第2話 天使と悪魔

「行ってきます」


 バイト先へと出向く為に家を出る。まだ太陽が頂点に昇る前の午前中に。


 子供がいるパートさん達にとって夏休みとは子供の世話をしなくてはならない毎日。普段、夕方からしか働けない学生組とはシフトの入り時間が逆転していた。


「こんにちは」


「……こ、こんにちは」


 自宅を出てすぐの道路で声をかけられる。髪を両サイドで縛った小さな女の子から。


「ふぅ…」


 彼女には見覚えがあった。何度も顔を合わせるご近所さんとして。


「小学生かな…」


 我が家のすぐ隣には大きな一軒家が存在。しかし家主が亡くなった際に遺族が売却。相続税を払う為だったのか急な建て壊しが始まってしまった。


 代わりに広々とした空き地には二階建ての家が3軒も建てられる事に。次々に住人が越してきており、今し方出くわした女の子はその内の1人だった。



「つっかれたぁ…」


 1日の労働を終えると薄暗い道を歩く。のんびりとした足取りで。


「ん?」


 眩しく感じる西日に意識を奪われている最中、異変を察知。自宅付近の道路で今朝と同じ女の子を見つけた。


「あ、こんばんは」


「……こ、こんばんは」


「お出かけですか?」


「まぁ、そんな感じ」


 外出時とまったく同じやり取りを交わす。デジャヴに近い物を感じながら。


「む…」


 いくら子供とはいえ多少なりとも緊張感は存在。それに家族の人達に不審者扱いされても困るので素早くその場から立ち去った。


「アリの観察かな…」


 こうして彼女が1人で過ごしているのを見かけるのは今日が初めてではない。外出時は結構な確率で遭遇。


 誰かと遊んでいる訳でもないし、かといって具体的に何かをしている素振りさえ見せない。行動の全てが謎だった。



「こんにちは」


「はいはい、こんにちは」


 翌日、華恋とスーパーに買い物に行く途中にも女の子と出くわす。2人して軽く会釈しながら横を通過した。


「今の子って隣に越して来た子だっけ?」


「そうみたいだね。名前は知らないけど」


「礼儀正しいわよね~。見かけると毎回必ず挨拶してくれるもん」


「親のしつけが良いのかな? 育ちを見てればその家庭環境が分かるって事だね」


「……悪かったわね。乱暴者で」


「まだ何も言ってないじゃないか。どうして勝手に自己嫌悪に陥ってるのさ」


 どうやら彼女は通りがかる人に次から次へと声をかけているらしい。好奇心旺盛なのは結構だが、くれぐれも不審者に気をつけてほしいと心配にもなった。



「おはようございます」


「お、おはよ」


 それから何度も女の子と顔を合わせるうちに隣の住人から顔見知り程度へと認識が変化。すれ違う度に言葉を交わすようになった。


 我が家では両親が見送ってくれる習慣があまり存在していない。なので出かける際に挨拶をしてくれるというのはとても気持ちが良かった。



「し、死ぬ…」


 平日の昼間、いつものようにバイトを終えて帰宅する。珍しくランチ後にあがらせてもらう優遇っぷり。だが容赦なく降り注ぐ日差しのせいで足元がフラついていた。


「……いないか」


 待ち人の有無を確認する。いつの間にいるかいないかの賭けを心の中でするようになっていたので。


「こんにちは」


「どうも…」


 しかし今日はターゲットは道路ではなく別の場所に存在。玄関先の日陰で静かに佇んでいた。


「お帰りなさい。どこかに出掛けてたんですか?」


「え~と、バイトが終わって帰って来たとこ」


「そうなんですか。お疲れ様です」


「ありがと…」


 立ち止まっていると女の子が小走りで近付いて来る。労いの言葉を口にしながら。


「あ、あの…」


「ん?」


 動揺している事を悟られないよう退散を決意。その瞬間に再び声をかけられた。


「お兄さんの家に行っても良いですか?」


「は? どうして?」


「ん~と…」


「もしかして自宅に入れないとか?」


「え?」


「あれ? 違ったかな」


「そ、そうなんです。実は閉め出し喰らっちゃって」


 咄嗟に思い付いたシチュエーションを口にする。子供がよく出くわすトラブルを。


「あらら、それは大変だね。中に誰もいないの?」


「はい。お姉ちゃんも部活で留守にしてますし」


「お父さんかお母さんは?」


「2人とも仕事です。夜まで帰って来ません」


「むぅ、そうか…」


 この子のお姉さんは何度か見かけた事があった。自分と同じ年ぐらいの女性。けれど接点もないので連絡先を知らなかった。


「ケータイの番号とか分かる?」


「いえ、全く」


「う~ん、それは弱ったなぁ…」


 とりあえず今すぐに家へと入れる方法は無いらしい。ゼロではないが実行してはマズいだろう。ガラスなんて割ったら大騒ぎになってしまう。


「ダメですか?」


「そ、それは…」


 顎に手を当てて思考をフル回転。ジュース代ぐらい与えるべきか考えていると女の子が下から何かを訴えかけるような眼差しを向けてきた。


「……良いよ。うちに行こう」


「本当ですか!?」


「ここにいたら暑いからね。家の中なら冷房が効いてて涼しいし」


「ありがとうございます。嬉しい!」


 さすがにこの猛暑の中で子供を1人きりで放置する訳にはいかない。覚悟を決めて道路を歩き出した。


「ただいまぁ」


 鍵を差し込むと玄関の扉を開ける。奥にまで聞こえる声で挨拶をしたが返事が返ってこない。


「げっ、誰もいない!」


 運悪く全員が外出中と判明。靴箱から主な履き物が消えていた。


「入って」


「お、お邪魔します」


 とはいえ今更お客さんを追い返す訳にはもいかず。中へ入るよう促すと2人でリビングに移動した。


「あっつぅ…」


 窓もカーテンの閉められた部屋はサウナ状態に近い。鞄をソファに置くのと同時にクーラーの電源を入れた。


「どっかその辺に適当に腰掛けてて。なにか飲み物持ってくるから」


「あ、はい。ありがとうございます」


 テレビの電源も入れた後は洗面所に向かってベタついた肌を洗う。朦朧としていた意識を覚ますように。


「ん~」


 続けてキッチンに寄って冷蔵庫の中を物色。サイダーの缶ジュースが1本だけ入っているのを見つけた。


「……お茶でいっか」


 紙パックを取り出して二つのグラスに注ぐ。こぼさないように気を付けて。


「はい、お待たせ。飲んでいいよ」


「ありがとうございます」


 氷を3個ずつ加えるとリビングに帰還。クーラーの前で両手を広げていた女の子に声をかけた。


「んぐっ、んぐっ、んぐっ…」


「ぶはあぁぁーーっ!」


 2人でキンキンに冷えた麦茶を一気飲み。よほど喉が乾いていたのか彼女のグラスの中身はあっという間に空になった。


「おかわりいる?」


「え~と…」


「遠慮しなくても良いよ。まだあるから」


「ありがとうございます…」


 半ば強制的にグラスを奪い取る。再び麦茶を注いでテーブルの上に置いた。


「チャンネル変えていいよ。はい」


「大丈夫です。特に見たい番組とかないので」


「そんなに気を遣わなくても。好きなアニメとかドラマとかさ」


「この時間ってワイドショーかサスペンスドラマしかやってないんですよね。だからいつも退屈なんですよ」


「あ、そっか」


 普段ならこの時間帯はバイトか、家にいてもゲーム三昧。基本的に主婦層に向けての番組だらけなのでテレビを視聴してる事が少なかった。


「んしょっと…」


 一段落ついた後は自室でベトベトのシャツを脱ぐ。いつもならシャワーを浴びるのだが今日は着替えるだけで終了。


「雅人くんも一緒にテレビ見ようよ」


「え? あ、うん……ていうかどうして名前知ってるの!?」


「ん? だっていつも一緒にいる人が呼んでるじゃない。雅人~って」


「……あぁ、華恋か」


「あれ? もしかして違った?」


「いや、合ってるよ。よく覚えてたね」


 そしてリビングに戻って来た後は衣類をカゴの中へ。続けて女の子と会話を始めた。


 もしかしたら自宅での会話が漏れていたのかもしれない。夏場は窓を開きっぱなしの時もあるし、華恋は声が大きいから。


「ねぇねぇ、雅人くんは私の名前知ってる?」


「いや、分からないよ」


「知りたい? 知りたい?」


「まぁ…」


 ソファに腰掛けて親しくもない児童と交流を図る。年齢が離れているので親戚の子供と戯れる気分で。


「すみれっていうの。可愛いでしょ」


「すみれ……花の名前の?」


「そうじゃないかな。どんな花かは知らないけど」


「結構難しい字だった気がする…」


「私の名前は漢字じゃないよ。平仮名ですみれ」


「あ、そうなんだ」


 言葉を重ねる毎に彼女の口調が馴れ馴れしい物に変化。少々の戸惑いはあったが、見知らぬ人間に挨拶する性格を考えたら納得出来た。


「キャハハハハ!」


「面白い?」


「うん。面白いよ~」


 その後は2人でゲームをやる事に。いい時間潰しになると判断して。


 ただ途中からは彼女が1人でプレイ。バイト後の疲労が原因で早々にギブアップ宣言を出していた。


「……すみれちゃんの家族は何時頃に帰って来るかな」


「ん~、分かんないです」


「お父さん達よりお姉ちゃんの方が早い? 何時ぐらいに帰って来るか分かる?」


「いつも夜遅くなってから帰って来ます。お姉ちゃん、部活やってるから」


「あっちゃあ…」


 だとしたら家族が帰って来るのは早くても日が沈んでからになる。それまでこの子を家で預かっておかなくてはならないらしい。


「遅いなぁ。母さん達…」


 ソファから首だけ出して廊下を凝視。期待している助っ人が誰も現れてはくれなかった。


「ねぇ、雅人くんはやらないの? ゲーム」


「え? あぁ、良いよ。お兄ちゃんはいつもやってるし」


「ん~、でも飽きてきちゃった……です」


「マジですか…」


 予想よりかなり早い。まだ1時間はこれで粘れると思っていたのに。


 辺りを見回してみたが暇潰し出来そうなアイテムは皆無。チャンネルも変えてみたがサスペンスドラマと通販番組しか放送していなかった。


「なら漫画でも読む? 上の部屋に行けばあるけど」


「ありがとうございます。私、漫画大好きなんです」


「へぇ、そうなんだ」


 ゲームの電源を落とすとリビングを出る。廊下を歩き階段へと移動した。


「あのさ、少年漫画と少女漫画ならどっちが良い?」


「少女漫画です。男の子向けのは読んだ事ありません」


「だよねぇ…」


 しかしその行動は途中で中止。引き返す為に上がってきた段差を戻った。


「こっちこっち」


「うん」


 部屋主に許可は得ていないが仕方ないだろう。華恋には無断で客間へと侵入した。


「その辺にあるの適当に漁っちゃって良いよ」


「わぁ~、いっぱいある。全部雅人くんの?」


「いや、妹の。ここ妹の部屋だから」


「凄いなぁ。私とお姉ちゃんのを合わせた数より多いかも」


 彼女が部屋の一角に手を伸ばす。乱雑に積まれたコミックの山へと。


「あ、ここで読む?」


「え? ダメ?」


「ダメっていうか、その……まぁいいか」


 この子なら荒らす可能性も低い。リビングに引き返そうとしていた意思をかき消した。


「ふぅ…」


 床に体育座りする女の子を視界の中に収めながら学習机の椅子に腰掛ける。ポケットからケータイを取り出すのと同時に。


「ふぁ~あ…」


 その後はしばらく言葉を交わさないまま過ごした。それぞれ読書とゲームに夢中になりながら。


「……お腹空いてきちゃったぁ」


「お昼はどうしたの? 何か食べたの?」


「ん~と、ポップコーンとラスクとゼリーかな」


「え? それだけ?」


「あれ? 少ないですかね?」


 1時間近くが経過した頃に状況が変化する。来客が体調異変の不満を漏らし始めた。


「ラ、ラーメンなら作れるけど?」


「ん~、でも今食べちゃうと晩御飯が入らなくなっちゃうし」


「あ、そっか」


「あと知らない人から食べ物を貰うなってお母さんにも言われてるから」


「知らない人ねぇ…」


 いくらご近所さんとはいえ彼女の両親から見たら自分は他人も同然。勝手に食料を与えるのは様々な理由でマズいらしい。


「雅人くんはいつもお母さんにご飯作ってもらってるの?」


「そだね。あとは妹が用意してくれたり」


「良いなぁ。私はいつも冷凍食品ばっかりだよ」


「お母さんって何やってる人なの?」


「分かんないです。ただ会社の偉い人とか何とか」


「管理職とかかな…」


 もしくは自分のお店を持っている経営者という可能性もある。会社の付き合いや残業で両親共に遅くなってしまうかもしれない。


 我が家も同じような境遇だから共感出来た。帰って来ても誰も出迎えてくれない淋しさが。


 高校生の自分達は既にその環境に慣れてしまったが目の前に座っている女の子は違う。まだ親の愛情に飢えている年頃だった。


「お姉ちゃんは料理上手なの?」


「下手くそです。お母さんもあまり上手くないし」


「壊滅的だね…」


「お父さんの方がまだマシかな。面倒くさがり屋だから作らないけど」


「こっちに引っ越してきたのはお父さんかお母さんの会社の都合?」


「違いますよ。前はマンションに住んでたんだけど一軒家に引っ越したんです」


「あぁ、夢のマイホームってヤツか」


 以前住んでいた街はここからあまり離れていないらしい。話を聞くと車で30分も走れば辿り着ける場所だった。


「お姉ちゃんは学校そのままだけど私は転校しないといけなかったんですよ」


「そうなんだ。義務教育はその地域の学校に通わないといけないからね。私立でも通ってない限り」


「あと半年で卒業だったのに。どうしてこのタイミングで引っ越すかな…」


「ほう。なら今は六年生なんだ?」


「そうそう」


 いつの間にか互いに手を止めて会話に没頭する。愚痴を交えた発言の応酬へと。


「お父さんもお母さんも私やお姉ちゃんにはいろいろ言うクセに、自分達は何も守らないんだよ」


「いろいろ言うのは子供の事が心配だからさ。理不尽に感じる事は多々あるけども」


「好き嫌いするなって言うクセに、お店で出された料理が美味しくないと残すし。どう思う?」


「あはは、それは勝手だね」


「お姉ちゃんも最近はカレーばっかで手抜きの連続。本当にみんな自分勝手なんだから」


「カレーは美味しいからそれは別に良いんじゃないかな、うん」


 しっかりしてそうな子とはいえ不満はたくさん存在。鬱憤が相当溜まっていたのが怒りを含んだ口調で分かった。


「ねぇ、プロレスごっこやろ」


「へ? 何で?」


「いいから、ほら!」


「ちょっ……イデデデデデッ!?」


 突然立ち上がった対話相手に腕を絡め取られる。そのまま背後に回られた事で肘や肩にダメージが発生。


「ギャハハハハハ!」


「痛いからそろそろ離して!」


「ギブ? ギブ?」


「ギブアップでお願いします!」


 即席の試合は開始から僅か数秒決着する事に。降参の意思を示すように手をブンブンと振った。


「雅人くん、弱すぎ~」


「いきなりやられたら誰だって反応出来ないって」


「じゃあ次は私が技をかけられる番ね」


「え? まだやるの?」


「当然。さぁ来い!」


 目の前にいる人物は妙に滾っている。空腹感を吹き飛ばしそうな勢いで。


「うりゃーーっ!!」


「ちょっと髪の毛が引っ掛かってる!」


「あ、ごめんごめん」


「隙あり!」


「ひ、卑怯者…」


「はははは、油断するそっちが悪いのだ!」


 仕方ないので子供の暇潰しに便乗。最初は妥協しての参戦だったが途中からは目的が変更。状況を忘れて夢中になっていた。


「はぁ、しんど…」


「ねぇねぇ、早く続きやろうよ~」


「少し休憩……疲れちゃった」


「え~」


 とはいえ子供と帰宅部の学生では体力も回復力も違う。床に寝転がった瞬間に心臓が爆発的にヒートアップした。


「さっきさ」


「ん?」


「私のお尻触らなかった?」


「いや、触ってないし」


「本当かなぁ。怪しい…」


「触れたとしても不可抗力だって…」


 息切れしていると有り得ない疑惑をかけられてしまう。無実と証明するのはほぼ不可能な疑いを。


「エッチ、すけべ」


「ぐっ…」


「変態、ロリコン」


「だからそれは…」


「お巡りさんに通報しちゃお~っと」


「コイツ!」


「ギャーーっ、怒った!」


 敢えて挑発に乗っかってみる事に。首に腕を回し、更に足で体を固定した。


「やだやだ、もう!」


「そういう悪い事を言うと本当に触っちゃうぞ!」


「キャハハハハッ! やっぱり雅人くんは変態さんだった」


「ほれほれ、抵抗してもムダだぜ。お嬢さん」


「やだぁあぁぁっ! 誰か助けてぇーーっ!!」


 2人して無邪気にハシャぐ。数時間前に自己紹介したばかりという間柄を忘れて。


 疲れはするが気分が不思議と清々しい。ついでに懐かしさまで湧き出してきた。


「……は?」


「げっ!」


 悪役になりきっているとすぐ隣にある襖がゆっくりと開かれる。内側からではなく外側から。その先には1人の人物が存在。帰宅した華恋が唖然とした表情でこちらを見下ろしていた。


「ちょ、ちょっとアンタ……こんな所で何やってるのよっ!」


「いや、これはその…」


「人の部屋に勝手に上がり込んで……てかその子、女の子じゃない!!」


 彼女が激しく取り乱す。拳を震わせながら。


「人の留守中に女を連れ込んでるとはどういう事じゃああぁあぁぁっ!!」


「き、聞いてくれ。これには深い訳があって…」


「しかも身動きをとれなくしてるとか、貴様……貴様っ!!」


「違う違う、勘違いだから!」


 すぐさま言い訳を展開。体勢を変えて立ち上がった。


「お姉ちゃん、助けて!」


「え?」


「あのお兄ちゃんに無理やり連れ込まれたの」


「は、はぁ!?」


 しかし事態が思わぬ方向に転がっていく。一緒に暴れていた対戦相手が華恋の元へと接近した。


「私が嫌だって言ったのにここに引っ張ってきて、そして……抱きついてきた」


「ちょ、ちょっと待って!」


「やだっ! こっち来ないで」


「え? 何、アナタ。この人に無理やり連れて来られたの?」


「うん。外で遊んでたら『お兄ちゃんちに来ない?』って声をかけられて」


「アナタ、お隣の子よね。大丈夫だった?」


「こ、怖かった。変な事されるの嫌だった……グスッ」


「……そっか。嫌な思いさせちゃってゴメンね。もう平気だから」


 彼女が先程までと打って変わって泣きそうな顔を浮かべていた。ワザとらしく目を擦りながら。


「違うって。何を言ってるのさ…」


 意味が分からない。頼まれた遊びに付き合ってあげただけなのに。パニックに陥っている間にも2人は至近距離で会話を進めていた。


「お家帰れる? 1人で大丈夫?」


「うん、平気。お姉ちゃんが助けに来てくれたから助かったよ」


「そう。なら早く玄関から逃げて良いわよ。後はお姉ちゃんが何とかしておくから」


「本当に? ありがとう!」


「いやいや…」


 小さな体が隣の部屋の奥へと消えていく。この場から逃走するように。


 彼女は去り際にワンアクションを追加。重ね合わせた両手をこちらに向かって掲げてきた。


「……このクズ男がぁ」


「うぇえ…」


 追いかけようとしたが出来ない。目の前にいる人物が思い切り襖を閉めたせいで。


「……そこに正座しろや」


「へ?」


「正座。早くしろ」


「き、聞いてくれ。さっきあの子が言ってた話は…」


「正座しろっつってんだよ! 聞こえねぇのか、うらあぁぁああぁぁあぁっ!!!」


「は、はいぃっ!? スミマセンでしたっ!」


 緊迫した状況を打破する為に説明を試みる。しかし途中で中断。蹴られた椅子の音と罵声に怯み、思わず指示に従ってしまった。


「信じてたのに。アンタは犯罪に走るような汚い人間じゃないって信じてたのに…」


「いや、だから…」


「私の事を裏切らないって……もう絶対に他の女の方を向く事なんか無いって思ってたのに」


「あの…」


 俯いていると頭上から嗚咽が聞こえてくる。悲痛な感情を表した台詞が。


「なんで……何で何で何でっ!」


「ちょ、ちょっと落ち着こう。とりあえず深呼吸を…」


「どうして小さな女の子に手を出す卑怯な真似なんてしたのよ。答えなさいっ!」


「聞いてくれ。僕は本当に無実なんだ」


「うるさいっ! 言い訳すんなっ!!」


「おぼぇっ!?」


 宥めようとした所に強烈なパンチが顔面に直撃。脳を激しく揺さぶる攻撃を喰らってしまった。


「バカバカバカバカっ!」


「いで、いででっ!?」


「死んじゃえ、このアホーーッ!!」


「本当に死んじゃうぅぅぅっ!」


 その後も理不尽な制裁を受け続ける。無慈悲な暴力を。


 まさか人助けした末に恩を仇で返されるなんて。しかもその相手が無邪気な子供だから余計にタチが悪い。


「ぐっふぅ…」


 必死で許しを乞うが聞き入れてもらえず。意識を失うまで凄惨な拷問は続いた。

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