日はまた昇りぬ

赤木衛一

プロローグ

 ああ! お師匠様がお亡くなりになられて、はや十月と十日。日ごと肉が腐り落ちていくあなた様の小指を、手を合わせて拝んだ日々が遂に、遂に報われるのです!

 砂煙舞う荒涼の地で吹き飛んだお師匠様の血を浴びた大地には、赤子の頬のようにぷっくりと厚ぼったい肉色の花弁が咲き乱れていることでしょう。

 それはまさに私たちが夢見た桃源郷のごとく、訪れる者を酔わせる現世の極楽。秘部まで透過する羽衣をまとった女が弧を描いて腰を振り、筋骨たくましい美男子が萌える稲穂の髪をそよがせて微笑みかける。真ん丸と肥え太った赤子が宙に遊び、湧き出る清水は枯れることを知らず、常緑の木々には甘い果実が実り続けているのです。

 お師匠様!あなた様の死は決して無駄ではございません!もちろん、独房と呼ぶべきこの部屋の鉄格子からその様子を眺めることはかないませんが、私にはわかるのです。孤独な私を毎度訪れる秘密の友も、その様子を目撃したようです。これまでの旅の疲れを天上で癒していらっしゃるお師匠様はお笑いになるかもしれませんが、はい、その友というのは一匹の卑しいネズミなのです。どこからか私の独房に侵入してくるようで、あやつは決してその秘密の通路については口を割りませんが、きっと私がその穴を通って間口を広げることを恐れているのでしょう。あなた様もご存知のように、ネズミというのは臆病な動物ですからね、いつネコがやってくるものかとビクビク怯えているのです。

 しかし、いつしかそのネズミとも懇意になり、気付けばお師匠様との冒険の数々を語り聞かせていました。なんたることでしょう!慕情の念、喪失の悲しみ、もはや肉体の主成分となった孤独。日常と化し麻痺していた感情、胸中の飢えに改めて気付かせてくれたのが、私の新たな友だったのです。

 いくら話せど尽きぬお師匠様との思い出に、我が友は仏のようにただ黙って耳を傾けてくれました。あやつは頬から伸びた毛をぴくぴくさせて、1日三回鉄の扉の穴から差し入れられるブタも食わぬ残飯のような粗食を咀嚼しながら、ああ、とか、ふうん、とか相槌を挟むのです。なんていじらしい仕草! しまいにはお師匠様の微笑ましいお姿が目に見えているようにうっとりしてくる始末。

 いまやネズミはあなた様の信者の一人となりました。私が眠る固いベッドにやってきては、腹や顔をつついてお話をねだるのです。

 どうです? これぞ使徒として最上の貢献でしょう。この親愛なるネズミが、現世でのお師匠様の復権の第一歩となるのです!


 そしてもうひとつ。小さな我が友は新たに私に生きる希望を授けてくれたのです。思い返せば、お師匠様が吹き飛んだあの時以来、私は死を生きてまいりました。蒙昧な日々、口に含むものは灰のように味気なく、重油のごとく濁った瞳は朝陽の輝きすら感知せず、糞尿にまみれて気違いと罵られる毎日。

 そう、私を不当に監禁している人の皮を被った悪魔どもは、お師匠様の名を私が唱えようものなら、気違いと私を嘲笑うのです。あの悪魔どもは私を家畜のように扱い、殺すつもりなのです! 衰弱する私を鉄扉の窓から眺めてほくそ笑むのでしょう。

 そんな時に我が友が現れたのです。そして先日、いつものようにお師匠様との思い出を語り終えると、珍しく友が口を開いたのです。友は相槌こそ打ちますが、ひどく寡黙な性格で、まず自分の意見など口にはしません。口は災いの元という言葉を、ネズミらしい臆病な性質が忘れるのを許さないのでしょう。しかし、遂に我が友もあなた様の乱世を治めるという崇高な目的、新しい言葉で言えばミッションとやらへの情熱に熱狂し、そしてその夢の破れたくだりで居ても立ってもいられなくなったようです。そう、その日、私が友に語り聞かせたのは、我が脳裏に焼き付いて離れないお師匠様の殉教の場面でした。

 際限なく繰り返されるあなた様の死に、いったい何度寝汗を撒き散らして飛び起きたことか。

 あれはきっと異国の神の子。肥満体の化け物。あの鈍色にぬめる醜い無毛の肌を思うと、今でも恐怖に震えずにはいられないのです。あれは昔、風の噂で聞いたゴーレムだかキュクロプスだかの赤子に違いありません。というのも地響きを立てながらこちらに向かってくる巨人の大群は立ち上がることもできず、四つん這いで地を這いずっていたのですから! 恐ろしく統制のとれた神の子の口から叫び声と共に飛び出した巨大な火の玉が、一瞬にしてお師匠様を消し去りました。私は……私は、わけがわからず、呆然と立ち尽くすことしかできませんでした。爆風に意識が遠のき、目にした光景とその意味が結び付かなかったのです。

 一様にめかしこんだ悪魔の軍隊が近付いてき、我に返った私は、降参する振りをして足元に見つけたお師匠様の小指を拾うことしかできませんでした。奪われてはなるまいと、私は咄嗟にあなた様の右のものか左のものかもわからぬ小指を口に含みました。ああ、あの甘美なる血と肉の味! お師匠様の指紋の襞の隅々にまで舌を這わせ、神の胸中に飛び込んだかのような恍惚! うずくまる私の頭上で悪魔らはなにやら話し合い、そして私はここへ連れてこられた次第であります。

 悪魔に囲まれ虐げられながらも、私がここで生きていられるのは、ひとえにお師匠様の小指のお陰でしょう。それは右か左かもわからないだけあって、あらゆる社会、国家、宗教の理想である中庸を体現したものであり、死してなお私に悟らせようとするその意志ときたら……!


 そうでした! 我が友の話でしたね。滅多なことでは口をきかない友は、私のつぐむお師匠様の壮絶な最期にいたく心が震えたようです。とにかく彼は言いました。

「昨日、そのお師匠さんとやらの吹き飛んだ地へ行ってきたぜ。ありゃあすげえ。丸々とした色っぽい女が俺に尻を向けて、それもむしゃぶりつきたいほど豊満な尻だぜ、尻尾を振ってくるんだ。その色気と言っちゃあ、俺の天狗様も暴発するほどよ。ものの二秒で昇天よ。あんないい女、そういるもんじゃないね。お前、そんなすごいお師匠さんなら、ひとつ、書にでも残せばいいじゃねえか」

 ああ、彼こそまさに十二支の長! 恐るべき策士にして、物静かな地上の覇者! 暗闇より現る万病の宿主!

 どうやらあまり素直でない我が友は感動を悟られるのが怖いらしく、ネズミらしい汚い言葉で、ご覧のように上品とは言い難い体験を語りましたが、我が友がお師匠様に魅了されているのは一目瞭然。果たして関心がなければわざわざあなた様の臨終の地を訪れるでしょうか。しかもその地はお師匠様の神聖な血を浴びて、私の思っていた通りの極楽であると申すではありませんか! ネズミが太るほど食物に恵まれており、安心して交尾に励めるほど平和な地となったのです。


 我が友の話を聞いて、薄暗い独房に懐かしい光が射し込んだようでした! そのぬくもり、闇を押し返す輝きを私が忘れたとでもおっしゃるのでしょうか。いいえ! 絶望の日々は私の弱さ故、不遇の日々は我が薄弱の精神故。

 処女の紙と、その神聖さを穢さんと踊るインクでしたら、悪魔の一人をたらしこんで手に入れました。

「ひとつ、物でも書いてみようと思うのだが」

「それはいい! 精神病の文豪の誕生だ!」

「すべての物書きは狂気にとらわれていると言うでしょう?」との私の言葉に面食らったようで、悪魔はしばし顔を引きつらせて凍りつくと、しかし、一瞬後には不快な馬鹿笑いをあげて「少し待っていろ」。

 ああ、私にはお前の真の姿が見えている。精神の奥底まで腐りきった汚物よ。人間の皮を被ってはいても、その臭いまでは隠しきれない。皮膚から漏れ出るは蠅も寄らぬ腐肉の悪臭。死肉と糞を食らって生きる者特有の黄ばんだ肌と、どろりとした目。そして隙あらば私を陥れようとする邪気を孕んだ言葉。

「持って来てやったぞ。ただし、そのペンで自分の首を刺すなら、俺が非番の時にしろよ」

 再び不快な馬鹿笑い。

 お師匠様、私は敵に囲まれてはいますが、我が友の忠言により、あなた様の功績を称える書を著すことを決意しました。どうか、天上で私の拙い執筆を見守りください。お師匠様が残された希望の光を広めることを夢見て、私は筆を踊らせる覚悟でございます。

 願わくは我が小さき友の繁殖力のように世界がお師匠様の信者で満ちるように!

 願わくは我が小さき友の媒介する疫病のごとくあなた様の御心が世に浸透しますように!

 ああ! しかしお師匠様、その前にどうか、隣の独房にいるらしい男の気違いじみた喚きを、せめて私が筆を執る間だけでも止めてくれはしませんか?

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