第9話 対峙と対決

「えぅああぁっ、うぁああっ…」


「泣くのやめようよ。また目が真っ赤に腫れ上がっちゃう」


「だって、だっでえぇ…」


 ベッドに腰掛けながら優しく撫でる。腹回りに抱きついている華恋の頭を。


「言いたい事は分かってるって。だから無理して喋ろうとしなくていいからさ」


「なんで……なんで関係ない奴に否定されなくちゃなんないのよぉ。私達の関係を」


「それは仕方ないっていうか…」


「仕方なくないっ! おかしいのは全部あの女。私も雅人も悪い事なんかしてないもん!」


「悪いか悪くないかの問題じゃないんだよ。ただ小田桐さんの考え方が世間一般の意見なんだって」


「あんな奴の名前呼ぶなっ!」


「わ、分かったよ。ごめん…」


 まるで引き裂かれた恋人みたいに悲しい別れ方をしたが帰る家は同じ。こうして顔は合わせるのは当然だった。


 華恋と別れた後、小田桐さんと繁華街へ遊びに行く事に。初デートという名目で。


 歩き回っている間に楽しんでいたのは彼女だけ。こちらは終始無気力状態。理不尽な条件さえ無かったらすぐにでも逃亡していただろう。


「あの女、絶対に許さないから…」


「……ちょっと酷いよね。人様の内情にズカズカと踏み込みすぎというか」


「ねぇ、本当に変な事はしてないの? キスとか」


「してないって。いくらなんでも知り合ったばかりの人間にそんな真似しないでしょ、普通の人は」


「分かんないよ。だってあの女、普通じゃないもん」


「まぁ、確かに」


 今日はただ一緒に歩き回っただけで済んだが次は何を命令してくるか予想がつかない。ただ1つだけハッキリしているのはあまり芳しくない内容だという事。


「でもこれからどうするの? まさか本当にあの女と付き合うつもり?」


「付き合うっていうか、付き合ってるフリっていうか」


「絶っっっ対にキスとかしないでよね!? もししたら泣くから」


「いや、もう泣いてるじゃん」


「エッチな事とか論外。あんな奴とそういう事したら私、私…」


「だ、だから変な想像しないでおくれよ。いよいよそんな事になったら何をしてでも逃げ出すからさ」


「……必ずだよ。約束だからね」


 お互いに立てた小指を前方に移動。子供の取り決めのように絡め合った。


「しかしどうしたものかな。僕達の関係を内緒にしてくれたとはいえ、こんなふざけた条件を受け入れ続けるわけにはいかないし」


「雅人があの女に嫌われれば良いんだよ。そうすれば向こうから勝手に離れていくから」


「嫌われるって具体的にはどんな風に?」


「大勢の人の前でスカート捲るとか」


「いやいや、小学生じゃないんだから」


 そんな真似をしたら通報されてしまう。しかも卑猥な行為だから発案者本人もブチ切れ確定。


「じゃあグーパンチ。乱暴しまくって近付けないようにしましょう」


「華恋じゃないんだから暴力は無理だよ。もっと現実的な案でお願い」


「デートの待ち合わせに全裸で行くとかは?」


「その作戦だと途中で捕まってしまう」


「なら風貌を変えてみるとか。髪型をモヒカンにして鼻ピアス装着」


「……君は一体どうしたいのさ。敵なのか味方なのか分からないんだけど」


 持ち出す提案がただの悪ふざけにしか聞こえない。真面目さが皆無だった。


「くっそぉ。私にミラクルホーリージャスティスパワーが使えたらなぁ」


「何、その怪しさ満載のパワー」


「はっ、そうか! 私が直接あの女を消してしまえば良いんだ」


 彼女が何かを閃いたかのように目を見開く。床に手を突くと勢い良く立ち上がった。


「どこ行くの?」


「キッチン。包丁取ってくる」


「うわあぁぁあ、待って待って! それだけはダメだって!」


「離してよっ! だってこうでもしないと雅人をあの女に盗られちゃう」


「やったら華恋が刑務所に入って離れ離れになっちゃうじゃないか。落ち着いてくれよ、頼むからっ!」


 夜だというのに2人で大騒ぎ。下にいる両親の所にまで響きそうな大声で。結局、何の解決策も見いだせないまま時間だけが経過していった。



「お待たせしました。遅くなってすいません」


「……別に待ってませんから」


 翌日、学食で1人の女子生徒と遭遇する。この場所へと訪れるよう指示してきた本人と。


「あら優しいんですね。まさかそんな言葉をかけられるとは思ってませんでした」


「え~と…」


「……で、どうしてアナタまでいるんですか」


 ぶつかった彼女の視線がすぐに隣に移行。そこには教室から付いて来た妹が座っていた。


「そりゃあ私達は一心同体、一蓮托生の関係ですから。食事だっていつも一緒なんです」


「あんまりしつこく付きまとってると嫌われますよ。アナタの大好きなお兄さんに」


「はいはい、ご忠告どうも。けどそれは絶対に有り得ないから。雅人が私を嫌いになるなんて考えられませ~ん」


「もう少し気を遣ってもらいたいものだわね。私と赤井くんは付き合い始めた恋人なんですよ?」


「はっ、脅迫して無理やり付き合わせたクセに何ほざいてんの? そんなムチャクチャな計画は私が邪魔しまくってやりますから」


 女子2人がテーブルを挟んで一色触発。立ったままこちらを睨みつけている小田桐さんに対して華恋は目も合わせようとしていない。もくもくとご飯を口の中にかきこんでいた。


「……っとに」


 場にイライラ感を表した舌打ちが響く。発信者はトレイをテーブルに叩き付けながら椅子に座った。


「ところで赤井くんは今日の放課後は暇ですか?」


「バイトがありますね。ちなみに明日も明後日も。今週はずっと忙しいです」


「じゃあ週末はどうでしょう。土曜日か日曜日のどちらかは時間空いてますか?」


「土日も用事があります。めちゃくちゃ忙しいです」


「嘘はいけませんね、嘘は。そういう意地悪するとバラしちゃいますよ? アナタのもう1人の妹さんに」


「そ、それは勘弁してください」


 質問に対してぞんざいな返答を連発。その行動が仇となり脅しの言葉が飛んできた。


「なら正直に答えてください。いつが暇ですか?」


「……土曜日ならバイトも休みですけど」


「ではその日に一緒にお出かけしましょう。良いですよね?」


「えぇ…」


 小田桐さんが満面の笑顔を向けてくる。恐怖さえ感じる表情を。


「お出かけってどこに…」


「赤井くんはどこか行きたい場所ありますか? ここが良いっていうリクエストとか」


「特にはないですね。なるべくなら自宅でゴロゴロしてたいです」


「それは不健康ですね。引きこもりはよくありませんよ」


「……あの、休日なんだから体を休めたいんですけど」


 嘘偽りない本心さえ認めてもらえない。八方塞がりに陥っていた。


「デートの定番の映画館にします? それともカラオケやボーリングみたいなレジャー施設とか?」


「映画はちょっと。今は見たい作品ないですし」


「恋愛映画とか興味ないのかな? 男性はそういうの苦手なのかしら」


「あ、あの……カラオケやボーリングに行くなら大勢で行きませんか? 他の人も誘って。人数が多い方が盛り上がりますし」


「あなた、ナメてるんですか? これデートだって言ってるでしょ」


「すいません…」


 叱責の言葉に怯む。口調や態度は上品だけど中身は華恋と同じらしい。


「雅人はアンタと2人っきりで出かけるのが嫌だって言ってんのよ。それぐらい分かれ、バァ~カ」


「……部外者は口を挟まないでください。これは私達2人の問題なんですから」


「うわぁ、こいつ嫌われてる事に全然気付いてない。痛すぎ」


「喧嘩売ってんですか? いい加減にしないと怒りますよ?」


「やだぁ、怖ぁい。お兄ちゃん助けて~」


 隣にいた相方が箸の動きを止めて接近。泣き真似をしながらもたれかかってきた。


「赤井くんからも何か言って! この人、私の事バカにしてきます」


「さっきから口が悪いよ。あんまり乱暴な言葉使うの良くないって」


「バカって言っただけじゃん。そんなんで怒るこのバカ女がバカなのよ」


「こらっ!」


「いてっ!?」


 人差し指を弾いてデコピン。お仕置きの意味を込めた攻撃を額に喰らわせた。


「つうぅ…」


「周りに他の生徒もたくさんいるんだからさ。もう少し自重しようよ」


「……分かってるわよ。だからってこんな事しなくても良いのに」


 小声で会話を交わす。お互いに息がかかるぐらいの至近距離で。


「さすが赤井くんですね。ちゃんと私の事を守ってくれました」


「……妹がガラ悪かったんで注意しただけですよ。別に小田桐さんの為ではないです」


「恥ずかしがらなくても良いのに。あと私の事は名前で呼んでもらってもいいかしら?」


「へ? な、何でですか?」


「せっかく恋人同士になったの今まで通りじゃ他人行儀すぎるかなと思って。やっぱり付き合ってるのなら名前で呼び合わないと」


「名前……ですか」


「うん。これからは私もアナタの事は雅人くんって呼ぶようにするから」


 油断していると彼女が新たな提案を持ちかけてきた。萎縮してしまうような意見を。


 普段から颯太や智沙にもそう呼ばれてるから特に違和感は感じない。もし困る事があるとすれば自分も同じ事をしなくてはならないという点だった。


「……茜さんでしたっけ?」


「はい、そうです。なんなら呼び捨てでも構わないですよ?」


「そ、それはさすがに…」


「呼び捨てに抵抗あるなら可愛いアダ名でも付けてくれたら嬉しいかな」


「え~と…」


「最低メスブタ女で充分よ、アンタなんか」


 躊躇っていると横槍のような一言が飛んでくる。数秒前の忠告を無下にする暴言が。


「……本当にガラの悪い女性なのね、アナタ。同じ女として軽蔑します」


「あらあら、それは光栄ですこと。アンタみたいな腐れ外道に尊敬されたら吐き気がするからね」


「口の減らない方。哀れすぎて涙も出ません」


「おい、私を勝手に悲劇のヒロインにすんなっ!」


「華恋!」


 立ち上がった妹を慌てて制止。2人の間に漂うのは今にも取っ組み合いの喧嘩でもしそうな空気感だった。


「あまり話に割り込んでこないでください。先生や家族に秘密をバラされたいんですか?」


「ちょっ……内緒にするってアンタが言ったんじゃん。勝手に約束破んな!」


「それは態度次第です。妨害してくる邪魔者には消えてもらわないといけませんから」


「卑怯者……脅しを使わないと男1人振り向かせられないなんて」


「あと明日からは昼と放課後は雅人くんに付いて来ないでください。私が一緒に彼と過ごしますので」


「……やっぱ最低だわ、アンタ。出来る事なら今すぐこの場でブン殴ってやりたい」


「殴りたいならどうぞ。ここで暴れてくれたら私が手を下さずにアナタを退学に追い込めるから楽ですね」


「くっ…」


 攻撃の言動はことごとくかわされ、むしろ不利になる状況で返される始末。どうやら明日からは付き添いも認めてはくれないらしい。


「とりあえずご飯食べよ…」


「うぅう…」


 拳を震わせている華恋を宥めてこの場は何とか凌ぐ事に成功。せっかく仲直り出来たのに自分達の間には大きな壁が作られてしまった。簡単には乗り越える事が出来ない障壁が。


「はぁ…」


 それから昼休みも放課後も小田桐さんと過ごす日課が続く事に。先日までと変わらないハズなのに楽しくない生活が。


 誰にも相談出来ず、希望すら見いだす事が叶わない。無情にもただ時間だけが過ぎていった。



「ん~…」


「どうしました? ペースが落ちてますよ~」


「あぁ、ごめんごめん。考え事しててさ」


 バイトの休憩中に無意識の唸り声を出す。後輩と2人して折り紙を細かく切り刻みながら。


「スケベな妄想は構わないですが手だけは動かしてください。じゃないと私が孤軍奮闘する羽目になるので」


「そ、そんな事はしてないから!」


「なら良かったです。もしかしたら2人きりになったのを良い事にあんな事やこんな事を考えているのではないかと思ったので」


「……優奈ちゃんてさ、前より変になったよね。大胆になったというか」


「ありがとうございます。これも優しい先輩のご指導のおかげです」


「嬉しくないよ…」


 ピークを過ぎたので店長は奥に引っ込んでしまっていた。お客さんは現在ゼロ。悪天候が影響してか全体的に退屈な日だった。


「ふぅ…」


 今している作業は仕事とは関係ない。もうすぐ誕生日を迎える瑞穂さんを祝う為に本人には内緒で紙吹雪を作成していた。


「たくさん作れましたね。これぐらいあったら足りるかな」


「だね。でもこれバラまいたら片付け大変そうだなぁ」


「そういう先の事を心配するのは野暮ですよ。お祝い事なんだから散らかったって構わないんです」


「そうだね。お祝いされた人が喜んでくれたら嬉しいもんね」


「瑞穂さんも成人かぁ。私達より一足先に大人になるんですね」


 約30枚の折り紙を細かく切り刻むミッションを達成。小さな箱の中には色鮮やかな紙切れがこんもりと存在。


「じゃあ当日は忘れないでお店に来てくださいね」


「了解。店を1時間早く閉めて誕生日会やるんだよね?」


「そうみたいですね。まぁ瑞穂さんには内緒で計画進めてますが気付かれてそうですけど」


「あの人、頭いいからなぁ。分かってて知らないフリしてくれてそう」


「うっかりバラしたりしちゃダメですよ。あくまでも本人には内緒の誕生日会なんですから」


「分かってるって。いくら何でもそこまでドジではないし」


 口を滑らす可能性があるとしたらそれは自分ではなく紫緒さんだろう。なので彼女にはこの計画はまだ秘密だった。


「先輩、隠し事とかしてると顔に出るタイプだからなぁ」


「そ、そうかな」


「喋り方や表情に焦りが浮かんでくるんですよ。だから嘘ついてたりするとすぐに分かります」


「そんな君はポーカーフェイスだよね?」


「うひひひひひひ」


「怖いよ…」


 よく女性は嘘をつくのが得意とは聞く。華恋がそうだし、すみれや小田桐さんも普段と本性がまるで違う。裏表がない香織や智沙みたいなタイプの方が珍しいのかもしれない。


「ところで先輩、私に隠し事してませんか?」


「え?」


「内緒にしてる話がありますよね。まだ報告してない事が」


「な、なんの話…」


「とぼけても無駄ですよ。ネタは上がってんですから、兄貴」


「いや、本当に意味が分からないのだけど」


 指摘に動揺するが何も思い浮かばない。思考範囲を自宅での私生活や友人関係にまで広げても。


「ま、まさか…」


「気付きましたか。そう、それです」


「ひょっとして華恋になりすましてた事を見破ってたの?」


「はあぁ?」


「あれ……違った?」


 学祭で女装していた件を暴露。しかし返ってきたのは口をあんぐりと開ける反応たった。


「ま、まぁ似合ってましたよ。肩幅の広さはともかく、顔だけなら違和感ありませんでした」


「それはどうも…」


 思わず墓穴を掘ってしまう。情けなさを通り越して笑ってしまうぐらい見事に。


「そ、その事じゃなくてですね。もっと大事な話があるんじゃないですか!」


「……って言われてもなぁ。全く見当がつかないんだが」


「同級生の女性に告白されましたよね? 先日」


「え、ええぇぇぇーーっ!! どうして知ってるの!?」


「妹さんに聞きました」


「あぁ、なるほど」


 どうやら華恋が事情を話したらしい。自分達が置かれている現状を。


「しかも聞くところによると承諾したそうじゃないですか。その人の告白を」


「う~ん……結果的にはそうなっちゃうのかな」


「妹さんから相談されたんです。私達に共通の敵が現れたって」


「敵…」


「しかも自分では手出しが出来ないから困ってるって。どういう事なんです? その相手の同級生に何をされたんですか?」


「……ん」


 ここまで知っているなら隠すのは無理だろう。ごまかす事も。覚悟を決めて小田桐さんにされた横行を語った。


「ふぅむ……なかなか聡明な人っぽいですね。先輩の今の話を聞いた印象だと」


「かなり頭良いんじゃないかな。成績とかは知らないけど」


「何より言い分が合ってますもんね。家族間の恋愛は間違っているとか、兄妹で愛し合ってるのは変だとか」


「うっ…」


「でも私にとって目の上のタンコブである事には変わりないです。先輩に手を出した時点で敵決定ですから」


「あ、そう…」


 目の前にいる人物も同じ理由で間に割り込んできていた事を思い出す。けど優しい後輩と違い、彼女のそれは嫌悪感剥き出しの態度。相手を見下したような発言が印象的だった。


「それで、その小田桐さんという人とは一体どこまで進んだんですか?」


「どこまでっていうか、ただ一緒に出掛ける約束をしただけ」


「ならまだ取り返しのつかない一線は超えていない訳ですね。安心しました」


「い、一線って何だろ…」


「出掛ける日っていつですか? 私が邪魔しに行きます」


「今度の土曜日。たぶん映画見に行くかな」


「あっ、その日シフト入ってるからダメだ」


「……だよね」


 なんとなくそんな事を言い出すんじゃないかと思っていから驚きはしない。彼女は発想がだんだんと華恋に似てきていた。


「う~ん、どうしよっかなぁ…」


「こんな事の為にわざわざバイト休むのも悪いから今回は諦めようよ」


「何を悠長な事を言ってるんですか。私にとってはこれ以上ないぐらいの一大事です。でも恵美もシフト入ってるから代理頼める人がいないし…」


「あの、この事は紫緒さんには内緒にしててね。あの子、僕達の間柄について知らないから」


「もちろんですよ。あの子に先輩達の事をバラしたら学校中に広がる可能性もあります。ネットとか使って拡散しそう」


「ひえぇっ!」


「ならどうしようかな。むぅ…」


 2人して作戦会議を繰り広げる。不毛とも思える協議を。


「とりあえず今度の土曜日は自力で何とかしてみるよ。適当に言い訳つけて逃げ出すとか」


「本当にそんな真似出来ますか?」


「え?」


「先輩、あまり女性に厳しくないから相手の雰囲気に流されそうな気がするんですけど」


「……それについては否定出来ないです」


「ならやっぱり私が割り込んで邪魔します。先輩も妹さんも手出しが出来ないなら私がやるしかありませんから」


「は、はぁ…」


 力強い宣言をされるが頼りなさしか感じない。こんな小柄な女の子に一体何が出来るというのか。


「土曜日までに策を考えます。先輩のピンチを打破する案を」


「あんまり変な事はしないでね。掻き乱されると小田桐さんが何してくるか分からないし」


「大丈夫です。こう見えても昔から結構やんちゃな性格してるねって言われますので」


「そ、それ大丈夫って言わないんですけどぉっ!」


 伸ばした手を前方に移動。暴走気味の後輩を制止するようにツッコミを入れた。


「悪党退治は任せてください。人を脅迫してくるような不届き者には鉄槌を喰らわせてやりますから」


「……はい」


 彼女が机の上に置かれた2つのハサミが手に取る。両腕をクロスさせながら。


 続けて刃の部分を何度も開閉。それはまるで映画に登場するキャラクターのような仕草だった。



「行って来ます…」


 約束当日はローテンションで自宅を出る。結局、後輩からは何の音沙汰もないまま。


「あっ、すみません」


「いえ」


 電車内でぶつかった男性に頭を下げた謝罪。吊革を持たずに突っ立っていたら揺れた時の反動で靴を踏んでしまった。


「はあぁ…」


 何故せっかくの休日に外出しなくてはならないのか。しかも苦手な同級生と。


 隣に華恋はいない。泣きついてきた彼女を振り切って家を飛び出してきた。



「……どうも」


「あっ、おはよう」


 待ち合わせの駅へとやって来ると下車する。改札付近で薄手のコートを着た女性に近付いた。


「えへへ。ちゃんと1人で来てくれたんだぁ」


「だって1人で来ないと秘密をバラすって小田桐さんが言うから…」


「茜」


「はい?」


「下の名前で呼んでって言ったじゃない。この前の話もう忘れちゃったの?」


 声をかけた瞬間に満面の笑みを向けられてしまう。すっかり見慣れた嬉しくない笑顔を。


「……小田桐さんが来いって言ったから来ましたけど、用が済んだらさっさと帰りますからね」


「あっ、冷た~い。女の子に優しくしない男は嫌われるんだよ?」


「そうですか。それは良い事を聞きました」


 この人になら嫌われたって構わない。無視されようが罵られようが今みたいな状況より100倍マシだった。


 一緒に映画を見たいらしいので近くの劇場に向かう事に。ポケットに手を突っ込んだまま街を歩き出した。


「雅人くんはお昼食べてきた?」


「家で済ませてきました。映画だけ見たら帰る予定です」


「そんなのダメだよぉ。せっかくのデートなんだからさ、もう少し寄り道しようよ。ね?」


「あまりアナタと仲良くすると妹が悲しむので。だからそれは無理です」


「む~、頭固いなぁ」


 行動は制限されても心までは支配されない。気分は悪の手先に操られたヒーローや勇者。


「……何、キョロキョロしてるの? さっきから」


「い、いや…」


 どこかから監視しているかもしれない。華恋ではなく、この問題を解決する為に名乗り出てくれた後輩の姿を探した。


「あんまり他の人を見ないでほしいかな。ジェラシー感じちゃう」


「べ、別にそういう訳じゃ…」


「不本意かもしれないけど今日は私に付き合ってくれない? 無理やりで楽しくないかもしれないけど」


「なら最初から誘ってこなければ良かったじゃないですか。そうすれば小田桐さんだって余計な気を遣う事もなかったのに」


「だって雅人くんとデートしたかったんだもん」


「はいはい…」


 照れくさい言葉に動揺したりはしない。すっかり耐性がついてしまったので。


 しばらく歩くと目的地へ到着。チケットを2人分買って館内へ入場。公開から1ヶ月以上が経過していた作品なので中はガラガラだった。


「飲み物買ってくるけど何が良い?」


「あっ、自分で行きます」


「うぅん、私が売店に行ってくるから座ってて。付き合わせちゃったお礼って事で」


「でも…」


「良いから、ほら」


「ちょっ…」


 立ち上がろうとするが無理やり体を押さえつけられる。仕方ないので烏龍茶を注文。


「はい、お待たせ」


「どうも」


「ちょっとだけ飲んじゃった」


「え!?」


「うふふ、冗談」


「お釣りはいらないです…」


 精算を済ませるのと同時に紙コップを受け取った。そして彼女が引き返して5分と経たないうちに劇場内の照明はオフに。薄暗い空間へと変貌した。


「ん…」


 退屈な予告編が流れた後に本編が始まる。小さな男の子がアメリカの街並みを歩いているシーンから始まった。


 大まかな内容は、子供の頃から好きだった女の子が事故で死亡。それから別の女性と付き合ったが初恋相手が忘れられずに別れてしまったという話だった。


「くぁ…」


 反対側の空席を向いて欠伸を出す。襲いかかってくる眠気に抗うように。


 恋愛系の作品はあまり好きではない。なので昔から興味を惹かれなかった。


「ん…」


 隣の人物の様子を窺うが表情が分からない。どんな気持ちで作品を観ているのかも。


 それから墓参りに行った主人公が子供の頃の記憶を思い返すシーンで映画は終了。ノスタルジーを感じさせる演出だった。


「うっ、くくっ…」


 組んだ両手を天井に向かって伸ばす。強張っていた全身をほぐすように。


「じゃあ、行きますか」


「今の作品……どうだった?」


「え?」


 エンディングロールと共にお客さんが劇場を退出。その流れに乗ろうと相方に声をけたが動こうとしなかった。


「ま、まぁまぁ面白かったと思いますよ。景色とか綺麗でしたし」


「……そっか」


「テレビでも感動するって評論家の人が言ってましたもんね。サイトのレビューも評価が高いとか」


「私はあんまり感動しなかった……かな」


「は、はぁ…」


 その顔を見れば無表情。口調も覇気がなく穏やか。あまり好みの作品ではなかったのかもしれない。なら何故この映画を選んだのかが疑問だった。



「えぇ…」


 小田桐さんがトイレに行っている間にケータイを取り出す。届いていた後輩からのメッセージ確認しようと。それはあまり芳しくない内容だった。


「どうしよう…」


 送信時間を見ると1時間近く前と判明。バイトの休憩時間中に送ってきたとするなら今から返信しても彼女は見る事が出来ない。


「仕方ないか…」


 要求を跳ね除けたいところだか断ってもまた似たような状況に陥るだけ。覚悟を決めて作戦に従う事にした。



「次はどこに行こう? 雅人くんが決めてくれて良いよ」


「え~と、なら本屋で立ち読みとか」


「立ち読みって……それ私は楽しいんですか?」


「た、楽しくないですね。1人で満足しちゃいそうです」


「ふふふ、でも嬉しいなぁ。ちゃんと映画が終わっても私に付き合ってくれるみたいだから」


「へっへへ…」


 小田桐さんと2人でブラつく。人が多い繁華街を。


 喉が乾いたらジュースを買ったり、疲れたらベンチに腰掛けたり。空腹を感じた頃にはファーストフード店に入ってハンバーガーを食べた。


「あぁ、楽しかった。クイズゲームって意外に面白いんだね」


「良い暇つぶしになりますよ。全国の人達と対戦出来ますし」


「なんか新境地開拓って感じ。今までこういうゲームってやった事なかったから新発見だった」


「それは……良かったです」


 騒がしい施設を出てのんびりと進む。日が沈んですっかり暗くなった道路を。


「あ、あのっ!」


「ん? 晩御飯の件かな?」


「いや、そうじゃなくて一緒に付いてきてほしい所があるんですけど」


「え~、どこだろ。素敵なお店とか?」


「ど、どうでしょうね…」


「ここからそんなに遠くないんだよね? どこに案内してくれるのか分からないけど行こう行こう」


「うぃっす」


 時間を確認すると行動開始。相方を引き連れて指定された場所を目指した。


「ここ?」


「はい。この駅で降ります」


「ここって私達の学校がある駅じゃ…」


 ICカードを使って素早く通る。普段から見慣れている改札を。


「先輩」


「あれ? バイトもう終わったの?」


「はい。店長に頼んで早めに上がらせてもらいました」


「それは……お疲れ様」


 続けてロータリーに出た瞬間に1人の人物が接近。待ち合わせ相手が自転車と共に立っていた。


「お知り合いですか?」


「え、え~と……バイト先の同僚の子」


「初めまして。デート中に割り込んですみません」


「あ、いえいえ。わざわざ丁寧な挨拶ありがとうございます」


「先輩の愛人2号です。よろしくお願いします」


「はい?」


 事情を知らない小田桐さんが後ろから話に割り込んでくる。控え目な態度で。


「あ、えっと……この子ちょっと変わっててね。今のもジョークなんだよ」


「は、はぁ…」


「実は鬼頭くんの妹なんだ。鬼頭くんは知ってるよね?」


「一応。一年生の時にクラスメートだったし、お話した事もありますし…」


 互いに互いを紹介をする事に。唐突なボケを全力でごまかした。


「私がここにいたのはアナタ達2人を待っていたからです。決して偶然会った訳ではないのであしからず」


「え……どういう事」


「私が先輩にお願いしてアナタをここまで連れてきてもらいました。先輩に責任はないので責めないであげてください」


「雅人くんが?」


 こちらに向いた小田桐さんと目が合う。怪訝な表情を浮かべているデート相手と。


「ご、ごめんなさい…」


「……どういう事かしら。しっかりと説明してもらえる?」


「それは私の口からお話します。アナタにお伝えしたい事があったので」


「あまり耳に入れたくはない内容な気がするけれど、逃げ出す訳にもいかないから聞かせてもらおうかしらね」


「はい。この場所は寒いけど我慢してくださいね」


 先程までのくだけた雰囲気が一瞬で様変わり。ピリピリした空気の中で龍と虎が睨み合いを始めた。


「要件から先に言いますと、私がここに来たのは先輩の妹さん……華恋さんに頼まれたからです。先輩とアナタを別れさせてくれと」


「あの人が?」


「なんでも自分の兄を無理やり奪われたから取り返してほしいとかで。他人の私に相談してくるぐらいだから相当追い詰められてるんだと理解出来ました」


「奪った訳ではないです。ただ異常な恋愛をしていた雅人くん達を元通りにしようとしただけ」


「その点に関しては私もアナタに同感です。血の繋がった者同士が恋愛感情を抱く等、言語道断です」


「ちょ…」


 一瞬にして四面楚歌に陥る。どちら側からも批難される展開へと。


「……ならどうしてアナタは私を呼び出したのですか? 兄妹間での恋愛に反対してるなら妹さんの味方につく理由はない筈なのでは?」


「仰るとおりです。私は別に先輩の妹さんを応援してる訳ではないので。だから先輩達には一刻も早く別れてほしいと願っています」


「じゃあ私と同じ意見な訳ね。安心したわ。こちら側に付いてくれて」


「いえ、別にアナタの味方になるつもりもありません」


「え?」


 小田桐さんの表情が和らいだ物に変化。直後に眉間にシワを寄せて険しくなってしまった。


「今すぐ先輩をしがらみから解放してあげてください。先輩はアナタの命令にとても迷惑しています」


「はぁ? 突然なんですか?」


「好きな人を自分の方に向けさせる為に脅すなんて良くありません。それだとかえって嫌われてしまうだけです。ましてや恋人を人質にとるような真似なんて…」


「人質とは物騒な言い方ね。私はただ2 人を元通りにしてあげたかっただけよ。間違った事をしてる人達を抑止して何が悪いの?」


「その件に関してはあまり強く責め立てるつもりはありません。でもその話と先輩を脅迫して無理やり付き合わせるようにした事とは無関係ですよね?」


「そ、それは…」


「ただ単に奪い取りたかっただけなんじゃないですか? アナタが気に入らないのは家族間の恋愛ではなく先輩の妹さんなのでは?」


 周りを行き交う通行人がチラチラとこちらを見てくる。様子を探るように。


「うぐっ…」


 男をめぐって女2人が痴話喧嘩をしているとでも思っているのだろう。実際その通りだから恥ずかしくて仕方なかった。


「違います。私はただ雅人くんを正常に戻して…」


「それは言い訳です。アナタが先輩と恋人同士になったからって先輩の極度のシスコンが治るとでも?」


「……だったらどうすれば良いんですか。他の女に気を移させる意外にどんな方法があるっていうんですか」


「それ、私がやります。私が先輩と付き合って妹さんの事を忘れさせてみせますから」


「は!?」


 話し合いが有り得ない方向に脱線。それは作戦なんて真っ当なものではなく、ただの漁夫の利だった。


「なのでアナタは安心して先輩と別れてください。あとは私が引き受けますので」


「ちょ、ちょっとアナタねっ!」


「はい? どうしました?」


「そんな提案を突き付けられて素直に受け入れる訳ないでしょうが!」


 場に荒々しい声が響き渡る。罵声に近い声が。


「え……でも私、間違えた事は言ってませんよね? 私は先輩が好きでその先輩と付き合う。それに何か問題でも?」


「だ、だってそれだと雅人くんの気持ちが…」


「なんですか? もっと大きな声で喋ってください。聞き取れません」


「だから、その…」


「先輩の気持ちがなんですって? まさか先輩の気持ちを無視してる、なんて言いませんよね?」


「ぐっ…」


 上下関係がハッキリと確立。隣に立つ同級生は数日前の華恋と似たような状況に追い詰められていた。


「……雅人くん」


「あ、はい?」


「アナタはこの人の事が好きなのですか?」


「え?」


「答えてください。この目の前にいる女性を愛しているのかを」


「優奈ちゃんを…」


 唐突に争いの渦中に引きずり込まれる。名前を呼ばれながら。


「好き……だけど、恋愛感情は無いです。あくまでも先輩後輩の関係だと思ってますので」


「……そっか」


「でもとても尊敬しています。年下だけどしっかりしているし、あと優しいから」


「んっ…」


 もしかしたら質問を肯定すればこの場を逃れられたのかもしれない。けどそれはしたくなかった。後輩の純粋な気持ちを利用してる気がしてならなかったから。


「いい関係で繋がってるのね。アナタ達2人」


「あ、ありがとうございます」


「羨ましい……私もそっちの世界にいたかった」


 話が収束する方向へ向かっていく。思いがけない解決への道へと。


「……でも私はやっぱり諦めきれない。ここで引き下がるなんて絶対に出来ません」


「結構しつこい性格してますね。それストーカーさんの思考ですよ?」


「アナタに何が分かるっていうのよ。本気で人生に悩んだりした事なんかないクセに。本気で家族を憎んだ事なんかないクセに」


「喧嘩ならしょっちゅうしますけど。まぁ最近は言い争いすらしなくなりましたが」


「私には喧嘩する相手もいなかった。最初からこの世に生まれてこなければ良かったんじゃないかとさえ思っていた」


 ただ人心地が付いたのは一瞬だけ。挑発的な発言と共に小田桐さんが右腕の袖を捲った。


「……え」


 全身が硬直する。言葉にならない声と共に。


「これは私が自分の人生を終わらせようとした傷です。この1本1本全てが死を望んだ数でした」


「そ、それって…」


「別に流行ってるからとか皆がやってるからなんてバカげた理由ではありません。本当に死ぬつもりで切りつけたのです」


「死ぬ…」


 露出した彼女の腕には無数の線が存在。1本や2本なんて生易しいものではない。そこにあったのは数え切れない程の歪な跡だった。


「……後悔はしています。死にきれなかった事実と、また辛い毎日に身を投じなくてはならない未来に対して」


「なんで…」


「醜いと思うならどうぞ笑ってください。なんなら周りのお友達に話してくれても構いませんよ?」


「そ、そんな事はしません」


「遠慮なんかいらないです。私に気を遣ってるなら無駄ですから。嫌われたくないなら最初からこの傷を見せたりなんかしなかった」


 場の空気が大きく変化する。修羅場とは違う別の雰囲気へと。


「私は自分の人生がどうなっても構わない覚悟があった。希望を見いだせない将来に進んでいく事が怖かったから」


「将来…」


「だから本気で死のうと考えました。リストカットなんて中途半端なものではなく、もっと確実に命を絶てる方法を」


「えぇ…」


「でもそんな私をたまたま助けてくれたのがアナタです」


「へ?」


 すぐ目の前には焦点が定まっていない不安定な瞳が存在。虚ろな表情を向けられた事で緊張感が一段と高ぶった。


「……なぜアナタは自分の人生に絶望しか感じなかったのですか」


 パニックに陥っていると別の方角から意見が飛んでくる。自転車から手を離した後輩の声が。


「私には本物の家族がいません。生まれた時から知らない人達の元で育てられていました」


「本物の…」


「両親は私が赤ん坊の頃に離婚。引き取った父親はすぐに過労死したそうです」


「僕と一緒だ…」


 全く同じではないが似ている。赤ん坊の頃に両親が離婚していたり、父親と死別している部分が。


 それから小田桐さんが自身の過去話を暴露し始めた。父方の伯父と伯母に引き取られた話を。


「2人は普段から仲が悪く、いつも言い争いばかり。喧嘩は日常の風景でしたが、それでも小さかった私は怖くていつも押し入れやトイレに隠れていました」


「は、はぁ…」


「伯父は自堕落な人間で仕事をすぐに辞めたりクビになるの繰り返し。だから家庭の経済状況はいつも最悪です」


「……そうですか」


「その事が原因で私が五年生の時に2人は離婚。伯母が逃げ出すように家を飛び出して行ったので、私は伯父と暮らす事をやむなくされました」


「んっ…」


 その時の彼女の姿をイメージする。子供なのに肩身の狭い思いをしながらの生活を。


「ただでさえ働く意欲が少なかった伯父は知り合った若い女と遊び呆け、毎日自宅に連れ込むようになりました」


「えぇ…」


「もちろん私にとってその女性は迷惑な人物です。ただ2人からしたら他人のクセに住み着いている余所者の方が厄介だったのでしょう」


「そんな…」


「しかし私が中学に上がる頃には破局。経済力が壊滅的に破綻している私達は生活保護を受給するようになりました」


「……働かなければ収入はなくなりますからね」


「はい。そしてせっかく手に入れた僅かばかりのお金も伯父の酒とギャンブルに湯水のように消えていきました」


「典型的なダメ親父だ…」


 怠惰を具現化したような人物。その点は自分の父親とは大違いだった。


「けどそれだけならまだマシだったのかもしれない。酒やタバコだけでは欲求が満たせない伯父は更に暴走していきました。何だと思います?」


「しゃ、借金をしたとか…」


「いいえ、違います。女です」


「女?」


「伯母も女も失った伯父は、堪えきれなくなった性欲を当時まだ中学生だった私に向けてきました」


「え!?」


 ほんの少しだけ彼女の声色が変化する。怯えの感情を含んだ物へと。


「今まで我が子のように扱ってきた私を今度は性の対象として見るようになりました。一番身近にいた異性だからという理由です」


「それって…」


「もちろん抵抗しました。いくら身寄りのない自分を育ててくれた恩人だからといって、そんな事は出来ません。でも私には逃げ場がなかった」


「……最悪だ」


「毎日学校から帰宅しては伯父に言い寄られ、そして無理やり乱暴をされた。帰る家も助けてくれる家族もいなかった私にはその仕打ちに耐えるしか選択肢がなかったんです」


「ぐっ…」


 まるで昼ドラのような展開。倫理観を無視した行動に思考が追い付かなかった。


「殺してやろうとも考えました。けど人生をダメにしてしまうぐらいなら、この仕打ちに耐えていた方がマシだと思うようになったんです」


「せ、先生や友達に相談するとかは?」


「アナタは身内に性的虐待されてる事を周りの人に話せるんですか?」


「え?」


「もし勇気を振り絞って打ち明けたとしても、解決出来なかったら更に辛い状況に追い込まれるだけなんですよ?」


「……ですよね」


 彼女の反論に萎縮してしまう。自身の軽率すぎる発言が情けなくて。


「それから気が付けば私は知らず知らずのうちに腕を切りつけるようになりました。嫌な記憶を消し去りたい一心で」


「そんな…」


「ただ覚悟が少なかった為に死にきれず、辛いだけの時間を過ごす日々が続きました」


「んっ…」


「そして何とか高校に入学しましたが、その時に伯父は新たな女を見つけて私は捨てられた女のように邪魔者扱いされるようになりました」


「酷い…」


 話を聞いているだけで堪えきれない程の怒りが湧いてくる。暴力的な負の感情が。


 自分が直接的な被害に遭った訳ではない。リストカットをした訳でも。それなのに溢れてくる悲しみが止められないでいた。


「乱暴されていても心のどこかで伯父に必要とされてるんだと考えていたんだと思います。しかしそれすらもされなくなった時には、自分が何故この世界にいるのかの意味さえ分からなくなってきました」


「……小田桐さん」


「そして何も考えられなくなった頭の中には自然と走っている電車に飛び込む光景が浮かんできたんです」


「え?」


 最悪な状況を脳裏にイメージ。フィクションでもあまり描かれない事故が浮かんできた。


「学校帰りの駅のホーム。次に来た電車にこの身を投じようと線路を見つめながら突っ立っていました」


「ちょっ…」


「けど私がぶつかったのは車両ではなく1人の男子高校生でした」


「高校生?」


「私は彼とぶつかった衝撃でその場に倒れ込み、ちゃんと締まっていなかった鞄からは教科書やノートが散乱。何もせず黙ってヘタレ込んでいると、その男子は何度も頭を下げてきました」


「あ…」


「更に彼は散らばった筆記用具類などを必死にかき集めてくれました。すいませんと何度も謝りながら」


「そ、それって…」


 覚えてる。そんな出来事をまだ一年生だった頃に体験した記憶があった。


「翌日、私は彼にお礼を言う為にホームで待ち伏せしていました」


「えっと…」


「だけどそれは叶いませんでした。彼の隣には懇意にしていそうな女性が並んでいたからです」


「女性?」


「話しかけるタイミングを逃した私には黙って2人の様子を見守る事しか出来ません。気付けば頭の中で男子生徒とどうやったら接触出来るかを考えるようになりました」


「んんっ…」


 その時はまだ一年生だから香織はうちの学校には通っていないハズ。だとすると一緒にいた女性は智沙なのだろう。


「その男子生徒の名前や学年を調べ、毎日朝と帰りに駅のホームで見守るのが日課となりました」


「えぇ…」


「ただ次第に虚しさを感じたのでその男子生徒を忘れる為に他の男性とお付き合いする事に。2つ上の先輩と同級生、2人の男性と」


「は、はぁ…」


「しかしどちらも長続きはしませんでした。彼らが私に求めていたのは伯父と同じ物だったからです。欲求をはねのけた私に彼らは罵声を浴びせて立ち去っていきました」


「最低だ。そいつら…」


「記憶を上書きしようとする行為は失敗し、もはや男という生き物に対して憎悪の念しか感じなくなっていました」


「……ん」


 そんな経験をしたらトラウマにならない訳がない。まともな恋愛を出来る気がしなかった。


「男性恐怖症となった私は再び人生を投げ出そうと考えました。そしてホームの端に立った時にふと思ったのです。あの男子生徒ならまた救ってくれるんじゃないかって」


「あ…」


「アナタにとってはたまたまぶつかった通行人の1人に過ぎなかったのかもしれません。でも人生に絶望しか感じてない私にとっては命の恩人だった」


「いや、あの時は急いでて周りを見ていなくて…」


「誰に助けを乞えばいいのか分からなかった私には雅人くんだけが唯一の希望だった。一方的な意見かもしれないけど、もうアナタしか頼れる人がいなかったの」


 目の前にいる人間を直視出来ない。視線を別の方角に逸らす事も。


「迷惑だって分かってます。自分勝手なワガママだって。けど家族も親友もいない私にはその意思を貫くしか方法がなかった」


「え……な、七瀬さんは?」


「彼女には私の過去について話をしていません。もしこの腕の傷を見せたら七瀬だってきっと敬遠して離れていってしまう」


「なら彼女の代わりに僕に接触してきた理由は?」


「私があの子の名前を使って試したんです。雅人くんが女にホイホイ付いてくる軽率な男かどうかを」


「そんな…」


 だとしたらラブレターを書いたのも彼女だったのだろう。一連の行動は全て小田桐さん1人で行われていた計画だった。


「でもアナタは私の誘いに食いついてこなかった。その時に決めたんです。この人の為に生きようって」


「いやいや…」


「バカな女って思うよね? 何を勝手に決めてるんだって。ただ一度好きになっちゃったらもう歯止めが効かなかったの」


「えっと…」


 喋ろうとする言葉が詰まる。否定すべきか肯定すべきか判断出来ずに。


「……んっ」


 救いを求めるように隣に視線を移動。告げられた内容が衝撃的だったのか強気な態度だった後輩も意気消沈していた。


「雅人くんと学食で初めて会話した時はドキドキした。けど好きな相手がいると知ってショックでした。しかもその相手が身内だなんて…」


「そ、それにはいろいろ事情があって…」


「だから許せなかった。私には持ってない物を持っているアナタ達2人が」


「物…」


 気を許せる家族の存在かもしれない。彼女が今までの人生の中で一度も手にした事がない絆。


「自分でも間違えてるって分かってるんです。分かってるのに止められなかった……止めようとさえしなかった」


「んっ…」


「だって私には間違えてる事を叱ってくれる人がいないんだよ? 慰めたり励ましてくれる人が」


「……小田桐さん」


「誰か1人でもいてくれたら良かった。私を……私を助けてくれる人が」


 目の前にあった体が地面にヘタレ込む。そして膝を突くのと同時に両手で顔を覆い隠してしまった。


「うっ、うあっ…」


「あの…」


「あああぁっ、ぁあ………うあぁあぁっ!」


 何もすれば良いのかが分からない。どんな声をかければ良いのかも。


 励ましの台詞も今の彼女には陳腐に聞こえるのだろう。それ程までに打ち明けてくれた話が重々しかった。


「私はどうすれば良いですか…」


「それは…」


「教えてください」


「……ん」


「お願い……しま、す」


 哀しみを表した涙が次々に溢れ出ている。言葉にならない声と共に。


「むっ…」


 自分の人生がどれだけ恵まれているか。そう痛感させられるぐらい彼女の生い立ちは異様だった。


 時間を巻き戻せるなら助けてあげたい。苦痛に耐えながら自らの体を傷つけていた少女を。


 そして自分はもっと早くに知るべきだった。救いの手を差し伸べていた1人の同級生の存在に。


「あの…」


「……え?」


「さっきはキツい事を言ってごめんなさい」


 困惑していると1人の人物が前へと踏み出す。隣に立っていた後輩が。


「凄く強い人です、アナタは」


「強い…」


「理不尽な目に遭いながらも、その男達を誰1人として傷付けようとしなかった。一歩間違えたら犯罪に走っていたかもしれないのに」


「……ぐすっ」


「私だったらその伯父や罵声を浴びせてきた男共に仕返ししてます。躊躇いもせずに刺し殺していたかもしれません」


「ちょ…」


 彼女の口からはとんでもない台詞が登場。恐怖感を抱かずにはいられない暴言だった。


「なのにアナタはずっと耐え続けてきた。自分がこの世界からいなくなる事で不幸の連鎖を終わらせようとしていた」


「んっ…」


「あまり責めないでください。アナタは悪くありません。悪いのはアナタをここまで追い込んだ愚かな人間達です」


「……え?」


「私がさっきアナタに浴びせた酷い発言についても謝罪します。本当にすみませんでした」


 2 人が冷静な口調で言葉を交わす。肌が触れそうなぐらいの至近距離で。


「アナタが先輩を強く想っている事は分かりました。けど恩を感じている人間に対して迷惑をかけるのだけはやめてあげてください」


「だからそれは自分でも分かってて…」


「もし本当に先輩を想っているのなら、困らせるのではなく助けてあげましょう。それが今アナタがすべき最善の策だと思います」


「……助ける」


「はい。そうすれば先輩だってアナタを必要な人間として見てくれるハズです」


 彼女達の周りを多くの人達が通過。そのほとんどが訝しげな視線を送っていた。


「そしてアナタの事は私が助けます。これからは何があっても味方でいますから」


「あ…」


「決して1人になんかさせません。裏切らないって約束します。だから……もうこれ以上は自分の体を傷付ける事だけはやめてください」


「な、何で…」


「さぁ、何ででしょう」


「あ、あぁ……あぁぁっ!」


 ここからでは2人の顔がハッキリと見えない。確認出来るのは抱き締め合っている後ろ姿だけ。


 もしかしたら泣いているのかもしれない。小田桐さんだけではなく、優しい言葉をかけた後輩も。



「立てますか?」


「ありがと…」


 しばらくすると状況が変化。地面に腰を下ろしていた2人が立ち上がった。


「うぉっと!?」


「……あ」


「だ、大丈夫?」


 足元が覚束ない小田桐さんが倒れそうになる。すかさず接近して体を支えた。


「ごめんね……雅人くん」


「謝らなくて良いです」


「だって私、アナタにいっぱい迷惑かけちゃった。アナタだけじゃなくて妹さんにも」


「もう平気です。華恋だってこの腕の傷を見てもバカにしたりしません。だから謝ったりなんかしないでください」


「ありがと……本当にありがとうね」


 耳元に弱々しい声が入ってくる。とても芝居とは思えない囁きが。


 彼女が今までどんな人生を歩んできたかなんて聞いた話だけでは分からない。ただ辛い境遇に追い込まれている事実だけは理解出来た。


「んっ、ぐすっ…」


 少し離れたベンチに座らせる。取り乱している小田桐さんを。


「あの、寒くないですか?」


「……大丈夫」


「もし寒いなら言ってくださいね? そこのコンビニでマフラーでも手袋でも買ってきますから」


「ありがと。でも本当に平気だよ…」


 彼女の手元には近くの自販機で購入したコーンスープが存在。缶の蓋は開いていないが寒さを和らげる為の役割を果たしてくれていた。


「先輩は大丈夫ですか? 薄着みたいですけど」


「え? あぁ、大丈夫」


「そうですか。なら良かったです」


「……っくし!」


「大丈夫じゃないっぽいですね」


「面目ないです…」


 強がってはみたものの肌寒さを感じていたのが本音。昼と夜との温度差を実感。


「それでこれからどうするんですか? 家に帰るんですか?」


「……そうですね。お二人に迷惑をかけてしまいましたし、大人しく引き下がろうかと思います」


「もし家に帰りたくないならうちに泊まりませんか? ここからなら歩いてでも行けますよ」


「え?」


 この後の予定を話し合っていると優奈ちゃんが思いがけない意見を持ちかける。大胆すぎる提案を。


「うち、両親が外出ばっかりしてて留守にしてる事が多いんですよ。だからもしアナタさえ良ければ泊まりに来てください」


「で、でも…」


「遠慮なんかいりません。友達を自宅に招待する事は全く不自然ではありませんから」


「友達…」


「それにもっとアナタの事が知りたいです。先輩の事をどう思っているのかとか、この女らしさをどうやって身につけたのかを」


「……アナタ、優しいのね」


 数分前、彼女達は顔も合わせた事がない他人だった。普通に生活していたらおよそ関わる事のない間柄。それがこんなにも親しく会話しているのだから人生は何が起こるか分からなかった。


 示された提案を小田桐さんは快く承諾。丁寧なお礼の言葉と共に頭を下げた。


「なら寒いからさっさと退散しましょうかね。ずっとここにいたら風邪を引いてしまいますし」


「本当にお邪魔しちゃって良いの? 家族の方に迷惑じゃない?」


「平気です。うちには私と両親以外にはゴキブリみたいな奴しか住んでいませんから」


「ゴキブリ…」


 配慮の言葉とは正反対に不適切な発言が飛び出す。実の兄を罵る台詞が。


「それじゃあ雅人くんも……今日は色々とごめんなさい」


「いや、大丈夫っす。こっちも結構楽しかったですし」


「……そういう事を言うとまた好きになっちゃいますよ? それでも良いんですか?」


「え、え~と…」


 良くはない。だけど強く否定も出来やしない。


 華恋がこの場にいない状況に一安心。もしいたら容赦なく殴りかかってきただろうから。


「先輩」


「へ?」


「以前にした約束、覚えていますか?」


「約束…」


 微かに微笑んだ小田桐さんと入れ違いに後輩が接近。彼女の言葉で思い出したのは夏休み中に交わした取り決めの存在だった。


「華恋がいる時に3人で話してたアレ?」


「はい、それです。良かった、忘れてなくて」


「……まぁ自分に関わる事だしね。あんまり意識はしてなかったけども」


 2人が勝手に決めたのであって本人に決定権は皆無。しかも今の今までそんなやり取りをした事を忘れていた。


「もうすぐその約束も期限がきてしまいます。このままではあと1ヶ月もしないうちに先輩とお別れしなくてはなりません」


「……お別れ」


「でも私は先輩と離れ離れにはなりたくありません。だから今から凄くワガママを言います」


「は、はぁ…」


 理解出来ない発言に軽くパニックに陥る。詳しく聞きたかったがすぐ側に小田桐さんがいる為、追及する事が出来なかった。


「クリスマスの夜に私とデートしてください。そして……私を正式な恋人と認めてください」

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