の半分を汲み取り、それを王の杯へと注いだ。献身的な兵と、耳元で安らかに歌う酒の神に気をよくした王は、赤く輝く杯を一気に腹へ下し、喉から肛門までを焼いて死んだ。
一千と一夜に及んで続けられた闘飲が王の死と共に終わり、その危険を察して早くに闘飲を止めなかったという理由で、近衛兵長の巨人は月を追放された。
こういう理由で太陽は半日しか顔を見せず、二人の飲み残した酒が星となり、巨人は地上に送られた。
そして我が村に落とされた巨人は飲んだ酒を豪快に吐き出して海を作った。そのすさまじい嘔吐の勢いで後方に吹き飛ばされ、大地をえぐり、山々を作った。死に際の放屁が風を生んだ。
我が村の墓園の中央には大きな木があり、伝承ではその御神木こそ、世界を創生した巨人の亡骸ということであった。そのため、昔から村人が死ぬと遺族は我先にとありがたき御神木の近くに墓を立て、そうしているうちに居住地が外へ外へと追いやられ、墓園を中心とした村が出来上がったようだ。
しかし墓園が中心の村とは、その核心に死を置いているということに他ならない。そのような意味で我が故郷は、生を中心に置き、死を周辺に添えるという他の村の精神とは大きくかけ離れている。それは時間の推移を正しく設置しただけにすぎず、生への従順、ひいては体制への従属を意味する。都から遠く離れた我が故郷が、反体制派の温床であったことには深い理由があるのだ。
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