第4話 猛暑と土下座

「……あつい」


 白シャツに短パン。全身汗だくの状態でベッドに寝転がる。


 窓からはささやかな空気が流れていたが心許ない。真夏の暑さを吹き飛ばすにはあまりにも脆弱な風だった。


「まだ終わらないのかな…」


 いつもなら動いているクーラーも今日は停止中。一階にあるテレビも冷蔵庫も。その原因は急な工事の為の停電。おかげで自宅の中は地獄のような空間と化していた。


「……ん?」


 アイスでも食べようかと考えていると階下から音が聞こえてくる。ドアをノックする音が。


「ムリムリ…」


 対応したいが体を起こす気力が湧いてこない。もはや脳や全身の機能が完全に停止していた。


「頼むから諦めてください…」


 しかしこちらの意見を無視するように同じ音が響き渡る。二度目の催促が。


 宅配便か郵便物の配達かもしれない。華恋や香織が頻繁に通販やオークションを利用していた。


「またか…」


 階下にいる家族も居留守を決行しているのか音が鳴りやまない。対応する気配が見えない。


「……何なんだ、一体」


 ついにはリズムを刻むように連打。これは回覧板を持ってきたおばちゃんパターンだろうか。


 騒がしい騒音を遮る為に耳を塞ぐ。それでも歓迎していない訪問者は容赦なくノックを続けた。


「くそっ…」


 たまらずベッドから起き上がる。舌打ちをしながら。


 この不快感を解消する為には訪問者を迎え撃つしかない。階段を下りた後は苛立ちをぶつけるように玄関の扉を開けた。


「何ですかぁ!?」


「あっ、雅人くん」


「げっ!」


 ドアの前にいた人物を見て思わず吹き出す。立っていたのが隣の家の悪ガキだったので。


「ちょ、ちょっと! どうして閉めちゃうの!」


「しっしっ、早く家に帰りなさい。お母さん達が心配してるから」


「お母さん今、仕事でいないよ。今日は用事があって来たんだってば」


「用事? なにさ」


「一緒にサッカーやろ」


「帰れ」


 見なかった事にして退散を決意。扉を閉めようとすると彼女が脇に抱え込んでいた白黒のボールを突き出してきた。


「え~。一緒にやろうよ、サッカー」


「どうしてこの暑さの中そんな自殺行為に手を貸さなくちゃならないのさ」


「だって暇なんでしょ? なら良いじゃん」


「暇じゃないし、暇だとしてもサッカーやる理由はどこにも存在しちゃいない。さぁ早く帰るんだ」


「ちょ、ちょっと…」


 体を180度回転させて無理やり追い返す。ある程度玄関から離れたのを見計らって扉を閉めた。


「……ふいぃぃ」


 額から流れる汗を拭う。訪問者を追い払えた事に一安心しながら。


「危ない危ない」


 なるべくなら彼女とは関わりたくない。例え小さな子供だとしても。


 礼儀正しい子だと思っていたのに、タメ口で話しかけてくるわ図々しい態度をとるわ。とんだ猫被りの悪ガキだった。


「雅人のバカ~」


「ん?」


 鍵を閉めたタイミングでドアの向こう側から憎たらしい声が聞こえてくる。だがどれだけ叫ぼうとも対応さえしなければ直接的な被害を被る事はない。


「ふふふ」


 勝ち誇った気分で廊下を移動。小娘の思惑通りにいかなせなかった事が自分の中で密かに優越感に浸れる出来事になっていた。


「あれ? 誰もいないじゃん」


 リビングへとやって来るが家族の姿が見当たらず。どうやら全員外出してしまったらしい。


 1人我慢大会を開いていた事に落胆しながらキッチンに寄って水分補給。停電のせいで飲み物が温くなっていた。


「げっ!?」


「サッカーやろ、サッカー」


「ど、どうやって部屋の中に入って来たんだ!」


「うちのベランダからだよ。窓開けっ放しとか不用心だなぁ」


「おのれぇ…」


 しかし自室まで戻って来ると侵入者を見つける。先ほど追い払ったばかりの訪問者を。


「漫画読んでないで早く出ていってくれよ」


「これ全部雅人くんの?」


「そうだよ。そんな事はどうでもいいから出てった出てった」


「じゃあ出て行くから一緒にサッカーやってくれる?」


「やらないって。ほれ」


「ちぇっ……ケチ」


 彼女が生意気にも舌打ちで対応。無理やり追い出した後は即座にドアを閉めた。


「ん?」


 振り向き様にベランダに何かが置かれているのを見つける。脱ぎ捨てられた子供用の靴を。


「素足で帰る気ですかい…」


 窓から投げてやろうかとも考えたが、さすがにそれは可哀想。彼女にとっては親から買ってもらった大切な私物なのだから。


「仕方ないなぁ…」


 二足の赤いスニーカーを手に取り部屋を出発。忘れ物を届ける為に一階へとやって来た。


「なに勝手にテレビ点けてるのーーっ!?」


 けれど玄関とは全く別の場所でターゲットと遭遇する。騒がしい音声が流れているリビングで。


「電気工事終わったみたいだよ。これでテレビ見られるようになったね」


「あ、本当だ。いつの間に……ってそんな事はどうでも良いから。なに勝手に寛いでるのさ!」


「怒鳴ってないでクーラー入れてよ。このままだと暑くて倒れちゃう」


「まったく……いつからこの家の住人になったんだか」


 命令されて動くのは癪に障るが暑いのには同意。リモコンに手をかけ冷房を起動させた。


「今ってこの家、雅人くんしかいないの?」


「そうみたいだね。すみれの家も家族は外出中?」


「そうだよ~、皆、お仕事。私と雅人くんだけが働いてない暇人だね」


「僕は宿題やら何やらで忙しいのだが…」


 仮にも受験生で勉強をしなくてはいけない立場。遊んでばかりいられる小学生とは訳が違う。


「お~、涼しくなってきた」


「すみれは宿題やらなくていいの? 夏休み、もうすぐ終わりだよ」


「平気平気。まだこっちの学校の生徒じゃないから」


「え? もしかして前の学校の宿題もこっちの学校の宿題もやらなくて良いの?」


「ふふん、そういう事」


「くっ、羨ましい…」


 まさかそんな切り抜け方があったなんて。束縛も無しに1ヶ月以上を過ごせるとか天国状態だった。


「とりあえず家に帰りなよ。すみれんちも電気復旧したハズでしょ」


「だって家に1人でいても退屈なんだもん。だからサッカーやろうって誘いに来たのに」


「こんな猛暑の中を走り回ったら倒れちゃうって。友達誘って行ってきなよ」


「え? 私と雅人くん、友達でしょ?」


「違う違う」


 罠にハメるような真似をしておきながら友達面するとは図々しい。いいように利用されてオモチャにされるのが目に見えていた。


「ばぁ~か、ばぁ~か」


「いい加減にしないとゲンコツ喰らわすよ。ほら、ボール持って公園でも行って来なさい」


「呪われて死んじゃえっ、ふんっ!」


 テレビの電源を消すと玄関に移動する。滞在者を無理やり追い出した。


「……面倒くさい奴」


 今度こそ厄介者を追い払えたので部屋へと戻る。様子を確認する為にベランダに移動。そして道路を覗き見ると家とは反対方向に向かって歩く子供の姿を見つけた。


「えぇ…」


 てっきり冗談かと思っていたのに。どうやら本気でサッカーをやるつもりらしい。それか知り合いの家に遊びに行くとか。


 しかしよく考えたら彼女はまだ引っ越してきたばかりの環境。知り合いなんてほとんどいなかった。


「……仕方ないなぁ」


 タンスを開けて外出用の服に着替える。家中の戸締まりを済ませた後は隣人の後を追いかける為に出発した。


「ぐわっちいぃぃ…」


 一歩外に出た瞬間に容赦ない日差しが全身を攻撃してくる。着替えたばかりなのにもうシャツが汗だく。外出した事を早くも後悔し始めていた。


「いたいた」


 近所の公園にやって来ると標的を見つける。噴水型の水道に顔を突っ込んでいるツインテールを。


「お~い、外の水飲むのやめなよ。体に悪いって」


「ん? あれ、雅人くんじゃん。もしかして追いかけて来てくれたの?」


「ぬるくなかった? あんまり飲まない方が良いんだけどな。こういう場所のは…」


「だって喉乾いたんだもん。あーーっ、美味しい」


「はぁ…」


 心配するだけ無駄だったらしい。暑さから避難するように近くのベンチに腰掛けた。


「おい、お前。俺達が水飲むんだからどけよ」


「ん?」


 ケータイを弄っていると入れ違いに小学生と思われる男子達が彼女を囲む。ヤンチャそうな集団が。


「ここは俺達の陣地だし。知らない奴が無断で入ってくるなよ」


「誰よ、アンタ達…」


「誰でもいいだろ。とにかくこの水道は俺達の物なんだから許可なく使うな」


「何言ってんの? バカじゃないの?」


 いきなり話しかけてきたかと思えば身勝手な発言を連発。どこからどう見ても無法者の思考回路だった。


「……む」


 粋がっている悪ガキの集まりなのだろう。少し離れた場所には彼らの物と思われる自転車も存在。


「邪魔だからどけって言ってんだろ!」


「きゃっ!?」


「あっ!」


 助けるべきか悩んでいると状況が変化する。集団の1人が肩を突き飛ばして攻撃してきた。


「いっ、たぁ…」


「さっさと家に帰れよ、ブ~ス」


「ははは!」


 バランスを崩した事で背中から地面に転倒する羽目に。彼らは苦しんでいる被害者を見下ろしながら笑い始めた。


「仕方ないな…」


 子供同士の争いに保護者が口出しするのは大人気ないだろう。とはいえこれは一方的なイジメ。見てみぬフリをする方がどうかしていた。


「君達、いい加減に…」


「テメェら、ふざけんなコラァァァッ!!」


「へ?」


 だが割り込むより先に激しい罵声が公園内に響き渡る。地面に這いつくばっていた隣人の声が。


「誰を突き飛ばしたと思ってんだ。女子だぞ!」


「う、うわーーっ!?」


「どうして水道の水を飲んでただけで嫌がらせされなくちゃならん。おかしいだろが!」


「なんだ、この女!」


「全員この場で皆殺しにしたる!!」


「ぎゃあぁあぁぁぁっ!!?」


 彼女は落ちていたサッカーボールを拾って連中にぶつけだした。更に怯んだ背中に向かって跳び蹴り。


 髪の毛を引っ張ったり水道の水をかけたり。一方的な制裁を喰らわせ始めてしまった。


「す、すいませんでしたぁ!」


「ふうぅ…」


 そしてその激しい攻防も僅か数十秒で終了してしまう。男子グループが半ベソ状態で走り去った事で。


「じゃあサッカーやろうか」


「は?」


「待たせちゃってゴメンね。変な奴らが突然邪魔してきちゃってさ」


「いや、別にこっちは迷惑してないから構わないけど」


「でも見てたんなら助けてくれても良かったのに。頼りにならないパートナーだなぁ」


「……君、とても逞しいね」


 うちの妹に近しい物を感じた。男相手に一歩も怯まない部分を特に。


 それから2人して日陰部分に移動。暑さを堪えて球技をやり始めた。


「ほ~ら」


「うわっ、こんな球とれないって」


「あぁ、ごめんごめん。強く蹴りすぎちゃった」


 飛んでいったボールを彼女が避ける。頭を抱えながら。


「サッカーって手は使って良いんだっけ?」


「ダメ。キーパー以外はね」


「どうして使ったらダメなの?」


「そりゃ持って走ったらラグビーになっちゃうもん」


「ドリブル形式でしか運べないようにすれば良いじゃん」


「それだとバスケになっちゃう」


「なら足だけしか使っちゃいけないルールにしよう」


「原点回帰だね」


 仕方ないので子供の暇潰しに付き合ってあげる事に。そのつもりだったが途中から夢中になって遊んでいた。


「よ~し、いくよ」


「ち、ちょいタンマ。疲れた…」


「ハァ? もう? 早くない?」


「だってこの暑さだよ? 体力を奪われもするさ」


 そして30分程が経過した頃にギブアップ宣言を出す。汗だくになった手を掲げて。


「なんか飲むの?」


「そだよ。口の中カラカラになっちゃった」


「じゃあ私コーラ。サイダーでも良いよ」


「誰が奢るって言ったのさよ、誰が」


 許しをもらった後は近くに設置されていた自販機に移動。適当なジュースを2本購入した。


「ほい。これで良いの?」


「ありがと~。いつか3倍にして返すね」


「また適当な事を…」


 2人して缶の穴に口を付ける。乾燥した喉に水分を流し込むように。


「んまーーっ!」


「さっきあれだけ水飲んでたのによく入るね」


「あぁ、だね。よく考えたらそんな喉乾いてなかったかも。あとあげる」


「いや、いらないから」


 彼女が持っていた缶をすっと差し出してきた。失礼な事に飲みかけの状態で。


「どうして? 炭酸苦手なの?」


「飲めない事もないけど、あんまり好きではないかな」


「幼女と間接キス出来るんだからさ、ありがたく貰っておきなよ。ほらほら」


「いらないって! そういう趣味とか無いし」


 中身の入った缶を押し付け合う。その攻防戦は相手の苦しむ表情で終止符が打たれた。


「うぐぐ…」


「さっきあんなに張り切って水飲むから。まだお腹苦しいんでしょ?」


「う、うん…」


「お?」


 反論してくると思ったが大人しい。こちらが戸惑ってしまうぐらいに。


「もしかしてお腹痛いの?」


「……かも。なんかギュルギュル鳴ってる」


「大丈夫? トイレ行って来なよ。向こうにあるから」


「やだ。公園のは汚いもん」


「そんなワガママ言ってる場合じゃないし。お腹痛いんでしょ?」


「だってもし紙が無かったらどうすんのさ。困るじゃない」


「女子なんだからティッシュぐらい持ち歩いてなよ…」


 どうやら腹痛を起こしてしまったらしい。50メートルほど先にある小さな建物を指差したが首を横に振ってきた。


「ここのトイレ使うのが嫌なら家に帰るしかないね」


「か、かもね。じゃあ後は任せた」


「仕方ないなぁ。ボールは持っていってあげるから早く行きなさい」


「ま、雅人くん…」


「ん?」


「おんぶ」


「はぁ?」


 ボールを拾った瞬間、彼女が両手を伸ばして近付いてくる。ホラー映画に出てくるゾンビのようにフラフラと。


「やだよ。暑いし重いし」


「もう無理、我慢出来ない……助けて」


「こんな場所で勘弁してくれ」


「痛い。お腹がギュルギュル鳴ってるよぉ…」


「だから公園のトイレ行けばいいのに………ほらっ!」


 突き放したい所だが今は意地を張っている場合ではない。屈み込んで背中を差し出した。


「うっわ、ベットリ…」


 汗だくの体に人肌が密着する。お互いに体温が高まっているから異様に暑苦しい。


「おぶってあげるからボールは自分で持ちなよ」


「無理。まだ飲みかけのジュースがあるし…」


「あぁ、もう! ちょっとそれ貸して!」


 彼女の手から無理やり缶を奪取。中身を空にしてからゴミ箱に叩き付けた。


「うっぷ……ほら、これなら両手空いたでしょ。ボール持って」


「うん…」


「走るからね。途中で落ちたとしても責任は持たないから」


「……が、頑張る」


「じゃあ行くよ。ほっ!」


 立ち上がって勢いよく駆け出す。そのまま公園の出口に直行。公道に飛び出してガードレール沿いに歩道を走った。


「ハァッ、ハァッ…」


 この場所なら近くにコンビニもある。しかしトイレを貸し出していたかどうかが分からない。家に帰る道とは若干ズレた方角にあったので、もし使用出来なかった場合はかなりのタイムロスとなった。


「う、うぅん…」


「しっかりして。大丈夫!?」


「……ヤバイ、吐きそう」


「うおぉぉいっ!」


 背中にいる人物が弱音を漏らす。こんな状況で惨事を迎えられてはたまらない。


 そして励ましの声をかけながらもどうにかして目的地へと到着。彼女の自宅ではなく、僅かに距離が近い自分の家へと飛び込んだ。


「そこのドアがトイレだから。早くダッシュ!」


「う、うん。ありがと」


「ぶはああぁぁっ!!」


 靴を脱がないまま廊下に膝を突く。先にある扉を指差すと玄関マットの上に倒れ込んだ。


「ゼエッ、ゼエッ、ゼエッ…」


 どうやらギリギリ間に合ったらしい。異常なまでの達成感を実感。


 湿気のせいで室内は蒸し風呂状態に。ただその暑さが気にならないレベルで意識が朦朧としていた。


「あ~、しんど…」


「ふいぃ、助かっちゃった」


「もう良いの? お腹の痛みは治まった?」


「う~ん……まだ痛いかも」


「忠告を無視するから…」


 洗面所で顔を洗っているとトイレから出てきた人物と遭遇する。腹部を手で押さえた子供と。


「ああいう場所の水はもう口にしたらダメだよ。どうしても飲みたかったら、しばらく流してからにしなさい」


「……分かった。あぁ、苦しかった」


「大丈夫? 病院に行かなくてもいい?」


「平気。ただ動けないからしばらくここで寝かせて」


「仕方ないなぁ。元気になったら帰りなよ」


 彼女がフラついた足取りでソファへ移動。本来なら追い返したい所だが可哀想なので滞在許可を出した。


「う~ん、う~ん…」


「まだ痛い?」


「グワ~ッて感じ。こうズーンみたいな」


「擬音を使われても分からないよ。そんなに痛いならまたトイレ行ってきなって」


「そうする…」


 小さな体がゆっくりと起き上がる。芝居ではなく本当に苦しんでいるらしい。しばらくして戻ってくると先程よりも表情がゲッソリとしていた。


「大丈夫?」


「……しにそう。助けて」


「残念ながら回復呪文は使えないんだ。耐えるしかあるまい」


「あぁあ…」


 彼女がソファにへたり込む。座るというより倒れる形で。


「痛いのここ?」


「もうちょっと下。あぁ、その辺」


「下っ腹か」


 伸ばした手を腹部に移動。失礼とは知りながらも服の上から擦った。


「触って痛くない?」


「大丈夫。ちょっと楽になったかも」


「ならもうやらなくて良い?」


「ダメぇ、もっと擦って」


 会話が出来る程度には元気らしい。もし声も出せない程に重症なら有無を言わさず病院に連れて行かなくてはならないから。


「ねぇ…」


「ん?」


「アイス食べたい」


「あのさぁ、お腹が痛いって苦しんでる時にどうして冷やすような真似をするのさ」


「だって暑いんだもん」


「冷房付けてあるから我慢しなさい。直に涼しくなってくるし」


「でもぉ…」


 要望を強気な態度で一蹴。同時にテーブルに置かれていた団扇を手に取った。


「ほら、これで良い?」


「涼しい~。もっとやって」


「お腹は出さない。冷やすとまた悪化するよ」


 流れる汗を吹き飛ばす勢いで扇ぐ。ウナギを焼く職人にでもなった気分で。


「ふいぃ……だいぶ楽になってきたかも」


「まだお腹痛い?」


「ん~、微妙…」


「もう自分で擦りなよ。腕が痺れてきた」


「やだやだ、もっとやってぇ」


「本当に限界なんだってば」


 先程よりも彼女の顔に生気が戻ってきていた。反対に自身の腕が限界に。手首を掴まれた状態で綱引きをしているとドアを開ける音が聞こえてきた。



「ただいま……って何やってんのアンタ!」


「げっ!」


 視線が合うなり敵意剥き出しの目で睨みつけてくる。両手にスーパーの袋をブラ下げた華恋が。


「ち、違うんですコレは。人助けというか、自然発生的にこういう流れになってしまって!」


「はぁ?」


「お願いします、信じてください。何も悪い事はしてないんです!」


「ちょ、ちょっと。何テンパってんのよ、いきなり…」


「神に誓ってもいい。私は無実だっ!」


 助けを乞うように全力の弁明を開始。脳内に前回のトラウマがまざまざと蘇ってきた。


 再びあんな理不尽な暴力を振るわれてはたまらない。事情を理解してもらおうと必死で語り続けた。



「ん~、つまりその子が公園の水を飲んでお腹を壊したからうちに連れて来たと。そういう訳ね」


「は、はい。その通りでございます」


「まぁ、おうちの人が誰もいない家に1人だけで置いておくのは危険だもんね。雅人もよく頑張ってここまで運んで来たじゃない」


「あ、ありがとうございます!」


 どうやら状況を正しく把握してくれたらしい。しかも労いの言葉付き。


「まだお腹痛い?」


「大丈夫。ただちょっとチクチクするかも」


「無理はしなくて良いからね。我慢出来なかったらちゃんとトイレに行くんたよ」


「……ありがと、お姉ちゃん」


 華恋が病人に視線を合わせるように屈み込む。そして母親のように優しい口調で語りかけ始めた。


「ふむ…」


 彼女の意外な一面を見た気がする。いつもは暴力的か猫被りな性格しか知らないから。その新鮮な光景に少しばかり意識を奪われた。


「ちょっと、雅人。ボケっと突っ立ってないで買ってきた食材、冷蔵庫に仕舞ってよ」


「あ、うん」


「卵も入ってるからね。割らないように気をつけてよ」


「了解しました」


 テーブルの上に置いてあった袋に手をかける。慎重に持ち上げるとキッチンへ運んだ。


「この辺り? もうちょっと下かな?」


「……そこら辺。もう少し横」


「ゴメンね、ちょっとだけ服に手を突っ込むから」


 先程、自分がしていた行動を華恋が実行している。腹部を撫でる作業を。


「あっ、お肉は冷凍庫に入れといて。凍らせておくから」


「へ~い」


「冷凍と冷蔵の食品間違えないでよ」


「ういうい」


 看病をしながらも指示は怠らない。部活動の顧問のように。


 もしかしたら華恋は妹ではなく姉御肌なのかもしれない。優しそうな様子を眺めながらそんな事を考えていた。



「……すぅ」


「寝ちゃったか」


 しばらくするとソファから寝息が聞こえてくる。その発信元は気持ちよさそうに眠っている小学生。痛みがかなり引いたのか彼女は夢の世界へと飛んでいってしまった。


「可愛い寝顔。どうして子供ってこんな愛くるしい顔つきしてるんだろ」


「変な気を起こすのはやめてくれよ」


「雅人じゃあるまいし有り得ないから。あっ、風邪ひくといけないからタオル持って来て」


「ん、了解」


 和室に移動してタンスを漁る。亀のキャラクターが描かれたブランケットを小さな体にかけた。


「またお腹冷やして悪化させたら可哀想だもんね」


「華恋って案外、面倒見が良かったんだ」


「はぁ? 何よ、いきなり。これぐらい普通でしょうが」


「そうかな。イメージだと薬飲ませてほったらかしなんだけど」


「私、そこまで無慈悲な人間じゃないわよ。困ってる人がいたら進んで救いの手を差し伸べるタイプだもん」


「自分でそう言う人ってなかなか信用出来ないよね」


 2人して安穏とした時を過ごす。バラエティー番組の再放送が流れている空間で。


「ねぇ」


「ん?」


「もし私達に子供が出来たらさ、こんな感じなのかな」


「……へ?」


 テレビ欄を確認していると持っていた新聞が床に落下。ついでに空いた口から間抜けな声が飛び出した。


「アパートに部屋を借りて、同棲して……それで毎日3人で一緒にお風呂に入るの」


「あ、あの…」


「雅人が帰って来たら2人で出迎えて、休みの日には家族揃ってお出掛け」


「華恋さん?」


「私が子供に構ってばかりだから雅人がその子に嫉妬して、でももし子供が女の子だったなら私がその子に嫉妬したりするのかなぁ~とか」


「えぇ…」


 どうやら妄想を繰り広げているらしい。叶う望みが気薄な未来を。


「え~と……それはどういう意味なのでしょうか」


「はぁ? どういう意味ってそのままじゃない」


「つまり2人でどこかに駆け落ちでもするという事?」


「別に駆け落ちじゃなくても、どこか近くのアパートとか借りて暮らせば良いんじゃない?」


「この家を離れるって意味ならどっちも変わらないよ。本気でそんな事を考えてるの?」


「本気よ、本気。2人だけの生活とか憧れるじゃない」


「そんな…」


 発言が大胆すぎ。とても学生とは思えないようなビジョンの形成だった。


「ま、まぁ僕もスーパーマンになる妄想とかよくしたし」


「そういうのとは違うでしょうが。私は超現実的な話をしてるのよ」


「子供を作るってのが現実的な話なの?」


「もち」


「ひえぇぇぇっ!」


 つまりそれはそういう行為をするという事で。人間としてある一線を越えてしまうという意味を表している。想像したら羞恥心が暴走。未経験の人間には刺激が強すぎる発言だった。


「んで、いつ頃それは実現出来そうなのかしら?」


「さ、さぁ…」


「なるべく早くしてよ。歳喰ってから出産とか辛そうだし」


「……そういう話は自宅ではあんまりするべきではないんじゃないですかねぇ」


 本気で言ってるのだとしたら妄想力が強すぎる。もし家族の誰かにこの会話を聞かれたら。そう考えるだけで冷や汗が止まらなかった。



「どう? まだ痛い?」


「平気……かな。ギュルギュルが無くなってる」


 しばらくすると腹痛に苦しんでいた小学生が目を覚ます。瞼を何度も擦りながら。


「そっか。なら良かったわね」


「えへへ……迷惑かけてごめんなさい」


「なに言ってんのよ。これぐらいで迷惑だなんて事はないわよ。ねぇ、雅人?」


「ん? ま、まぁ」


 コンビーフの缶と必死に格闘中。勉強をやる予定だったのに晩御飯調理の手伝いをさせられていた。


「……固いな、コレ」


「お腹空いてない? 何か食べる?」


「ん~、空いてるけど人の家でご飯食べちゃダメってお母さんに言われてるし」


「よそ様の家に迷惑かけるなって事?」


「かな? 友達の家に行ってもご飯前には必ず帰って来いって」


「はぁ…」


 華恋が呆れたように溜め息をつく。微量な怒りの感情も含ませて。


「だったら子供といつも一緒にいてあげれば良いのに……遠慮しなくて平気。お母さん達にはお姉ちゃんが言っておいてあげるから」


「ん~、でも…」


「ならちょっとだけ食べる? シュークリームとエクレア買ってきてあるよ」


「あ、はい。食べます!」


 食欲に負けたのか病人が主張を撤回。冷蔵庫から取り出した洋菓子を美味しそうに頬張り始めた。


「ん…」


 華恋が悪態をつく気持ちも分かる。お互いにそういう境遇で生きてきたからこその不満なのだろう。


 帰って来ても誰もいない家。子供にとってそれは不安定な空間だった。



「そろそろ帰らないと。お母さん達が帰って来ちゃう」


「うん。気をつけてね」


「気をつけてって言っても家、隣じゃないか」


「……あ?」


「いでっ!?」


 華恋の帰宅から数時間が経過した頃、客人を見送る為にリビングから玄関へと移動する。その途中、鋭い肘鉄が脇腹に命中した。


「そういうのを無粋っていうのよ。バカ雅人」


「すいません…」


「まったく…」


 どうもこの子の前だと威厳を保ちたいらしい。2人っきりの時に発動するデレモードが解除されていた。


「雅人くん」


「ん?」


「今日はありがとうね。ここまで運んでくれて」


「いえいえ」


 名前を呼ばれたので視線を移す。白黒のボールを抱えた小学生の方へと。


「あと一緒にサッカーやってくれて楽しかったよ。ジュースも奢ってくれて嬉しかった」


「ほとんど飲まずに残しちゃってたけどね」


「ただ恋人になるとかはごめん。私、まだ心の準備が出来てないから」


「ちょっ…」


「じゃあ、また一緒に遊ぼうね」


「ま、待って待って…」


「バイバ~イ」


 素直にお礼を言ってくれるのかと思っていたのに。彼女の口からは他意を含んだ台詞が飛び出した。


「ほ~う、ほ~う」


「さ、最近の子供は大人びてるよね。ついていけないから驚いちゃうよ」


「……雅人」


「ん?」


「大事な話があるからちょっと来て」


「げっ!」


 2人きりになった空間で華恋が言葉を漏らす。廊下を引き返しながら。


「そ、そんな…」


 こんな流れでの説教は理不尽でしかない。紛うことなき冤罪。


「そこ、座って」


「はい…」


 リビングへとやって来ると華恋がソファを指定。素直に指示に従ってゆっくりと腰を下ろした。


「……ん~」


「どうしたの? 座らないの?」


「何て言えば良いのかしら…」


 しかし何故か本人は座ろうとしない。腕を組んだまま直立不動を維持。


「んっ…」


 もしかしたら作戦を練っているのかもしれない。どんな拷問を実行しようかと。


 様々な状況を想像して怯える。逃げ出そうかと考えていると目の前にあった身体が床にひれ伏した。


「お願いします、宿題を写させてくださいっ!!」


「……は?」


 乾いた口から情けない声が出る。呆れた気分を表した言葉が。


「どうしたのさ、急に。宿題って夏休みの?」


「そうそれ。実はまだほとんど手をつけてなくて」


「ほとんどって…」


 3日後には二学期がスタート。徹夜したとしても残された時間は60時間にも満たなかった。


 どれぐらいの量を残しているのかは知らないが、この口振りから察するにかなり危ないのだろう。全力で取り組んだとしても間に合わないレベルで。


「夏休みに入った時にちゃんと忠告しておいたじゃないか。どうしてやってないんだよ」


「やろうとは思ったのよ。けど全然進まないっていうか終わらないっていうか…」


「毎日少しずつ進めてたら普通は完了するハズだって。この1ヶ月以上もの間、何してたのさ」


「し、仕方ないじゃん。いろいろやってたんだから」


「いろいろって?」


「……雅人の身の周りの世話とか」


「じゃあ僕がバイトに行ってる間は?」


「へへへ…」


 聞かなくても分かっている。遊びほうけていたんだと。


 お盆に里帰りしていた期間を除外したとしても自由に使える時間はタップリ存在。その間、宿題に手をつけなかったのは単にサボり癖が発生していただけだった。


「もしかして大事な話ってそれ?」


「う、うん…」


「はあぁ…」


 どんな攻撃をされるのかと身構えていたのに。ビクビク怯えて損をした。


「お願いっ! 貸してくれるだけでいいからさ!」


「やだよ。まだ2日あるんだから自力でやりなって」


「だって難しい問題ばっかなんだもん。私1人じゃ無理なの!」


「自業自得。間に合わないなら放課後に居残りさせられてやりなさい」


「やぁだあぁっ!」


 どうせ部活もバイトもしていない身。時間は有り余っている。


「お願いします、お兄様。華恋には他に頼れる人がいないのです。だから…」


「あぁ、そうなの。それは大変だね」


「……こんなに必死に頭を下げてもダメですか」


「当たり前じゃん。全部自分が悪いんだし」


「そ、そんなぁ…」


 突き放していると目の前の表情が変化してきた。泣きそうな弱々しい物へと。


 こんな事をしてる間に少しでも進めれば良いのに。このやり取りこそ最も無駄な行為だった。


「あぁ~、なんか肩が凝ってきたかも」


「あっ、肩ですね。すぐに揉みます」


「いや、別にそういうつもりで言ったんじゃないんだけどなぁ」


「この辺りですか? 確かに固くなってらっしゃいますね」


 ワザとらしく腕を回してみる。直後に立ち上がった彼女が背後から接近してきた。


「お兄様はいつも頑張ってらっしゃいますもんね。お疲れ様です」


「あぁ~、気持ちいい。落ち着くわぁ」


「今晩はお兄様の大好きなカレーを作る予定ですから。楽しみにしててください」


「うむうむ」


「だから、あの…」


「ん?」


 この日は1日中華恋を利用して遊び続けた。ただ報復が怖いので宿題は写させてあげる事に。


 必死に努力する妹を眺めながら残りの休みを過ごす。そして結局、目的未達成のまま新学期を迎える事になってしまった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る